「機動警察パトレイバー」とゆう作品系列に色濃く見えてる、『遊び』のフンイキ…とゆうコトにつぃて、また少々。まったくもってタマタマなンだけど、近ごろ永井豪「マジンガーZ」(1975)のまんがをチラホラと再読する機会があったンだが。
そーして想ったのは、『この悪のボスであるドクター・ヘルとゆうヒトは、ホントに≪世界征服≫をする気があンだろーか?』…とゆうコトだった。ソコにいたるまでの『プラン』てモンが、どーにも見えないとゆうか。イロイロと理由をツケてはいるンだけど、けっきょくはマジンガーZらと、じゃれ合いたぃだけなンじゃねーのか…とゆう気がしてならない。
(かつ、おなじみの大幹部≪あしゅら男爵≫の思ワクは、ボスとはまたチガぅ。すなーちカレは『機械獣』の破壊力を用いて、『このくされきった世の中を』叩きツブす、自らの手で『世界をほろぼす』…ナドと、近ごろわれわれが言う『中二病』チックなコトをゆってやがるッ!)
と、こーゆうムカシのまんが(アニメ)の≪悪役≫らをいま見ると、『勧善懲悪のSFアクションとゆうジャンルの“構成上の要請”により、“目的論テキに設定”された』、とゆうシロモノに感じられてクる。で、ソレに対し…。
近ごろ筆者は、まんが版「パトレイバー」のスター的(?)悪役の≪内海課長≫につぃて、『かの≪デスラー≫や≪シャア≫らには及ばぬまでも』…なンてコトをカィたが。ソコで名が出た2巨頭らがSFアニメの悪役・カタキ役として、ドクター・ヘルあたりとは世代が異なり中ミが異なる感じ、とは想える。2人とも(相対的には)目的意識を持って合理的に行動してるワケだし、かつ、ジンブツとしての存在感がひじょうに大でもあり。
そのよーに『アニメ史』の中で、Late 1970'sにチョッとした革新があり、そーして悪役像とゆうモノも変化をきたした…とゆうのは誰もが知るコトだが。けれども≪内海課長≫はソレを追って、1つの≪転覆≫をヤラかしてくれてンのだ。
つまり古風な悪役らをいま見れば、『実は遊んでる、とゆうふーにしか見えない』とゆうトコを内海カチョーは、逆に肯定してる。悪の側での『合理性』を装いながらもカレは、『実はまったくもって遊んでるだけ』、とゆう悪役をイシキして演じてるのだ。ソコにいたっては逆に、レイバー隊とゆう善玉の方が、カレの遊びに必須な要素として『その存在を要請される』…とまでなってそーな感じッ!?
で、ワリに近年の作でそーゆうハナシをナニか知ってるなァ…と想ったら、浦沢直樹「20世紀少年」(2000)に、なかなか近ぃトコがある。コレは映画にもなった話題のまんがなのでご存じかと想うけど、その作中のカタキ役で≪ともだち≫を名のるオトコは、よーするに主人公らと『遊びたい』がタメだけに、幼時の『ごっこ』の延長として、次々と悪いコトをするのだった。
で、その「20世紀少年」とゆう作品には明らかに、1960'sのSFまんがへのオマージュとゆう性格がベッタリとツィている。モトの同級生である主人公らは、そんなモンに傾倒してたコドモ時代のコトをすっかり忘れてるケド、しかし≪ともだち≫はず~っとそのコドモ時代のドリ~夢に生きている。『趣味の世界』をゼンゼン卒業しないし、しようと想ってない。そして内海カチョーにしろ≪ともだち≫にしろ、デスラーやシャア以前のオールドタイミーな悪役らの行動様式を、逆にイシキ的に反復するのだ。
デスラーはもちろんシャアにしろ、その人物像には、≪オトナ≫だとゆう面がある(…カレらのカツヤクする「ヤマト」や「ガンダム」が、『オトナの鑑賞にもたえる作』、とか言われる理由の1つ)。少なくとも、ヒトをつかまえて『ボーヤだからさ』とかゆうヤツは、自分はオトナだと想ってるハズで。
けれど内海と≪ともだち≫は、オトナ特有のワル知恵や行動力を大いにそなえておりつつも、しかし根本テキには≪コドモ≫以外でない。オトナとしての手段やチカラを使うけれど、行動の理由や目的が≪コドモ≫以外でない。
そしてこの21世紀初頭、いいトシしながらアニメとか見るにも、『コレは“オトナの鑑賞にもたえる作”だから』…ナドと言い訳をするヤツは、いまやもういない。トシは喰っても稚気がゼンゼン抜けないよーなヤカラ(オレ含む)があふれてるゲンザイに、内海カチョーや≪ともだち≫のよーな悪役像は、アップ2デートだとゆえるのかもなァ…と、コレらを見ていて筆者は考えたのだッた。ではまたっ!
2009/11/03
2009/11/01
襲撃!『中二病』ゾンビの猛威! Pt.3 - パトレイバー(5)
(『Pt.2』からの続き…)まことにかってながら現在、筆者がひじょうにグッタリしてるワケは、以下をつぃさっき知ったからだ。すなーち。
ココまでの「機動警察パトレイバー」談義にて筆者は、ゆうきまさみによるまんが版を『原作』と称してキたが。しかしコレは(意外にも?)、フツーの意味での『原作まんが』ではないらしぃ。
かとゆってソレは、逆にいわゆる『コミカライズ版』なワケでもない。「パトレイバー」の原案者がゆうきセンセであるにはチガイないンだが、しかしさいしょからアニメ化へ向けて集団的に企画されたタイトルなので、ゆえにアニメでは『原作・ヘッドギア』とゆう集団(おそらく押井カントクを含む)の名義でクレジットされてンだとか。
なるほどねェ…。何ンかフンイキがおかしぃ、とは想ったンだ! 正直なところ、『ハメ』をカマされた気分だが! にしてもココまでをご覧になった方々におかれては、きっと『コイツ分かってねェな』とお感じのハズで、まことシツレイしました~!
で、そーとするとココまでのハナシは成り立ってンのか?…とゆうギモンも生まれがちだ。つまり『“原作”まんが vs 押井版アニメ』の対立軸を語ったよーなトコが多少はあったかと想うけど、ソコらがどーにもあやうぃ感じ。
が、でもあまりそーゆうコトは気にしない。つか自分では気になるンだけど、でも気にしないで進める。
にしても少々は『もよう』を修正して、次のように申し上げとこう。「パトレイバー」シリーズ全般の特徴として、主人公らのレイバー隊がフツーの警察とは異なるよーに、ソレに対する悪役らの側も、現にいるよーなフツーの犯罪者らとは毛色が異なる気配あり。その特徴はまんが版においてひじょうにきわだっており、特に≪内海課長≫(および、カレの手下のバド少年)の大カツヤクはきわめて印象テキだ…として。
で、さぁソレでは、われらが押井守カントクの代表作の1コかのよーにも言われる劇場版「パトレイバー」2本においての悪役らのジンブツ像は、どのよーだろうかッ? …とゆう問題意識が、あたかもあったかも、のよーにハナシをスリ換えた上で。
そーしてわれわれは押井劇場版「パトレイバー」の1本めに続き、その2本め(1993)を検討すンのだが。このさいランボーにゆっちゃえば、その作品は『中二病フェスティバル』くれーに形容デキる。
…とだけゆってヤメたぃ気がすンだけど、オトナの行動としてソレはないよーに想うので、なるべくカンタンに補足いたす。さきに見たよーに劇場版1本めの悪役は、分からぬなりにもチョコっと≪共感≫デキなくもない、けどサッパリ分からない…とゆう感じのヤツだった。しかし2本めの悪役らは、分かるも分からないもアホとしか想えない。
かつその所業を『遊び』とゆうには、どーにも茶目っけが不足すぎだ。どーゆう所業かとゆうとソイツらは、ごテイネイな陰謀をめぐらして自衛隊と警察との対立をあおり、そして『国家の非常事態』を演出する。
そしてニッポン国はクーデター前夜のよーな大騒ぎになるのだが、しかし何ンとその首謀者らには、クーデターを『成功』させようとゆう気がない。政権を奪取しよーとゆう意図がなくて、単に国家テキな大騒ぎを起こしたいだけなのだッた。確かコレにはレイバー隊の≪後藤隊長≫も劇中で、『どーゆうナンセンスなの?』のよーに呆れてたハズで。
…「パトレイバー」シリーズの描くジンブツ像について、前に筆者は≪酔狂≫とゆうコトバを用いたが。その酔狂さがココに、困ったカタチできわまってるかと見れる。
ところで事件の本格化に先だって後藤隊長に、自衛隊方面の情報部員を名のるオトコが接触してクる。さいしょは『事件に関する情報交換を』…とゆう口実でだったが、2人がやや打ちとけるにつれて、コイツがおかしぃコトを言い出してクる。いわく、『こンな社会のギマン的な“平和”とやらをオレらが守ってて、何ンかイミがあるのかねェ?』…とか何ンとか。
とゆうモノを見て、オレごときが『上から目線』の申しようでスマンが、このテのヘリクツこそアッパレなる『中二病』の症候にマチガイない。『(子供基準での)政治や社会の矛盾を批判してみたり』と、ゆわれてるヤツだ。で、ソレをフケた坊ちゃんが敢行してやがるのが、どーにも可愛げなく見苦しぃ。
かつ、いちおうその場では伏せられたコトだが、このお芝居を見たら即、『コイツはクロだな。』と気づかねばウソだろう。じっさいコイツは悪党の一味で、デキるならわれらの後藤隊長をも、その無イミな悪事に巻きこもーとしてるのだった。
そして、この『中二病』チックな悪党らが、他ならぬ後藤隊長を抱き込もうとしてるコトには、理由がないとも言えない。
ナゼならば『中二病』はキホン的に≪独身者≫をむしばむ症候であり、そしてわれらのタイチョーもまた(いいトシしてナゼか)、その独身者だからだ。つぃでに見とくと後藤の同僚としておなじみの≪しのぶサン≫もまた独身なので、この悪党どもから『キミには分かるよネ?』ナドと、イヤな≪共感≫を期待されちまうのだッた。
アタリマエだが配偶者やコドモがあって、そしてこのよーなバカな『遊び』に参加とか、デキない…つか、ヤろーと想うワケがない。この騒動のおかげで、まっとーな家庭人をきわめようとしてる≪進士隊員≫がこーむった甚大なるメイワクは、けっして無イミに描写されてンのではない。
がしかし、いいトシして独身であれば『中二病』だと限ったワケでもないので、われらのタイチョーたちはそんな誘いには乗らない。…トーゼンだ。
けれどもカレらが『ゼンゼン考慮外!』…とゆう感じの反応もしてないのは、やっぱ『中二病』とゆうアチチュードが(その当人となれば)、ビミョーにも魅力あるモンだからなのだろーか? 『ゾンビが怖ければ、ゾンビになってしまえ』とゆう格言があるよーだが、コレはソレなのだろーか?
ともあれ、われらがレイバー隊らのカツヤク等によって劇中で、『中二病男児の理想郷!!』…的なモノの実現は阻止される。ソレを見て想えば、『実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束する』、とゆう『中二病』患者らの性向は、確かに失笑モノかも知れない、が…。
しかしそンなツマラねぇ≪行動≫とかをヤラかしてくれるよりは、『そのまま収束』で終わってくれた方が、よ~っぽどマシだとゆうコトが知れよう。…このハナシは、どっかに続く。
ココまでの「機動警察パトレイバー」談義にて筆者は、ゆうきまさみによるまんが版を『原作』と称してキたが。しかしコレは(意外にも?)、フツーの意味での『原作まんが』ではないらしぃ。
かとゆってソレは、逆にいわゆる『コミカライズ版』なワケでもない。「パトレイバー」の原案者がゆうきセンセであるにはチガイないンだが、しかしさいしょからアニメ化へ向けて集団的に企画されたタイトルなので、ゆえにアニメでは『原作・ヘッドギア』とゆう集団(おそらく押井カントクを含む)の名義でクレジットされてンだとか。
なるほどねェ…。何ンかフンイキがおかしぃ、とは想ったンだ! 正直なところ、『ハメ』をカマされた気分だが! にしてもココまでをご覧になった方々におかれては、きっと『コイツ分かってねェな』とお感じのハズで、まことシツレイしました~!
で、そーとするとココまでのハナシは成り立ってンのか?…とゆうギモンも生まれがちだ。つまり『“原作”まんが vs 押井版アニメ』の対立軸を語ったよーなトコが多少はあったかと想うけど、ソコらがどーにもあやうぃ感じ。
が、でもあまりそーゆうコトは気にしない。つか自分では気になるンだけど、でも気にしないで進める。
にしても少々は『もよう』を修正して、次のように申し上げとこう。「パトレイバー」シリーズ全般の特徴として、主人公らのレイバー隊がフツーの警察とは異なるよーに、ソレに対する悪役らの側も、現にいるよーなフツーの犯罪者らとは毛色が異なる気配あり。その特徴はまんが版においてひじょうにきわだっており、特に≪内海課長≫(および、カレの手下のバド少年)の大カツヤクはきわめて印象テキだ…として。
で、さぁソレでは、われらが押井守カントクの代表作の1コかのよーにも言われる劇場版「パトレイバー」2本においての悪役らのジンブツ像は、どのよーだろうかッ? …とゆう問題意識が、あたかもあったかも、のよーにハナシをスリ換えた上で。
そーしてわれわれは押井劇場版「パトレイバー」の1本めに続き、その2本め(1993)を検討すンのだが。このさいランボーにゆっちゃえば、その作品は『中二病フェスティバル』くれーに形容デキる。
…とだけゆってヤメたぃ気がすンだけど、オトナの行動としてソレはないよーに想うので、なるべくカンタンに補足いたす。さきに見たよーに劇場版1本めの悪役は、分からぬなりにもチョコっと≪共感≫デキなくもない、けどサッパリ分からない…とゆう感じのヤツだった。しかし2本めの悪役らは、分かるも分からないもアホとしか想えない。
かつその所業を『遊び』とゆうには、どーにも茶目っけが不足すぎだ。どーゆう所業かとゆうとソイツらは、ごテイネイな陰謀をめぐらして自衛隊と警察との対立をあおり、そして『国家の非常事態』を演出する。
そしてニッポン国はクーデター前夜のよーな大騒ぎになるのだが、しかし何ンとその首謀者らには、クーデターを『成功』させようとゆう気がない。政権を奪取しよーとゆう意図がなくて、単に国家テキな大騒ぎを起こしたいだけなのだッた。確かコレにはレイバー隊の≪後藤隊長≫も劇中で、『どーゆうナンセンスなの?』のよーに呆れてたハズで。
…「パトレイバー」シリーズの描くジンブツ像について、前に筆者は≪酔狂≫とゆうコトバを用いたが。その酔狂さがココに、困ったカタチできわまってるかと見れる。
ところで事件の本格化に先だって後藤隊長に、自衛隊方面の情報部員を名のるオトコが接触してクる。さいしょは『事件に関する情報交換を』…とゆう口実でだったが、2人がやや打ちとけるにつれて、コイツがおかしぃコトを言い出してクる。いわく、『こンな社会のギマン的な“平和”とやらをオレらが守ってて、何ンかイミがあるのかねェ?』…とか何ンとか。
とゆうモノを見て、オレごときが『上から目線』の申しようでスマンが、このテのヘリクツこそアッパレなる『中二病』の症候にマチガイない。『(子供基準での)政治や社会の矛盾を批判してみたり』と、ゆわれてるヤツだ。で、ソレをフケた坊ちゃんが敢行してやがるのが、どーにも可愛げなく見苦しぃ。
かつ、いちおうその場では伏せられたコトだが、このお芝居を見たら即、『コイツはクロだな。』と気づかねばウソだろう。じっさいコイツは悪党の一味で、デキるならわれらの後藤隊長をも、その無イミな悪事に巻きこもーとしてるのだった。
そして、この『中二病』チックな悪党らが、他ならぬ後藤隊長を抱き込もうとしてるコトには、理由がないとも言えない。
ナゼならば『中二病』はキホン的に≪独身者≫をむしばむ症候であり、そしてわれらのタイチョーもまた(いいトシしてナゼか)、その独身者だからだ。つぃでに見とくと後藤の同僚としておなじみの≪しのぶサン≫もまた独身なので、この悪党どもから『キミには分かるよネ?』ナドと、イヤな≪共感≫を期待されちまうのだッた。
アタリマエだが配偶者やコドモがあって、そしてこのよーなバカな『遊び』に参加とか、デキない…つか、ヤろーと想うワケがない。この騒動のおかげで、まっとーな家庭人をきわめようとしてる≪進士隊員≫がこーむった甚大なるメイワクは、けっして無イミに描写されてンのではない。
がしかし、いいトシして独身であれば『中二病』だと限ったワケでもないので、われらのタイチョーたちはそんな誘いには乗らない。…トーゼンだ。
けれどもカレらが『ゼンゼン考慮外!』…とゆう感じの反応もしてないのは、やっぱ『中二病』とゆうアチチュードが(その当人となれば)、ビミョーにも魅力あるモンだからなのだろーか? 『ゾンビが怖ければ、ゾンビになってしまえ』とゆう格言があるよーだが、コレはソレなのだろーか?
ともあれ、われらがレイバー隊らのカツヤク等によって劇中で、『中二病男児の理想郷!!』…的なモノの実現は阻止される。ソレを見て想えば、『実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束する』、とゆう『中二病』患者らの性向は、確かに失笑モノかも知れない、が…。
しかしそンなツマラねぇ≪行動≫とかをヤラかしてくれるよりは、『そのまま収束』で終わってくれた方が、よ~っぽどマシだとゆうコトが知れよう。…このハナシは、どっかに続く。
2009/10/31
襲撃!『中二病』ゾンビの猛威! Pt.2 - パトレイバー(4)
(『Pt.1』からの続き…)「機動警察パトレイバー」を見てく前に、チョッと余談を。追って調べてみたら、ネット上の話題として『押井守-と-中二病』は、けっこー言われてるコトだと知った。
どーゆうコトかとゆうと、われらのカントクがヒト前で不用意なおしゃべりをワリとなされがちなので。するとネットピープルが『ッたく押井は中二病でェ』…みたく反応する、的な。
(このテのネット用語はだぃたぃそうだが、いっきなし『上から目線』で、モノが言われてる。ヒトに対して『空気を嫁』とゆうヒトは、自分は空気が読めてると想ってるし。かつヒトを『中二病』と診断するヒトは、自分は異なると想ってるのだろう)
…そーゆう見方が現にある、と知った上で眺めれば。さきにご紹介した「学園黙示録」第5巻の帯に並んだスイセン文2本が、ヘンなイミ作用をきたしてるよーにも見えてクる。カンタンに申せば賀東氏が自らもろともにわれらの押井カントクもまた、リッパな『中二病男児』だとおおせかのよーな。
そのよーな記号作用が意図テキに演出されてンだとは、まさか想わないが。にしてもこのよーに、「学園黙示録」とゆうまんが本の上で運悪く(?)、『押井守』と『中二病』、とゆう2コの単語が出遭(いそこな)い、その場でヘンにイミありげな2ショットが構成されちまッてる。とゆう眺めを見て筆者は、何ンとな~く面白いと想わンでもないのだッた。…と、余談はココまでにして…。
さぁて「機動警察パトレイバー」のハナシだが、われわれが前回の堕文にて見た『趣味人』テキな悪役≪内海課長≫の造型。カレたちの特異なる所業らが、原作まんが全編のハシラをなすモノであろーかと、われわれは考えた。
とゆう地点から、押井守カントクによる「機動警察パトレイバー」の劇場映画版、その2本を見返せばッ? 最初からチラホラ想ってたコトだが、その押井劇場版「パトレイバー」2本につぃて、オハナシの中心に存在してるよーな≪事件≫らを起こす連中が、どーにも『マトモな犯罪者』とは言いがたい。『ナゼそんなコトを?』とゆう動機の部分に、よくは分かりがたぃモノがある。
比するなら「イノセンス」なンてのもワケ分からな気味な映画だが、しかし劇中の黒幕の動機は『不正な手段を用いても、大もーけしたい』…と、いたってシンプルだ。いわばソコには、『マトモな悪人』とゆうテイサイがある(!)。けれどそーゆう分かりやすさ(の断片)が、押井劇場版「パトレイバー」2本の方にはない。
『ナゼそーなのか』…とゆうコトを、ただ考えてても分かンなかったが。しかし原作まんがをひととーり見た上では、ソレがワリと分かったよーな気に…(前にもゆったが、筆者は「パトレイバー」シリーズについてごく最近まで、ほぼ何も知らンかった。まず押井劇場版2本を見てから、追って他のシリーズ作らに触れつつある)。
つまり押井劇場版「パトレイバー」2本に出てるストレンジな悪役たちは、原作まんがの生み出した『新味ある悪のヒーロー』である内海へと対抗してンのだ。そのカマエからカレらは、何ンかこう常人には割り切れず≪共感≫あたわざるよーな動機によって、その悪事らにハゲんでみせたのだ。
そして前向きにとらえるならば、その部位において押井劇場版「パトレイバー」2本は、原作まんが以来のシリーズの特徴を、チャンと継承してンのだ…とも言える。つまり原作でゆうきまさみセンセが描いておられるのは、レイバー隊がフツーの警察とはかなり異なるよーに、その敵手らもまた、フツーの犯罪者らとはかなり異なる…とゆう物語だし。
…何ン度もゆったコトだが、対峙してる双方に、抜きがたき『遊び』のフンイキがある。とゆうトコが、一般テキなSF警察モノに対して「パトレイバー」が≪差異≫をなしてる部位だ。そのフンイキを楽しめないヒトには、「パトレイバー」は楽しめないよーな気がする。
(ところがだ、「パトレイバー」シリーズ諸作の中で押井劇場版2本がやや浮いてンのは、1つ申すと、その『遊びのフンイキ』がややウスぃとゆうコトだ。ソコは、気にしとくべきポイントかも?)
で、見てれば内海はケシカらぬ悪党にはチガイないが、しかしナゼだかストレートには憎みきれぬヤツ…と感じるとすれば、ソレはわれわれがレイバー隊と内海とのカケ合いに、モンダイの『遊び』とゆうモノを見てるからだろう。そーであれば内海の想うツボなンだが、しかしそうだ。原作「パトレイバー」が面白い作品だと感じられる理由の半分くらぃは、内海による劇中の『演出』らが面白ぃからだ。
と、そのよーに。『悪のヒーロー』として≪デスラー≫や≪シャア≫らに及ぶまではイカぬにしろ、しかしカレらとはまた異なるニューテイストを魅せた内海課長がいて…。追ってそのカレに対抗し、またフカシギな悪事をなした、押井劇場版「パトレイバー」2本の悪役たちがいて…。
けれども後者らが、内海カチョーに匹敵するよーな『オモシロ演出』を、その劇中でなしえたかとゆうと…ッ!?
とまでを見てから、押井劇場版「パトレイバー」2本の悪役らの所業をチョッと、チェキってみるのだが。そーしてそーゆう話題だけに以下はネタばらし的なハナシになるコトを、皆さまにお断りしつつ。
さてだけど押井劇場版「パトレイバー」の1本め(1989)の悪役につぃて、筆者は異様に語りニクぃモノを感じるのだった。粗雑にゆうならこの犯人は、天才的なプログラマーでありつつ、そしてありえぬホド影のウスぃ、存在感のない人物で…。そして急激な再開発によって喪われつつある≪東京≫の姿を惜しむよーなキモチから、その悪だくみに及んだらしぃ。そして、全都に大惨事をもたらすよーなプログラムをシカケた上で、本人はサッサと自殺してしまったらしぃ。
とゆう記述が、合ってンのかどーかも(自分では)判断しがたいが。にしても『そのよーなジンブツ像をどー見るか?』とゆう問いの前に、筆者はスマンが絶句せざるをえない。
…この犯人サンがココロにいだいた(らしき)、『喪われつつある≪東京≫』への愛惜のキモチ…とゆうトコまでは、筆者にはヒジョーによく分かるのだ。いちおう自分も東京のニンゲンだし、そんなよーな時代(“バブル”の前後)に『同じ』眺めを見てキたンだから。
だからカレの生前の足取りを追う刑事たちが、『喪われつつある≪東京≫』的なうらぶれたスポットをたずね歩き、そーしてしまぃに廃墟っぽぃトコでひと休みしてるかと想ったら、カメラがグッと引いて大俯瞰になり、その廃墟は取り壊された銭湯の跡だと分かる…とゆう、あのメイ場面。ソレにはひじょうに、クるモンを覚えるのだが…。
さらに物語のさいご、『カレ』のシカケた大惨事を防止しよーとするレイバー隊員たちは最終的に、高い塔のてっぺんの制御室っぽいトコにビッシリと、大量の鳥たちが休んでるのを見る。その鳥たちは在原業平の名歌に詠まれた≪都鳥≫であり、翼はあれどもナゼかドコへも行けない連中であり、つまり『カレ』およびオレのよーな東京土着民らをさす。
不在の犯人がそのよーな姿で現れて、ソコで≪われわれ≫との出遭い(そこね)を演じてるのだ。そーして自分は、その場面にて見出されたのが『カレ』なのか、あるいは『オレ』なのか…とゆうまどいの前でめまいを感じるのだッた。
(参考: あまりカンケイないかも知れンが黒澤明「野良犬」で、ヒーローの刑事はカレの追う犯人像にセマるたび、『カレ-と-われ』との区別がひじょうにツケにくくなってクる。そーしてさいごの大詰め、泥ンコの中で取っ組みあって全身が真っ黒ヶになったご両人は、客観テキにまったく区別がツカなくなる)
だが、しかし。そーかとゆっても『そのコト』が、われらの犯人サンがその兇行をプログラムしてかつ自殺し去った、その≪理由≫になるのかどーかッ?
『そーゆうワケ』によって、『そーゆうコト』になりました…と言われたら、ナニか無視しえぬ大飛躍があるンじゃないか…とゆう気がしてならない。1つのカンジンなコトが、言わずとも言われてる…とゆう感じがしない。申し切れぬコトだが、例の≪メガネくん≫の使った語を借りれば『寸足らず』、ビミョーにも『寸足らず』な表現になっちゃッてンのでは、と感じられるのだが?
そしてムリにでもお題に引きツケて申すなら、そーした『寸足らず』感の現前が『中二病』の症候とゆうコトを想わせなくもない、と。(…『Pt.3』へ続く)
どーゆうコトかとゆうと、われらのカントクがヒト前で不用意なおしゃべりをワリとなされがちなので。するとネットピープルが『ッたく押井は中二病でェ』…みたく反応する、的な。
(このテのネット用語はだぃたぃそうだが、いっきなし『上から目線』で、モノが言われてる。ヒトに対して『空気を嫁』とゆうヒトは、自分は空気が読めてると想ってるし。かつヒトを『中二病』と診断するヒトは、自分は異なると想ってるのだろう)
…そーゆう見方が現にある、と知った上で眺めれば。さきにご紹介した「学園黙示録」第5巻の帯に並んだスイセン文2本が、ヘンなイミ作用をきたしてるよーにも見えてクる。カンタンに申せば賀東氏が自らもろともにわれらの押井カントクもまた、リッパな『中二病男児』だとおおせかのよーな。
そのよーな記号作用が意図テキに演出されてンだとは、まさか想わないが。にしてもこのよーに、「学園黙示録」とゆうまんが本の上で運悪く(?)、『押井守』と『中二病』、とゆう2コの単語が出遭(いそこな)い、その場でヘンにイミありげな2ショットが構成されちまッてる。とゆう眺めを見て筆者は、何ンとな~く面白いと想わンでもないのだッた。…と、余談はココまでにして…。
さぁて「機動警察パトレイバー」のハナシだが、われわれが前回の堕文にて見た『趣味人』テキな悪役≪内海課長≫の造型。カレたちの特異なる所業らが、原作まんが全編のハシラをなすモノであろーかと、われわれは考えた。
とゆう地点から、押井守カントクによる「機動警察パトレイバー」の劇場映画版、その2本を見返せばッ? 最初からチラホラ想ってたコトだが、その押井劇場版「パトレイバー」2本につぃて、オハナシの中心に存在してるよーな≪事件≫らを起こす連中が、どーにも『マトモな犯罪者』とは言いがたい。『ナゼそんなコトを?』とゆう動機の部分に、よくは分かりがたぃモノがある。
比するなら「イノセンス」なンてのもワケ分からな気味な映画だが、しかし劇中の黒幕の動機は『不正な手段を用いても、大もーけしたい』…と、いたってシンプルだ。いわばソコには、『マトモな悪人』とゆうテイサイがある(!)。けれどそーゆう分かりやすさ(の断片)が、押井劇場版「パトレイバー」2本の方にはない。
『ナゼそーなのか』…とゆうコトを、ただ考えてても分かンなかったが。しかし原作まんがをひととーり見た上では、ソレがワリと分かったよーな気に…(前にもゆったが、筆者は「パトレイバー」シリーズについてごく最近まで、ほぼ何も知らンかった。まず押井劇場版2本を見てから、追って他のシリーズ作らに触れつつある)。
つまり押井劇場版「パトレイバー」2本に出てるストレンジな悪役たちは、原作まんがの生み出した『新味ある悪のヒーロー』である内海へと対抗してンのだ。そのカマエからカレらは、何ンかこう常人には割り切れず≪共感≫あたわざるよーな動機によって、その悪事らにハゲんでみせたのだ。
そして前向きにとらえるならば、その部位において押井劇場版「パトレイバー」2本は、原作まんが以来のシリーズの特徴を、チャンと継承してンのだ…とも言える。つまり原作でゆうきまさみセンセが描いておられるのは、レイバー隊がフツーの警察とはかなり異なるよーに、その敵手らもまた、フツーの犯罪者らとはかなり異なる…とゆう物語だし。
…何ン度もゆったコトだが、対峙してる双方に、抜きがたき『遊び』のフンイキがある。とゆうトコが、一般テキなSF警察モノに対して「パトレイバー」が≪差異≫をなしてる部位だ。そのフンイキを楽しめないヒトには、「パトレイバー」は楽しめないよーな気がする。
(ところがだ、「パトレイバー」シリーズ諸作の中で押井劇場版2本がやや浮いてンのは、1つ申すと、その『遊びのフンイキ』がややウスぃとゆうコトだ。ソコは、気にしとくべきポイントかも?)
で、見てれば内海はケシカらぬ悪党にはチガイないが、しかしナゼだかストレートには憎みきれぬヤツ…と感じるとすれば、ソレはわれわれがレイバー隊と内海とのカケ合いに、モンダイの『遊び』とゆうモノを見てるからだろう。そーであれば内海の想うツボなンだが、しかしそうだ。原作「パトレイバー」が面白い作品だと感じられる理由の半分くらぃは、内海による劇中の『演出』らが面白ぃからだ。
と、そのよーに。『悪のヒーロー』として≪デスラー≫や≪シャア≫らに及ぶまではイカぬにしろ、しかしカレらとはまた異なるニューテイストを魅せた内海課長がいて…。追ってそのカレに対抗し、またフカシギな悪事をなした、押井劇場版「パトレイバー」2本の悪役たちがいて…。
けれども後者らが、内海カチョーに匹敵するよーな『オモシロ演出』を、その劇中でなしえたかとゆうと…ッ!?
とまでを見てから、押井劇場版「パトレイバー」2本の悪役らの所業をチョッと、チェキってみるのだが。そーしてそーゆう話題だけに以下はネタばらし的なハナシになるコトを、皆さまにお断りしつつ。
さてだけど押井劇場版「パトレイバー」の1本め(1989)の悪役につぃて、筆者は異様に語りニクぃモノを感じるのだった。粗雑にゆうならこの犯人は、天才的なプログラマーでありつつ、そしてありえぬホド影のウスぃ、存在感のない人物で…。そして急激な再開発によって喪われつつある≪東京≫の姿を惜しむよーなキモチから、その悪だくみに及んだらしぃ。そして、全都に大惨事をもたらすよーなプログラムをシカケた上で、本人はサッサと自殺してしまったらしぃ。
とゆう記述が、合ってンのかどーかも(自分では)判断しがたいが。にしても『そのよーなジンブツ像をどー見るか?』とゆう問いの前に、筆者はスマンが絶句せざるをえない。
…この犯人サンがココロにいだいた(らしき)、『喪われつつある≪東京≫』への愛惜のキモチ…とゆうトコまでは、筆者にはヒジョーによく分かるのだ。いちおう自分も東京のニンゲンだし、そんなよーな時代(“バブル”の前後)に『同じ』眺めを見てキたンだから。
だからカレの生前の足取りを追う刑事たちが、『喪われつつある≪東京≫』的なうらぶれたスポットをたずね歩き、そーしてしまぃに廃墟っぽぃトコでひと休みしてるかと想ったら、カメラがグッと引いて大俯瞰になり、その廃墟は取り壊された銭湯の跡だと分かる…とゆう、あのメイ場面。ソレにはひじょうに、クるモンを覚えるのだが…。
さらに物語のさいご、『カレ』のシカケた大惨事を防止しよーとするレイバー隊員たちは最終的に、高い塔のてっぺんの制御室っぽいトコにビッシリと、大量の鳥たちが休んでるのを見る。その鳥たちは在原業平の名歌に詠まれた≪都鳥≫であり、翼はあれどもナゼかドコへも行けない連中であり、つまり『カレ』およびオレのよーな東京土着民らをさす。
不在の犯人がそのよーな姿で現れて、ソコで≪われわれ≫との出遭い(そこね)を演じてるのだ。そーして自分は、その場面にて見出されたのが『カレ』なのか、あるいは『オレ』なのか…とゆうまどいの前でめまいを感じるのだッた。
(参考: あまりカンケイないかも知れンが黒澤明「野良犬」で、ヒーローの刑事はカレの追う犯人像にセマるたび、『カレ-と-われ』との区別がひじょうにツケにくくなってクる。そーしてさいごの大詰め、泥ンコの中で取っ組みあって全身が真っ黒ヶになったご両人は、客観テキにまったく区別がツカなくなる)
だが、しかし。そーかとゆっても『そのコト』が、われらの犯人サンがその兇行をプログラムしてかつ自殺し去った、その≪理由≫になるのかどーかッ?
『そーゆうワケ』によって、『そーゆうコト』になりました…と言われたら、ナニか無視しえぬ大飛躍があるンじゃないか…とゆう気がしてならない。1つのカンジンなコトが、言わずとも言われてる…とゆう感じがしない。申し切れぬコトだが、例の≪メガネくん≫の使った語を借りれば『寸足らず』、ビミョーにも『寸足らず』な表現になっちゃッてンのでは、と感じられるのだが?
そしてムリにでもお題に引きツケて申すなら、そーした『寸足らず』感の現前が『中二病』の症候とゆうコトを想わせなくもない、と。(…『Pt.3』へ続く)
2009/10/29
急襲!『中二病』ゾンビの猛威ッ!! Pt.1 - パトレイバー(3)
この堕文の題名に出てる『中二病』とゆうコトバ、近ごろのチョイとした流行語(?)。前からチラホラと聞いたよーな気もするのだが、『ソレ、どーゆうイミなの?』とオレが気にしてみた理由は、われらが押井守カントクとゼンゼン関係ないハナシではない。
と、申すのは。まったく知らンでフと手に取った近年のまんが作品に、佐藤大輔+佐藤ショウジ「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」(角川コミックスドラゴンJr., 2007, 刊行中)とゆうモノがあり。
別に通読も精読もしてないけどソレは、兇暴なゾンビになる伝染病が急に大流行し、そーして主人公の少女と少年らが、元は同級生やガッコのセンセだったゾンビらと闘いながら、身の安全を求めて移動するよーなオハナシらしぃ。すなおな印象、ゾンビとゆう題材と「バトル・ロワイヤル」とのカケ合わせ、with パンチラ(“萌え”っぽぃフンイキ?)って感じばかりのモンだが。
(…その作品へ特にイミもなく≪パンチラ≫がやたら出てるコトには、ゆうまでもなく≪イミ≫がありすぎる。特に1パツめが残虐な暴力シーンに対して、いわゆる≪縞パン≫の喰い合わせ、とゆうのがユカイだ。コレは、お刺身を食パンにはさんで喰うよーな新しぃ味覚の提案かとも受けとれる)
そしてその「学園黙示録」の第5巻へと、われらの押井カントク(ら)が帯スイセン文を寄せておられるのだった。そンなトコにご登場されるとはゼンゼン予想外だったので、『アレ?』と想ったのだッた。で、その帯スイセン文(ら)を、そのまま引用してみれば。
押井守<映画監督>『絢爛たる暴力の顕現に期待します。総員刮目して見よ!』
賀東招二<小説家>『中二病男児(俺含む)の理想郷!!』
…このよーに並べてみると、同じくスイセンしてるにしても両センセの間には、オシの強さにけっこーな差がありげ。ごくたんじゅんに見て、文末の『!』の数の比くれーの差はありげ。『期待します』と述べるだけならば、ドコの誰にどう期待しても罪ないワケだし。
にしてもわれらのカントクが、いいトシなされて、そンなにィまで≪暴力≫にキョーミ津々だつゥのも…。かつまた筆者は、この賀東氏がどーゆう作家なのかも、ゼンゼン知らないが。
と、このよーな文脈でモンダイの『中二病』とゆう語が出てキたので、『はてソレは、どーゆうイミかいね?』とゆうギモンがわいたのだった。Wikipediaの該当項目を独断的に要約すれば、こんなコトらしぃ。
≪『中二病』 とは?≫
【歴史】: 1999年にラジオの深夜番組で、パーソナリティの伊集院光が言い出した語。現在にいたり、『思春期の少年が(背伸びしたツモリで)行いがちな珍妙な言動に対する蔑称の一つとして定着する』。
【症例】: 洋楽を聞き始める。コーヒーを飲み始める。売れたバンドを「売れる前から知っている」とムキになる。やればできると思っている。母親に対して激昂して「プライバシーを尊重してくれ」などと言い出す。社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると「アメリカって汚いよな」と急に言い出す。
【補足】: 『加えて生死や宇宙、人間や身近なものの存在に関して、(的外れ気味に)思い悩んでみたり、(子供基準での)政治や社会の矛盾を批判してみたりするのも特徴的である。さらに実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束するといった性質も「中二病」の「症状」として含まれる』。(Wikiの要約終わり)
…洋楽を聞いたりコーヒーを呑んだりするコトすらが≪病≫でありチン妙だとゆわれちゃー、コッチは『生きるな』と言われたよーな気になるッてモンだ。ま、モトはラジオのネタトークなので、≪ギャグ≫として言われたコトではあろーけど。
でその、いま見た【症例】って項目は、かってに略さずにまるごとを引用したンだが。しかしィ、ほとんどまっとーなコトばかりではなかろーか? つまりオトコなら洋楽のパンクやメタルを聞くベキだし(女性は知らない)、コーヒーの味が分からぬヤツとは語るに足りないし、かつオレはトーゼン『やればデキる』ニンゲンだし(ッ!?)、プライバシーは尊重されるべきだし、そして(ザ・クラッシュのメイ曲「反アメリカ」にもあるよーに、)アメリカ政府は汚い。
と、大むねフツーのコトがゆわれてるばかりだ…と感じるのは、すなーちオレもまたリッパな『中二病男児』がゆえなのだろーか。
ところで見てキて、この語の≪イミ≫に関しては、運用上のブンレツがあるよーな気がする。すなーち、『オトナなら相応かと見られるコトを、中二のブンザイでヤろーとする病』と、『中二のボクなら大目に見られるよーなコトを、オトナになってもヤッてる病』と。この2者は、同じではないだろう。Wikiの説明は、ワリと前者よりなよーだが。
けれどモトモトは、成人であるところの伊集院サンが『オレ自身がいまだ中二病で』…と言い出したそーなので、その場面でモンダイになってンのは『ガキっぽぃオトナ』のコトだ。中二のボーヤが『中二』ッぽぃコトをするのを、とくに≪病≫と呼ぶ必要もない感じだし。
そーして真なるモンダイは、『背伸びしようとしてる状態のままで、ソコからいっこう成長せず≪成熟≫がデキず、そしてムダにトシばっか喰ってゆく』…とゆうヤカラが、どー見てもいる、とゆうコトなのではッ? このよーな言い方に変換してみるならば、『オレこそが中二病者でスイマセン』と、自認するにもヤブサカでない。スイマセン~!
とまでを見てから、ハナシを戻し。小説家の賀東招二サンが「学園黙示録」とゆうまんが作品をさして、『中二病男児の理想郷!!』とゆっておられるソノ≪言表≫の意図…ソレが現状、筆者には分からない。ホメたコトバになってンのかどーか、とゆうトコが分からない。『背伸びしたいボクちゃんらおよび、その境地を脱してないオヤジらが大悦びテキな作品でアル』、とゆうイミに解してイイのだろーかッ?
われわれの検討してキた感じだと『中二病』とゆう語には、肯定的なニュアンスがないワケなので。ゆうなれば、『腐女子』とか『おたく』とかゆう語らと、水準テキにあんまし変わンないのではなかろーか? しかしそのよーな蔑称を逆に誇る方々もいるワケなので、賀東氏はソレを敢行されてンのだろーか?
そーして筆者においては、遺憾にもホドがあるコトだが。ココまでの堕文にて、われらの押井カントクがさいしょにご登場されてンのはイイけれど、しかし今回のテーマにしよーとした作品「機動警察パトレイバー」の題名が、何ンといまだ出てないッ(!)。
けれども前回の『趣味の世界』ウンヌンとゆった筆者の「パトレイバー」談義をご高覧の皆さまにおかれては、すでにハナシのつながりが見えておられるだろう。作品系列「パトレイバー」が全般に描いてるコトは、いいトシしながら≪成熟≫しもせず『趣味の世界』に生きるオトナたちがいてやがる、とゆうモンダイの存在だ。
つまり≪内海≫をきわまりとする、アイツらのコトだ。かつ、「パトレイバー」でなくとも押井作品群に、≪オトナ≫になれないとかならないとかゆう方々がミョーに出てクるコトを、皆さまはよぅくご存じであろーかと(…近年の好例は、もち「スカイ・クロラ」)。ソレを『中二病』、ナドと呼ぶかどーかはともかくも…。(『Pt.2』へ続く)
と、申すのは。まったく知らンでフと手に取った近年のまんが作品に、佐藤大輔+佐藤ショウジ「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」(角川コミックスドラゴンJr., 2007, 刊行中)とゆうモノがあり。
別に通読も精読もしてないけどソレは、兇暴なゾンビになる伝染病が急に大流行し、そーして主人公の少女と少年らが、元は同級生やガッコのセンセだったゾンビらと闘いながら、身の安全を求めて移動するよーなオハナシらしぃ。すなおな印象、ゾンビとゆう題材と「バトル・ロワイヤル」とのカケ合わせ、with パンチラ(“萌え”っぽぃフンイキ?)って感じばかりのモンだが。
(…その作品へ特にイミもなく≪パンチラ≫がやたら出てるコトには、ゆうまでもなく≪イミ≫がありすぎる。特に1パツめが残虐な暴力シーンに対して、いわゆる≪縞パン≫の喰い合わせ、とゆうのがユカイだ。コレは、お刺身を食パンにはさんで喰うよーな新しぃ味覚の提案かとも受けとれる)
そしてその「学園黙示録」の第5巻へと、われらの押井カントク(ら)が帯スイセン文を寄せておられるのだった。そンなトコにご登場されるとはゼンゼン予想外だったので、『アレ?』と想ったのだッた。で、その帯スイセン文(ら)を、そのまま引用してみれば。
押井守<映画監督>『絢爛たる暴力の顕現に期待します。総員刮目して見よ!』
賀東招二<小説家>『中二病男児(俺含む)の理想郷!!』
…このよーに並べてみると、同じくスイセンしてるにしても両センセの間には、オシの強さにけっこーな差がありげ。ごくたんじゅんに見て、文末の『!』の数の比くれーの差はありげ。『期待します』と述べるだけならば、ドコの誰にどう期待しても罪ないワケだし。
にしてもわれらのカントクが、いいトシなされて、そンなにィまで≪暴力≫にキョーミ津々だつゥのも…。かつまた筆者は、この賀東氏がどーゆう作家なのかも、ゼンゼン知らないが。
と、このよーな文脈でモンダイの『中二病』とゆう語が出てキたので、『はてソレは、どーゆうイミかいね?』とゆうギモンがわいたのだった。Wikipediaの該当項目を独断的に要約すれば、こんなコトらしぃ。
≪『中二病』 とは?≫
【歴史】: 1999年にラジオの深夜番組で、パーソナリティの伊集院光が言い出した語。現在にいたり、『思春期の少年が(背伸びしたツモリで)行いがちな珍妙な言動に対する蔑称の一つとして定着する』。
【症例】: 洋楽を聞き始める。コーヒーを飲み始める。売れたバンドを「売れる前から知っている」とムキになる。やればできると思っている。母親に対して激昂して「プライバシーを尊重してくれ」などと言い出す。社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると「アメリカって汚いよな」と急に言い出す。
【補足】: 『加えて生死や宇宙、人間や身近なものの存在に関して、(的外れ気味に)思い悩んでみたり、(子供基準での)政治や社会の矛盾を批判してみたりするのも特徴的である。さらに実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束するといった性質も「中二病」の「症状」として含まれる』。(Wikiの要約終わり)
…洋楽を聞いたりコーヒーを呑んだりするコトすらが≪病≫でありチン妙だとゆわれちゃー、コッチは『生きるな』と言われたよーな気になるッてモンだ。ま、モトはラジオのネタトークなので、≪ギャグ≫として言われたコトではあろーけど。
でその、いま見た【症例】って項目は、かってに略さずにまるごとを引用したンだが。しかしィ、ほとんどまっとーなコトばかりではなかろーか? つまりオトコなら洋楽のパンクやメタルを聞くベキだし(女性は知らない)、コーヒーの味が分からぬヤツとは語るに足りないし、かつオレはトーゼン『やればデキる』ニンゲンだし(ッ!?)、プライバシーは尊重されるべきだし、そして(ザ・クラッシュのメイ曲「反アメリカ」にもあるよーに、)アメリカ政府は汚い。
と、大むねフツーのコトがゆわれてるばかりだ…と感じるのは、すなーちオレもまたリッパな『中二病男児』がゆえなのだろーか。
ところで見てキて、この語の≪イミ≫に関しては、運用上のブンレツがあるよーな気がする。すなーち、『オトナなら相応かと見られるコトを、中二のブンザイでヤろーとする病』と、『中二のボクなら大目に見られるよーなコトを、オトナになってもヤッてる病』と。この2者は、同じではないだろう。Wikiの説明は、ワリと前者よりなよーだが。
けれどモトモトは、成人であるところの伊集院サンが『オレ自身がいまだ中二病で』…と言い出したそーなので、その場面でモンダイになってンのは『ガキっぽぃオトナ』のコトだ。中二のボーヤが『中二』ッぽぃコトをするのを、とくに≪病≫と呼ぶ必要もない感じだし。
そーして真なるモンダイは、『背伸びしようとしてる状態のままで、ソコからいっこう成長せず≪成熟≫がデキず、そしてムダにトシばっか喰ってゆく』…とゆうヤカラが、どー見てもいる、とゆうコトなのではッ? このよーな言い方に変換してみるならば、『オレこそが中二病者でスイマセン』と、自認するにもヤブサカでない。スイマセン~!
とまでを見てから、ハナシを戻し。小説家の賀東招二サンが「学園黙示録」とゆうまんが作品をさして、『中二病男児の理想郷!!』とゆっておられるソノ≪言表≫の意図…ソレが現状、筆者には分からない。ホメたコトバになってンのかどーか、とゆうトコが分からない。『背伸びしたいボクちゃんらおよび、その境地を脱してないオヤジらが大悦びテキな作品でアル』、とゆうイミに解してイイのだろーかッ?
われわれの検討してキた感じだと『中二病』とゆう語には、肯定的なニュアンスがないワケなので。ゆうなれば、『腐女子』とか『おたく』とかゆう語らと、水準テキにあんまし変わンないのではなかろーか? しかしそのよーな蔑称を逆に誇る方々もいるワケなので、賀東氏はソレを敢行されてンのだろーか?
そーして筆者においては、遺憾にもホドがあるコトだが。ココまでの堕文にて、われらの押井カントクがさいしょにご登場されてンのはイイけれど、しかし今回のテーマにしよーとした作品「機動警察パトレイバー」の題名が、何ンといまだ出てないッ(!)。
けれども前回の『趣味の世界』ウンヌンとゆった筆者の「パトレイバー」談義をご高覧の皆さまにおかれては、すでにハナシのつながりが見えておられるだろう。作品系列「パトレイバー」が全般に描いてるコトは、いいトシしながら≪成熟≫しもせず『趣味の世界』に生きるオトナたちがいてやがる、とゆうモンダイの存在だ。
つまり≪内海≫をきわまりとする、アイツらのコトだ。かつ、「パトレイバー」でなくとも押井作品群に、≪オトナ≫になれないとかならないとかゆう方々がミョーに出てクるコトを、皆さまはよぅくご存じであろーかと(…近年の好例は、もち「スカイ・クロラ」)。ソレを『中二病』、ナドと呼ぶかどーかはともかくも…。(『Pt.2』へ続く)
2009/10/14
広がり拡がる、『趣味の世界』 Pt.2 - パトレイバー(2)
(『Pt.1』からの続き…)と、いまさっきは悪人のサイドに『遊び』のフンイキを見てみたが、われらがヒロインの属するレイバー隊の側にも、大いにソレ風なモノがある。TVシリーズの第3話『こちら特車二課』の巻とゆうのを何ンとなく見てたら、『コレは「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のさいしょの方のパートを≪反復≫してるなァ』…と感じた。ソレを感じなければウソだと想うが、後でクレジットを確認したら案の定、この回はわれらが押井守の脚本によるモノで。
どンな物語かカィとくと、めでたく希望の『特車二課』ことレイバー隊に配属された野明が、ソコでのキンムのあり方に、大いにビックリするハメになる。まずその隊の所在地がヘンピな埋め立て地で、タイヘンに不便。そんなトコに『待機』とゆう名目でカンヅメにされた隊員らが、まずは敷地内の草刈りに精を出したかと想うと、次には岸壁で海釣りに興じる。
とは遊んでるよーな感じしかしないので、さすがに野明がギモンを申し立てると、センパイ格の隊員≪遊馬(あすま)≫は、『この隊ではまず、食料の確保が大問題なんだヨ!』のよーに教える。ココは買い物が超不便だし出前も昼にしか来ないので、われわれは自給自足体制の確立を目ざさねばならン!…とゆうのだ。この場面あたりのダイアログが、まさにわれわれのよ~く知る押井節そのモノでありつつ。
そーしてカレらの目の前の海を、隊に属する船舶が通り過ぎる。どーゆう出動かと想ッたら、コレがまた遠出して海産物の収集に出かけるとゆうのだッた。
…別にツッコんでもしょーがないんだが、そーやって東京湾のハゼばっかし喰ってるのは健康にどーなのか、また、大がかりにヤリすぎちゃ~地元の漁協からモンク言われねーか、等々とは想うけど。ま、ソレはともかく…。
(さっき申した、コレが「ビューティフル・ドリーマー」を部分的に≪反復≫してるとは、フザケ半分な共同生活、シンケン味のないサバイバル、そしてヒトビトが横に並んでの海釣りシーン…。等々と、まぁタブン申すまでもなきコトかと)
やがて夜になって、漁に出た船舶が岸壁で座礁した、とゆう事故の知らせが届く。基地のすぐ近くが現場なので、レイバーで船舶を何ンとかしよう、とゆう相談になる。ところがウマくイカず手こずってると、整備部のコワ~いボスである≪おやっさん≫が、夜中だッてのに忘れ物をしたとかで基地に向かってクる。この一連の不シマツをカレには知られまいとして、隊員らは必死の策を講じる。
その『必死の策』らの中でケッ作すぎるのは、おやっさんを路上で足止めしよーとして遊馬らが、かってに一斉検問を実施するコトだ。こンなくだらねー理由でケーサツ権力の執行に出ようとは、とんでもねー≪がきデカ≫たちがいたモンだッ!
でまぁ、どーにかしてこの≪こまわり君≫たちは事態を収拾する。つか収拾したツモリになるが、実はおやっさんは、ほとんど『すべて』を察してるのだ。けれどもカレがとやかく言わないのは、明言されてないケド、こーした『遊び』らが訓練の代わりになって、隊員たちを成長させるだろーから…てなツモリらしぃ。
コドモらの『遊び』のアレコレは、いずれオトナの仕事をするタメの訓練と見なしうる、とゆう考え方はある。にしてもわれらがレイバー隊のしょくんは、そろってオトナのクセに、そして税金でまかなわれた資材や機材らを用い、しかも公権力を乱用しつつ、カレらの『遊び』に興じてやがる。まぁどーせ作り話だし、おやっさんに代わってオレがとやかく言うツモリもないけれど…。
ソレコレを見てっと、原作まんがの柱である内海一味とレイバー隊とのシレツなる闘いの連続もまた、ひじょうにリッパな『遊び』に見えてクるのだった。内海はそーとーにランボーなコトも仕掛けてキやがるけれど、しかしわれらの隊員たちを皆殺しにしよーとか、東京全都を火の海にしよーとか、ソコまでのツモリはないのだ。
ただ単なる、『趣味の世界』の追求!…カレが望むよーな『遊び』の舞台へと相手を引きずり出すタメだけに、内海は挑撥を繰り返してるのだった。ゆえに原作まんがの大詰め、フトドキにもレイバー隊の基地に奇襲をかけていったん成功を見た内海は、『こんなンで、本物のテロリストに襲われたらどーすンの?』的なコトを言いくさる。カレがヤッてるコト自体は本物のテロだが、けれど確かに、カレのよーなシュミ人を本物のテロリストと言いがたい感じはある。カレはすべてを≪何か≫につぃてのシミュレーションとしか見ておらず、そしてシミュるコトには必ず『遊び』のフンイキがツキまとう。
だから内海がカレによるシミュレーションを、コンピュータゲームから始めて実世界へと持ち込み、かつそのスケールを野放図に増大さしてくコトは、ひじょうにネジくれたカタチで≪現実的なもの≫が、ソコで追求され(そこなっ)てンのだ…と見るコトもデキそーな感じだ。プレーヤーらは『遊んでる』と自覚すればこそゲームに≪リアリティ=現実味≫を求め、しかし≪リアル=現実的なもの≫をみごとに見そこねる。
≪現実的なもの≫とゆうモノを見たいが見たくないので、カレはシミュレーションに精を出してるのだ。ドコまでヤッたら、カレは≪リアル≫に、せめてその断片に接しられるのか? いくらシミュレーションをきわめてその≪リアリティ≫を増大さしても、ソレが≪リアル≫に転じるコトはない、と、ワカってんだかどーなンだか…。ワカっててことさらに≪リアル≫を避けている、とゆう感じをも受けながら。
(とゆう≪リアル≫のなさおよび、『シミュレーションしかない』とゆった感覚…。コレがまったくもって押井守チックなモチーフでありすぎるとは、ココをご覧の皆さまに対し、申すまでもなきコトかと)
そしてそのチョッと前、内海のプロファイリングをこころみたレイバー隊の後藤隊長は、『コイツはコドモだ』とまでは見抜く。内海が、ふだんはビジネスマンごっこをしてながら、その次には犯罪ごっこに手を染めたのだ…とゆうあたりまでは見抜く。けれど筆者の見るところ、この作中で実社会の中に稚気あふれる『趣味の世界』を展開しよーとしてやがるのは、決して内海1ピキのシワザではない。
野明がさいしょにチャンとゆってたとーり、ヘンに過剰にカッコいいイングラムとゆうメカの登場とゆうコト自体が、『趣味の世界』の始まりに他ならないのだ。税金を使って遊んでるかのよーにも見れるレイバー隊の存在が、会社のカネで遊ぶ内海のよーな≪悪党=ゲームプレーヤー≫の登場を促してしまってるのだ。とまでを申して、「パトレイバー」のハナシはまたいずれ。
どンな物語かカィとくと、めでたく希望の『特車二課』ことレイバー隊に配属された野明が、ソコでのキンムのあり方に、大いにビックリするハメになる。まずその隊の所在地がヘンピな埋め立て地で、タイヘンに不便。そんなトコに『待機』とゆう名目でカンヅメにされた隊員らが、まずは敷地内の草刈りに精を出したかと想うと、次には岸壁で海釣りに興じる。
とは遊んでるよーな感じしかしないので、さすがに野明がギモンを申し立てると、センパイ格の隊員≪遊馬(あすま)≫は、『この隊ではまず、食料の確保が大問題なんだヨ!』のよーに教える。ココは買い物が超不便だし出前も昼にしか来ないので、われわれは自給自足体制の確立を目ざさねばならン!…とゆうのだ。この場面あたりのダイアログが、まさにわれわれのよ~く知る押井節そのモノでありつつ。
そーしてカレらの目の前の海を、隊に属する船舶が通り過ぎる。どーゆう出動かと想ッたら、コレがまた遠出して海産物の収集に出かけるとゆうのだッた。
…別にツッコんでもしょーがないんだが、そーやって東京湾のハゼばっかし喰ってるのは健康にどーなのか、また、大がかりにヤリすぎちゃ~地元の漁協からモンク言われねーか、等々とは想うけど。ま、ソレはともかく…。
(さっき申した、コレが「ビューティフル・ドリーマー」を部分的に≪反復≫してるとは、フザケ半分な共同生活、シンケン味のないサバイバル、そしてヒトビトが横に並んでの海釣りシーン…。等々と、まぁタブン申すまでもなきコトかと)
やがて夜になって、漁に出た船舶が岸壁で座礁した、とゆう事故の知らせが届く。基地のすぐ近くが現場なので、レイバーで船舶を何ンとかしよう、とゆう相談になる。ところがウマくイカず手こずってると、整備部のコワ~いボスである≪おやっさん≫が、夜中だッてのに忘れ物をしたとかで基地に向かってクる。この一連の不シマツをカレには知られまいとして、隊員らは必死の策を講じる。
その『必死の策』らの中でケッ作すぎるのは、おやっさんを路上で足止めしよーとして遊馬らが、かってに一斉検問を実施するコトだ。こンなくだらねー理由でケーサツ権力の執行に出ようとは、とんでもねー≪がきデカ≫たちがいたモンだッ!
でまぁ、どーにかしてこの≪こまわり君≫たちは事態を収拾する。つか収拾したツモリになるが、実はおやっさんは、ほとんど『すべて』を察してるのだ。けれどもカレがとやかく言わないのは、明言されてないケド、こーした『遊び』らが訓練の代わりになって、隊員たちを成長させるだろーから…てなツモリらしぃ。
コドモらの『遊び』のアレコレは、いずれオトナの仕事をするタメの訓練と見なしうる、とゆう考え方はある。にしてもわれらがレイバー隊のしょくんは、そろってオトナのクセに、そして税金でまかなわれた資材や機材らを用い、しかも公権力を乱用しつつ、カレらの『遊び』に興じてやがる。まぁどーせ作り話だし、おやっさんに代わってオレがとやかく言うツモリもないけれど…。
ソレコレを見てっと、原作まんがの柱である内海一味とレイバー隊とのシレツなる闘いの連続もまた、ひじょうにリッパな『遊び』に見えてクるのだった。内海はそーとーにランボーなコトも仕掛けてキやがるけれど、しかしわれらの隊員たちを皆殺しにしよーとか、東京全都を火の海にしよーとか、ソコまでのツモリはないのだ。
ただ単なる、『趣味の世界』の追求!…カレが望むよーな『遊び』の舞台へと相手を引きずり出すタメだけに、内海は挑撥を繰り返してるのだった。ゆえに原作まんがの大詰め、フトドキにもレイバー隊の基地に奇襲をかけていったん成功を見た内海は、『こんなンで、本物のテロリストに襲われたらどーすンの?』的なコトを言いくさる。カレがヤッてるコト自体は本物のテロだが、けれど確かに、カレのよーなシュミ人を本物のテロリストと言いがたい感じはある。カレはすべてを≪何か≫につぃてのシミュレーションとしか見ておらず、そしてシミュるコトには必ず『遊び』のフンイキがツキまとう。
だから内海がカレによるシミュレーションを、コンピュータゲームから始めて実世界へと持ち込み、かつそのスケールを野放図に増大さしてくコトは、ひじょうにネジくれたカタチで≪現実的なもの≫が、ソコで追求され(そこなっ)てンのだ…と見るコトもデキそーな感じだ。プレーヤーらは『遊んでる』と自覚すればこそゲームに≪リアリティ=現実味≫を求め、しかし≪リアル=現実的なもの≫をみごとに見そこねる。
≪現実的なもの≫とゆうモノを見たいが見たくないので、カレはシミュレーションに精を出してるのだ。ドコまでヤッたら、カレは≪リアル≫に、せめてその断片に接しられるのか? いくらシミュレーションをきわめてその≪リアリティ≫を増大さしても、ソレが≪リアル≫に転じるコトはない、と、ワカってんだかどーなンだか…。ワカっててことさらに≪リアル≫を避けている、とゆう感じをも受けながら。
(とゆう≪リアル≫のなさおよび、『シミュレーションしかない』とゆった感覚…。コレがまったくもって押井守チックなモチーフでありすぎるとは、ココをご覧の皆さまに対し、申すまでもなきコトかと)
そしてそのチョッと前、内海のプロファイリングをこころみたレイバー隊の後藤隊長は、『コイツはコドモだ』とまでは見抜く。内海が、ふだんはビジネスマンごっこをしてながら、その次には犯罪ごっこに手を染めたのだ…とゆうあたりまでは見抜く。けれど筆者の見るところ、この作中で実社会の中に稚気あふれる『趣味の世界』を展開しよーとしてやがるのは、決して内海1ピキのシワザではない。
野明がさいしょにチャンとゆってたとーり、ヘンに過剰にカッコいいイングラムとゆうメカの登場とゆうコト自体が、『趣味の世界』の始まりに他ならないのだ。税金を使って遊んでるかのよーにも見れるレイバー隊の存在が、会社のカネで遊ぶ内海のよーな≪悪党=ゲームプレーヤー≫の登場を促してしまってるのだ。とまでを申して、「パトレイバー」のハナシはまたいずれ。
広がり拡がる、『趣味の世界』 Pt.1 - パトレイバー(1)
「機動警察パトレイバー」の映画版…特にそのさいしょの作品は、われらが押井守カントクの代表作の1コかのよーに言われてる。とゆうワケで見てはみたんだが(第2作とあわせ)、けれど何ンだか筆者には、『分かるケド分からない』のよーな感じが残ったのだッた。
とゆった『分かる』とは、『オハナシの流れはひとまず分かる』、とゆうイミだ。しかし、びみょうな分からなさが残るのはナゼかなァ…と考えたら、そもそも自分が「パトレイバー」シリーズをほとんど知らン、とゆうコトに思いあたッた。
筆者が察するに押井版の「パトレイバー」映画2本はカタチとして、このシリーズの積み重ねのほぼ頂点にあるよーなモノなのではと。そーとすると自分はおそらくココで、「うる星やつら」の原作まんがやTVシリーズをゼンゼン知らなくて、その押井版の映画2本(「オンリー・ユー」, 「ビューティフル・ドリーマー」)を見たよーなコトになってンのでは?
と想ったので少しずつ、この「パトレイバー」シリーズの原作やTVシリーズを知るコトから研究を始めてンのだが。そーして筆者がひじょうに強いモノとして感じたのは、今シリーズの全般にただよッてる、『遊びのフンイキ』だ。
…ゆうきまさみによる原作まんがの冒頭、そのヒロインたる若い婦警候補生≪泉野明(いずみ・のあ)≫は、いずれ彼女が乗るコトになる主人公メカ≪イングラム≫を初めて見て、『趣味の世界だねえ…』と、想わずつぶやく。ソレは、本来の土木作業に使うよーなレイバー(シリーズ中の用語で、ヒトが乗り込むロボット)らに比べ、イングラムが過剰にカッコよすぎ…とゆうコトをゆってンのかと想うが。
そしてその『趣味の世界』とゆうコトバのさし示してるのが、筆者の感じた『遊びのフンイキ』、フカシギなヨユー、とゆうコトなのかと。その場面にて、このシリーズ作の全体をさしてそのヒロインが、『趣味の世界』と規定した…とゆう感じがするのだった。
今シリーズ「パトレイバー」の概要はとゆえば、警官である主人公らが≪パトレイバー≫(ケーサツ用のレイバー)を使って犯罪者たちと闘うよーなモノかとお見うけしつつ。しかしナニやら『遊び』っぽぃゾと申すのは、まずオハナシの動因を作ッてる≪犯罪者たち≫の方からして、あまりシンケン味がない。
原作まんがを見てみると、その主な悪役には2つの系統が存在してる。まず1コは≪地球防衛軍≫を名のるエコ・テロリストらであり、もう1コは≪内海課長≫が指揮する外資レイバー会社の中の一味だが。
そしてドッチも何ンだか、遊び半分で大がかりな悪さをしてるよーにしか見えないのだった。悪人であるコトに変わりはなくても、われわれが三面記事でお目にかかるよーな実在のナマぐさぃ犯罪者たちとカレらとは、フンイキがゼンゼン違う。ゆうきセンセ一流の、常にドコとなく落語チックな語り口が、またそのムードを盛り上げながら。
特に内海の所業において、『遊び』のフンイキの絶頂がある。カレは陽動のタメにエコ・テロリストらをも利用しつつ、自社の強力なレイバーで警視庁の誇るイングラムにケンカを売り続け、そしてそのコトに『プロモーションのため』、『イングラムのデータを盗むため』、等々の理由をツケるのだが…。
がしかし実は、そんなコトをマジメに考えてない。さいごの方ではハッキリ言われるコトだが、カレには会社への忠誠心などまったくない。ツゴウに応じてクチ先で、『会社のタメに』と言うだけだ。
ではカレのしてるコトは何ンなのかとゆうと、よーするにカレもまた、『趣味の世界』の住人なのだ。SFアニメやソレ系のゲーム等が描いてるロボット戦を、カレは自分の手で、自分の目の前で、実現したいのだ。
そして内海が使ってる天才少年パイロットの≪バド≫はハッキリと、レイバーでの戦闘を『遊び』そのモノ、≪ゲーム≫としか想ってない。作の序盤で野明は、この少年+内海とぐーぜんに街のゲーセンで出遭い(そこね)、そしてお互い素性を知らぬまま、実戦の前にまず『パトレイバー』をシミュレートしたビデオゲームでウデを競い合う。何ンとこのゲーム自体が内海らの企業が開発したモノで、つまりはカレの展開してる『趣味の世界』の一環に他ならない。
そしてその≪ゲーム≫に対し、なかなかムキに向かい合ってるその3ビキの姿は、その後の本編の展開がひとまず『シミュレート』されたモノなのだ。ワリと常人らには理解しがたき『趣味の世界』にて、カレらはヘーキでそのカラダを張るのだ。
そもそもケーサツにレイバー隊が発足した主な理由が、『レイバーを悪用しての犯罪に対応するタメ』のよーなハナシだが。しかしそのレイバー隊の存在自体が酔狂なヤカラへの挑撥となって、ますます大それたレイバー犯罪が生じがち。つまりィ、『趣味の世界』がソコら中に広がる一方!…とゆう、なかなかマヌケな事態を描く作品であると、今作を見れるよーに感じる。(『Pt.2』へ続く)
とゆった『分かる』とは、『オハナシの流れはひとまず分かる』、とゆうイミだ。しかし、びみょうな分からなさが残るのはナゼかなァ…と考えたら、そもそも自分が「パトレイバー」シリーズをほとんど知らン、とゆうコトに思いあたッた。
筆者が察するに押井版の「パトレイバー」映画2本はカタチとして、このシリーズの積み重ねのほぼ頂点にあるよーなモノなのではと。そーとすると自分はおそらくココで、「うる星やつら」の原作まんがやTVシリーズをゼンゼン知らなくて、その押井版の映画2本(「オンリー・ユー」, 「ビューティフル・ドリーマー」)を見たよーなコトになってンのでは?
と想ったので少しずつ、この「パトレイバー」シリーズの原作やTVシリーズを知るコトから研究を始めてンのだが。そーして筆者がひじょうに強いモノとして感じたのは、今シリーズの全般にただよッてる、『遊びのフンイキ』だ。
…ゆうきまさみによる原作まんがの冒頭、そのヒロインたる若い婦警候補生≪泉野明(いずみ・のあ)≫は、いずれ彼女が乗るコトになる主人公メカ≪イングラム≫を初めて見て、『趣味の世界だねえ…』と、想わずつぶやく。ソレは、本来の土木作業に使うよーなレイバー(シリーズ中の用語で、ヒトが乗り込むロボット)らに比べ、イングラムが過剰にカッコよすぎ…とゆうコトをゆってンのかと想うが。
そしてその『趣味の世界』とゆうコトバのさし示してるのが、筆者の感じた『遊びのフンイキ』、フカシギなヨユー、とゆうコトなのかと。その場面にて、このシリーズ作の全体をさしてそのヒロインが、『趣味の世界』と規定した…とゆう感じがするのだった。
今シリーズ「パトレイバー」の概要はとゆえば、警官である主人公らが≪パトレイバー≫(ケーサツ用のレイバー)を使って犯罪者たちと闘うよーなモノかとお見うけしつつ。しかしナニやら『遊び』っぽぃゾと申すのは、まずオハナシの動因を作ッてる≪犯罪者たち≫の方からして、あまりシンケン味がない。
原作まんがを見てみると、その主な悪役には2つの系統が存在してる。まず1コは≪地球防衛軍≫を名のるエコ・テロリストらであり、もう1コは≪内海課長≫が指揮する外資レイバー会社の中の一味だが。
そしてドッチも何ンだか、遊び半分で大がかりな悪さをしてるよーにしか見えないのだった。悪人であるコトに変わりはなくても、われわれが三面記事でお目にかかるよーな実在のナマぐさぃ犯罪者たちとカレらとは、フンイキがゼンゼン違う。ゆうきセンセ一流の、常にドコとなく落語チックな語り口が、またそのムードを盛り上げながら。
特に内海の所業において、『遊び』のフンイキの絶頂がある。カレは陽動のタメにエコ・テロリストらをも利用しつつ、自社の強力なレイバーで警視庁の誇るイングラムにケンカを売り続け、そしてそのコトに『プロモーションのため』、『イングラムのデータを盗むため』、等々の理由をツケるのだが…。
がしかし実は、そんなコトをマジメに考えてない。さいごの方ではハッキリ言われるコトだが、カレには会社への忠誠心などまったくない。ツゴウに応じてクチ先で、『会社のタメに』と言うだけだ。
ではカレのしてるコトは何ンなのかとゆうと、よーするにカレもまた、『趣味の世界』の住人なのだ。SFアニメやソレ系のゲーム等が描いてるロボット戦を、カレは自分の手で、自分の目の前で、実現したいのだ。
そして内海が使ってる天才少年パイロットの≪バド≫はハッキリと、レイバーでの戦闘を『遊び』そのモノ、≪ゲーム≫としか想ってない。作の序盤で野明は、この少年+内海とぐーぜんに街のゲーセンで出遭い(そこね)、そしてお互い素性を知らぬまま、実戦の前にまず『パトレイバー』をシミュレートしたビデオゲームでウデを競い合う。何ンとこのゲーム自体が内海らの企業が開発したモノで、つまりはカレの展開してる『趣味の世界』の一環に他ならない。
そしてその≪ゲーム≫に対し、なかなかムキに向かい合ってるその3ビキの姿は、その後の本編の展開がひとまず『シミュレート』されたモノなのだ。ワリと常人らには理解しがたき『趣味の世界』にて、カレらはヘーキでそのカラダを張るのだ。
そもそもケーサツにレイバー隊が発足した主な理由が、『レイバーを悪用しての犯罪に対応するタメ』のよーなハナシだが。しかしそのレイバー隊の存在自体が酔狂なヤカラへの挑撥となって、ますます大それたレイバー犯罪が生じがち。つまりィ、『趣味の世界』がソコら中に広がる一方!…とゆう、なかなかマヌケな事態を描く作品であると、今作を見れるよーに感じる。(『Pt.2』へ続く)
2009/10/04
ヘンケン艦長の身の処し方から? - Zガンダム(6)
あ、またもガンダム話でひじょうに申し訳ないけれどッ! しかしカィとかないと、自分の考えてたコトも忘れちゃうので…。
ごくごく、手短にゆおうとしつつ。「機動戦士Zガンダム」に登場するヘンケン艦長のコトだが、以下はネタばらしに該当するよーなハナシになり気味なので、念のタメ。
物語の最終局面あたり、自分が岡惚れしてるエマ・シーンが戦死しそうなのでヘンケンは、カレの宇宙戦艦を盾にしてエマの生命を救おーとする。エマをはじめとするカレの部下たちが、『ソレでは艦がヤラレてしまう!』、と制止するのも聞かないで。
すると、どーなったかッ? エマたちのゆった通り、ヘンケンの艦は敵のロボットにヤラレて轟チンのウキ目を見る。ソレでヘンケンが死ぬのはもちろんだが、カレの艦の乗組員らもみ~んな道連れになる(!)。
そして、ヘンケンがありえざる挙に出てまで救おうとしたエマは、その場での即死だけはまぬがれたが。しかしすでに致命的な負傷をしてたらしく、追って宇宙ステーションか何かの中で、カミーユ君にみとられながら死んでしまう(…余談だがその後、カミーユ君が彼女と別れて戦闘に戻ろうとすると、その場の人工重力が切れてエマのカラダがふわ~りと宙に浮き上がる。この場面の、凄愴な美しさは印象深い)。
「Zガンダム」とゆう作品はズイブンとアチコチで、初代ガンダムを幻滅テキなヤリ方で≪反復≫してるトコがある。イヤむしろ、ソレばっかし!…とゆったよーなコトを何ン度も申してるけれど、コレがまた。
われわれは初代のガンダムにて、『とても感動テキな自己犠牲のシーン』らしきモノを、いくつか見てる。ところが「Z」にてのヘンケンの『自己犠牲』は、初代に出てたリュウやマチルダの『感動的』な挙を、≪反復≫しよーとしてゼンゼン反復デキてない。カレのヤッたコトはすでに瀕死のエマをタブン数十分間ほど延命デキたにすぎず、そしてそのタメにカレは自分のイノチばかりか、カレのモノでない乗組員らの生命を戦艦ごとギセイにしやがったのだ。
で、そのよーにヘンケンは、『崇高なる自己犠牲』とやらを想ッくそヤリそこなってるが。しかしそーかとゆってわれわれは、この艦長を逆に『悪人』かのよーにも見なしニクぃのではッ? ソコらが実に、「Z」特有の煮えきらないトコだ!
カレは軍人でありかつ『長』のつくよーな立場の者として、ゼッタイにヤッてはならンよーなコトをヤリやがったか、とは見える。がしかし、カレがニンゲンとしてありえぬ非道なコトをヤリくさったとまでは、ナゼか言いニクぃ感じあり。よってカレへとおくるコトバは、『リッパなドアホウであったなァ』…くれーしか、筆者には想いツカない。
またソレと、ゼンゼン似てなくはないよーな感じで。終盤でのレコアの寝返りにしても見てるわれわれは、その挙をトーゼン肯定はデキず、しかしムゲなる否定もしきれない。かくてカレらの行為らの≪イミ≫とゆうモノは、われわれのまなざしの前で宙に浮きまくッてる。
このよーなカッコのつかなさは、ヘンケンやレコアだけのコトでなく、初代に並べてみたときの「Zガンダム」全般の特徴かと見れる。初代ガンダムが『リアリズム』の提示から始まって『スウィ~ト・ドリ~夢』(いま直接に申してるのはニュータイプ救世主義のコト)にまでヒトを誘導する作品だったとすれば、「Z」はそのドリ~夢の大破綻から始まッて、そしてあるイミでの『リアリズム』をプイと放り出す作品になっている。
と、『リアリズム』とゆう語がいま2回出たが、むろんそれぞれのイミは異なっている。まず初代ガンダムについては、『ロボットSF戦争アニメ』とゆうワクの中での≪リアリティ≫がウマく追求されてた、とゆう『リアリズム』だし。その一方の「Z」の『リアリズム』とは、もっとムキ出しのワケ分からんイミ不明なる≪現実的なもの≫が、描かれてるとゆうか、ソレがチラチラかいま見えてるとゆうか…。
かくて、初代に並べてみたときの「Zガンダム」においては。ヘンケンにリュウやマチルダのマネごとがデキないばかりか、カミーユ君もまたアムロ君のよーなリッパなヒーローにはなれないし。そして「Z」にヤタラ大ぜい出てクる女性キャラクターたちもまた誰1人、ララァのよーなリッパなヒロインにはなれない。かつ初代から出てるジンブツらにしても、「Z」に出てるシャアやアムロが、以前よりもカッコいいと想うヒトはまずいないだろーし。
…かろーじてファ1人が、『幼なじみキャラクター』としての一貫した献身ブリで、初代のフラウ・ボウを超えたのが快挙ともゆえそーか。と申すのは、初代を先日再見してて、『そのオハナシの終盤、フラウがアムロ君への特別な関心を失ってしまう』…とゆうトコが、筆者にはひじょうにショッキングだったので!
(だから、かの名高きラストシーンでアムロ君が、『フラウ、大好きなフラウ』…と、やっと初めて『正しいこと』をコトバにデキたときには、すでにコトは終わってたワケだ。コレはイタいッ!)
たったいまファの名前が出たトコでの思いツキによって、「Zガンダム」の世界が全般にどンだけデタラメかを形容すると。ソレは『幼なじみキャラクターがフツーに寝取られる(!)』、そのよーなデタラメさと申すコトもデキそーだ。『ソレはソレでコーフンする』…ナドとゆう寝言は聞ーてないが、つまり「Z」の世界は、われわれの世界と同じくれーにデタラメなのだ。
かとゆって劇中でじっさいに、ファがシロッコあたりのオトコに寝取られちまうとゆうコトはない。ソコが一種の救いであり(?)、『一線』を越さなかったトコかなぁ…とは、感じる。が、そーかとゆって、仮にシロッコのもとに走るのがレコアでなくファだったとしても、このオハナシの全般は何ンら支障なく成り立つンではッ!?
アニメとか見るよーなニンゲンらの中に、『幼なじみキャラクター』に対するフシギな安心感とゆうモノは、ナゼかあるモノらしぃ。そのよーなモノがオレのよーなバカなオトコらだけでなく、女性や少女たちの中にもありそーなコトは、ザラにある少女まんがの超一大ルーチンを見れば知れる。…『何かチョッとしたイベントをこなした結果ヒロインは、びみょうなカンケイだった幼なじみと、めでたく相思相愛に』。かつコレこそ、フラウもファもが望んでたコトなのでは。
ただし女-男の異なりは、女性たちがいちおう意識化デキてる幼なじみの異性への想いを、オトコらはイシキ化するコトさえもがデキにくぃらしぃ。このコトは少なくとも、ゆってるオレ自身に関する≪真理≫ではありげ。そーでなければ、大して感情移入して見てるツモリもなかった≪フラウ×アムロ≫関係の終わりを、『ショッキング!』と感じたコトの理由がツカない。
…とまでのハナシにオチをツケにくぃんだけど、想ぃマスに。
まず、初代ガンダムの物語に何ンらかの≪教訓≫を見るとゆうのは、ワリとフツーの感性のシワザではあるかと。ココで筆者が申してンのは、そのストーリーをアムロ君の『成長物語』と見るよーなコトだ。
つまり、どーでもニンゲンは社会の中で生きなければならないし、そしてその中で何ンらかの役割を果たさねばならない。で、その『役割を果たす』タメ、フツーのヒトは何ンらかの≪組織≫に属するよーなハメになる。そしてその組織の中での身の処し方ッてのが、ま~たムズカしく…。等々々のよーなコトがアムロ君の視点を通して学べるオハナシだと、初代ガンダムを見るよーなまなざしは、ありうるかと。
ところが続いた「Z」のストーリーに、そのよーな教訓性があるだろーか? むしろそのオハナシは、『社会および組織の中で生きるしかないが、そンなトコで生きるコトは不可能である』てなコトを伝えてるよーに想える。ひじょうにイヤだが、ソレがまた本当のコトなのだ。
だから(ハッキリ言わないが)、「Z」のさいごでカミーユ君があのよーになッちまったのは、きわめていたましくも必然とゆえば必然なのだ。『ナゼ、カレはあのよーなコトに?』…とゆう設問への答はイロイロ考えられるけど、いまは1つ、常人チックなヒトビトが通常テキトーに流してる致命的なジレンマを、流せなくなっちゃッたから…とゆう答を提示いたしとく。
ソレコレによって「Zガンダム」は、その≪すべて≫にわたるまったくの収まりのツカなさによって、ふだんわれわれが見ても見ないよーな≪現実的なもの≫、そしてソコに由来するニガすぎな≪真理≫とかを、かいま見せる作品になってンのかなぁ…とゆう気はしてキたのだった。
だからヘンケン艦長の、『愚挙』とゆえそーな行動にしても。そのアンマリなカッコのツカなさは逆に、ガンダムシリーズがびみょうにも美化して描いてやがる≪特攻≫とゆうコト、そのまったくの無イミさを教えてンのだ…とゆう受けとめ方はデキるだろう。初代に描かれた『美しいウソ』の数々の大ホーカイを、われわれは「Z」にて見るハメになってンのだ。
そーゆえば「Z」には『ジェリド特攻』とゆう題名の回があるけれど、しかしその回でジェリドは死なないし、そもそもカレが≪特攻≫をヤッたのかどーかさえも、よく分からンかった。とゆった≪すべて≫のカッコのツカなさ、ソレが「Z」の流儀ッ!
ところで筆者の知ってるコトとして、初代よりも「Zガンダム」の方が自分には印象深い、とゆう方々はおられる。だぃたぃは自分より年少の友人たちなので、世代的に『先にふれたのが「Z」だった』…なンて理由もあるのだろーが、ソレだけなのだろーか? 「Z」のどーゆうトコにひかれるのか、いつか聞いてみたぃ気はする。
とぉ、予想外にガンダムのハナシが続いたので(マズぅ~)。次の記事は、チャンと押井守作品でッ! でゎシツレイしました~!
ごくごく、手短にゆおうとしつつ。「機動戦士Zガンダム」に登場するヘンケン艦長のコトだが、以下はネタばらしに該当するよーなハナシになり気味なので、念のタメ。
物語の最終局面あたり、自分が岡惚れしてるエマ・シーンが戦死しそうなのでヘンケンは、カレの宇宙戦艦を盾にしてエマの生命を救おーとする。エマをはじめとするカレの部下たちが、『ソレでは艦がヤラレてしまう!』、と制止するのも聞かないで。
すると、どーなったかッ? エマたちのゆった通り、ヘンケンの艦は敵のロボットにヤラレて轟チンのウキ目を見る。ソレでヘンケンが死ぬのはもちろんだが、カレの艦の乗組員らもみ~んな道連れになる(!)。
そして、ヘンケンがありえざる挙に出てまで救おうとしたエマは、その場での即死だけはまぬがれたが。しかしすでに致命的な負傷をしてたらしく、追って宇宙ステーションか何かの中で、カミーユ君にみとられながら死んでしまう(…余談だがその後、カミーユ君が彼女と別れて戦闘に戻ろうとすると、その場の人工重力が切れてエマのカラダがふわ~りと宙に浮き上がる。この場面の、凄愴な美しさは印象深い)。
「Zガンダム」とゆう作品はズイブンとアチコチで、初代ガンダムを幻滅テキなヤリ方で≪反復≫してるトコがある。イヤむしろ、ソレばっかし!…とゆったよーなコトを何ン度も申してるけれど、コレがまた。
われわれは初代のガンダムにて、『とても感動テキな自己犠牲のシーン』らしきモノを、いくつか見てる。ところが「Z」にてのヘンケンの『自己犠牲』は、初代に出てたリュウやマチルダの『感動的』な挙を、≪反復≫しよーとしてゼンゼン反復デキてない。カレのヤッたコトはすでに瀕死のエマをタブン数十分間ほど延命デキたにすぎず、そしてそのタメにカレは自分のイノチばかりか、カレのモノでない乗組員らの生命を戦艦ごとギセイにしやがったのだ。
で、そのよーにヘンケンは、『崇高なる自己犠牲』とやらを想ッくそヤリそこなってるが。しかしそーかとゆってわれわれは、この艦長を逆に『悪人』かのよーにも見なしニクぃのではッ? ソコらが実に、「Z」特有の煮えきらないトコだ!
カレは軍人でありかつ『長』のつくよーな立場の者として、ゼッタイにヤッてはならンよーなコトをヤリやがったか、とは見える。がしかし、カレがニンゲンとしてありえぬ非道なコトをヤリくさったとまでは、ナゼか言いニクぃ感じあり。よってカレへとおくるコトバは、『リッパなドアホウであったなァ』…くれーしか、筆者には想いツカない。
またソレと、ゼンゼン似てなくはないよーな感じで。終盤でのレコアの寝返りにしても見てるわれわれは、その挙をトーゼン肯定はデキず、しかしムゲなる否定もしきれない。かくてカレらの行為らの≪イミ≫とゆうモノは、われわれのまなざしの前で宙に浮きまくッてる。
このよーなカッコのつかなさは、ヘンケンやレコアだけのコトでなく、初代に並べてみたときの「Zガンダム」全般の特徴かと見れる。初代ガンダムが『リアリズム』の提示から始まって『スウィ~ト・ドリ~夢』(いま直接に申してるのはニュータイプ救世主義のコト)にまでヒトを誘導する作品だったとすれば、「Z」はそのドリ~夢の大破綻から始まッて、そしてあるイミでの『リアリズム』をプイと放り出す作品になっている。
と、『リアリズム』とゆう語がいま2回出たが、むろんそれぞれのイミは異なっている。まず初代ガンダムについては、『ロボットSF戦争アニメ』とゆうワクの中での≪リアリティ≫がウマく追求されてた、とゆう『リアリズム』だし。その一方の「Z」の『リアリズム』とは、もっとムキ出しのワケ分からんイミ不明なる≪現実的なもの≫が、描かれてるとゆうか、ソレがチラチラかいま見えてるとゆうか…。
かくて、初代に並べてみたときの「Zガンダム」においては。ヘンケンにリュウやマチルダのマネごとがデキないばかりか、カミーユ君もまたアムロ君のよーなリッパなヒーローにはなれないし。そして「Z」にヤタラ大ぜい出てクる女性キャラクターたちもまた誰1人、ララァのよーなリッパなヒロインにはなれない。かつ初代から出てるジンブツらにしても、「Z」に出てるシャアやアムロが、以前よりもカッコいいと想うヒトはまずいないだろーし。
…かろーじてファ1人が、『幼なじみキャラクター』としての一貫した献身ブリで、初代のフラウ・ボウを超えたのが快挙ともゆえそーか。と申すのは、初代を先日再見してて、『そのオハナシの終盤、フラウがアムロ君への特別な関心を失ってしまう』…とゆうトコが、筆者にはひじょうにショッキングだったので!
(だから、かの名高きラストシーンでアムロ君が、『フラウ、大好きなフラウ』…と、やっと初めて『正しいこと』をコトバにデキたときには、すでにコトは終わってたワケだ。コレはイタいッ!)
たったいまファの名前が出たトコでの思いツキによって、「Zガンダム」の世界が全般にどンだけデタラメかを形容すると。ソレは『幼なじみキャラクターがフツーに寝取られる(!)』、そのよーなデタラメさと申すコトもデキそーだ。『ソレはソレでコーフンする』…ナドとゆう寝言は聞ーてないが、つまり「Z」の世界は、われわれの世界と同じくれーにデタラメなのだ。
かとゆって劇中でじっさいに、ファがシロッコあたりのオトコに寝取られちまうとゆうコトはない。ソコが一種の救いであり(?)、『一線』を越さなかったトコかなぁ…とは、感じる。が、そーかとゆって、仮にシロッコのもとに走るのがレコアでなくファだったとしても、このオハナシの全般は何ンら支障なく成り立つンではッ!?
アニメとか見るよーなニンゲンらの中に、『幼なじみキャラクター』に対するフシギな安心感とゆうモノは、ナゼかあるモノらしぃ。そのよーなモノがオレのよーなバカなオトコらだけでなく、女性や少女たちの中にもありそーなコトは、ザラにある少女まんがの超一大ルーチンを見れば知れる。…『何かチョッとしたイベントをこなした結果ヒロインは、びみょうなカンケイだった幼なじみと、めでたく相思相愛に』。かつコレこそ、フラウもファもが望んでたコトなのでは。
ただし女-男の異なりは、女性たちがいちおう意識化デキてる幼なじみの異性への想いを、オトコらはイシキ化するコトさえもがデキにくぃらしぃ。このコトは少なくとも、ゆってるオレ自身に関する≪真理≫ではありげ。そーでなければ、大して感情移入して見てるツモリもなかった≪フラウ×アムロ≫関係の終わりを、『ショッキング!』と感じたコトの理由がツカない。
…とまでのハナシにオチをツケにくぃんだけど、想ぃマスに。
まず、初代ガンダムの物語に何ンらかの≪教訓≫を見るとゆうのは、ワリとフツーの感性のシワザではあるかと。ココで筆者が申してンのは、そのストーリーをアムロ君の『成長物語』と見るよーなコトだ。
つまり、どーでもニンゲンは社会の中で生きなければならないし、そしてその中で何ンらかの役割を果たさねばならない。で、その『役割を果たす』タメ、フツーのヒトは何ンらかの≪組織≫に属するよーなハメになる。そしてその組織の中での身の処し方ッてのが、ま~たムズカしく…。等々々のよーなコトがアムロ君の視点を通して学べるオハナシだと、初代ガンダムを見るよーなまなざしは、ありうるかと。
ところが続いた「Z」のストーリーに、そのよーな教訓性があるだろーか? むしろそのオハナシは、『社会および組織の中で生きるしかないが、そンなトコで生きるコトは不可能である』てなコトを伝えてるよーに想える。ひじょうにイヤだが、ソレがまた本当のコトなのだ。
だから(ハッキリ言わないが)、「Z」のさいごでカミーユ君があのよーになッちまったのは、きわめていたましくも必然とゆえば必然なのだ。『ナゼ、カレはあのよーなコトに?』…とゆう設問への答はイロイロ考えられるけど、いまは1つ、常人チックなヒトビトが通常テキトーに流してる致命的なジレンマを、流せなくなっちゃッたから…とゆう答を提示いたしとく。
ソレコレによって「Zガンダム」は、その≪すべて≫にわたるまったくの収まりのツカなさによって、ふだんわれわれが見ても見ないよーな≪現実的なもの≫、そしてソコに由来するニガすぎな≪真理≫とかを、かいま見せる作品になってンのかなぁ…とゆう気はしてキたのだった。
だからヘンケン艦長の、『愚挙』とゆえそーな行動にしても。そのアンマリなカッコのツカなさは逆に、ガンダムシリーズがびみょうにも美化して描いてやがる≪特攻≫とゆうコト、そのまったくの無イミさを教えてンのだ…とゆう受けとめ方はデキるだろう。初代に描かれた『美しいウソ』の数々の大ホーカイを、われわれは「Z」にて見るハメになってンのだ。
そーゆえば「Z」には『ジェリド特攻』とゆう題名の回があるけれど、しかしその回でジェリドは死なないし、そもそもカレが≪特攻≫をヤッたのかどーかさえも、よく分からンかった。とゆった≪すべて≫のカッコのツカなさ、ソレが「Z」の流儀ッ!
ところで筆者の知ってるコトとして、初代よりも「Zガンダム」の方が自分には印象深い、とゆう方々はおられる。だぃたぃは自分より年少の友人たちなので、世代的に『先にふれたのが「Z」だった』…なンて理由もあるのだろーが、ソレだけなのだろーか? 「Z」のどーゆうトコにひかれるのか、いつか聞いてみたぃ気はする。
とぉ、予想外にガンダムのハナシが続いたので(マズぅ~)。次の記事は、チャンと押井守作品でッ! でゎシツレイしました~!
2009/10/02
≪性的関係≫は存在しない Pt.3 - Zガンダム(5)
(『Pt.2』からの続き…)とゆう、ほとんどが映像で描かれたシーンを正しくコトバにデキてるのかどーか、少々ギモンはありつつも。ともあれココで、ハマーンはシャアを幻視しカミーユ君は自分の母を幻視してるよーなのに、カミーユ君はカレらが『同じものを見た!』と言い張るのだ。そしてハマーンはおそらくは、シャアに対する彼女のキモチをカミーユ君に見られちまッたかと想ってそーだが、しかしカミーユ君はそんなモノを見てなさげ。
ソレコレでよーするにコイツらは、向かい合ってもお互いを見てないのだ。自分の見たモノは相手にも見えてる(ハズ)、と考えるだけなのだ。
『出遭い(そこね)』とゆう語で形容するにもコレはズイブンなモノがあるが、しかしわれわれが実人生で演ずる『出遭い(そこね)』は、だぃたぃこのよーに運ぶ。かとゆってもこのお芝居とは異なり、やたら殺し合いや感情のブツけ合いをヤるワケではないが、しかしコレを『おおむね正確な描写』だと、オレは見る。
もー少しハッキリ言うと、カミーユ君はハマーンに対しても『性的関係』を求めてイッてるのだ。そしてカレが求める『性的関係』とは、一体のモノとしての≪母-と-自分≫、とゆうイメージで表象されるモノなのだ。
そしてこのさいの『出遭い(そこね)』が片方の死によって終わるよーなコトにならンのは、一方のハマーンがチラリとは見た『性的関係がありうる』を、幻想としてしりぞけるからだ。その対応はあるイミ正しいが、しかしそんなコトがデキるのは「Z」の主要な女性キャラクターたちの中で、ハマーン1ピキだけだ。ソコらで彼女は、ユニ~クだ。何ンせ本命のラヴであるシャア本人をも殺そーとすンだから、その代理として目の前に出てキたカミーユ君ごときはッ。
で、ワリとそのよーにあしらわれがちだとゆうコトは、われわれが≪宇宙世紀のあたる君≫と呼ぶカミーユ君の、ナンパ師としていまだいたらざるトコだが。しかしそのカミーユ君は、追って『ニュータイプ同士の究極の交感』チックなコトをヤリすぎたせいで、カレの悲劇を演ずるハメになる。…ソコらはいちおう、ボカシた表現にしとく。
とまで、何ンのハナシをしてンのかとゆうと! ガンダムシリーズ中の『設定』である≪ニュータイプ≫とは、初代のラストでは未来の人類の希望かのよーに描かれたモンだが、追っての「Z」はまずソコを否定してる(…社会テキには、ソレは役立たない)。その否定が、この物語の出発点ではある。
しかしそのニュータイプ能力とやらが、ただ戦場で役に立つばかりか、初代にて『ララァ×アムロ』がチラリ示した『性的関係が存在し現前しうる』とゆう奇跡を、かいま見せるモノではあろう…と、「Z」は描いてる。ソコの機能は、必ずしも否定してないワケだ。
『ヒトは分かりあえる』がヒトビトの聞きたがってるコトバであるならば、『性的関係が存在する』も、またソレだ(…実質テキに両者は同じコト、ともゆえる)。ところがウソのないコトに『性的関係が存在する』はチラ見えくれーにしか現れず、「Z」作中にてもヒトビトは、フツーに『出遭い(そこね)』を演じるか、またはフィクションならではのとくべつに劇的かつ悲劇的なカタチでソレを演じるか…しか、デキないのだ。
そしてソレに付随し、作中ジンブツらの演じてるドタバタが乱脈すぎだ…とゆうコトを前回の堕文でシテキしたが、さいごまで見てソコらへの訂正の必要を、特に筆者は感じない。がしかし、もしも「Z」の最大のテーマが『性的関係がゼヒ存在すべき』とゆうヒトビトの想い…だとゆうンなら、前にシテキした今作全般のヘンにイヤらしぃフンイキにも、いちおうの理由がつくとはゆえる。
ところでココまでにさんざんゆってきた『性的関係は存在しない』とは、ジャック・ラカン様とゆうフランスの精神分析家の主張だが。ソレを聞いて筆者は以前にも、『ソレでか!』と、さとったコトがある。
…「新世紀エヴァンゲリオン」とゆう作品について筆者は、その作中のカンジンそーな要素たる『人類補完計画』てのが、どーゆうコトだかさっぱし分かンなかったのだ。そして、つぃにその計画の発動が描かれた劇場版「The End of Evangelion」を見てもよく分かンなかったので、大いにムクれて『まったくアニメ屋とゆう連中はッ!』と、クチをとがらせながら新宿の上映館を出た夏の終わり、in 1997…とゆうコトは憶えてる。
何ンだか筆者が『アニメの想い出』を語ると、≪失望≫とゆうコトばかりが出てクるよーな感じだが、ソレはともかく! ワカってしまえばカンタンなコトで(?)、モンダイのエヴァンゲリオンにおける『人類補完計画』とは、この世には存在してない『性的関係』を、ムリにでも存在させよーとゆうモノに他ならない。
だからその計画に巻き込まれたヒトビトは、それぞれの望むパートナーとの(想像上の?)一体化を悦びながら、『性的関係の現前』を悦びながら、そしてシアワセに『この世』を去ってゆく。…ソレが『死んだ』とゆうコトなのかどーかはよく分からンが、ココまでを見てキたわれわれにとって『ありえざる性的関係のまたき現前⇒個体の死』とゆう流れは、あるコトだと考えられる。ところが取り残されたアスカとシンジ君の2人には、あいも変わらず『性的関係は存在しない』。
だからその最終作のラストに、『キモチ悪い』とゆうアスカのセリフはある。…あの作の終わり、誰がどー見てもだんぜんキモチ悪い場面でそのよーなセリフを聞いて、『ホントにキモチわりーぜ!』とオレは想ったが…。『何ンだ、この不ユカイさは!』とも、言いたくはなるトコだが…。
しかし一定の正しさありげな発言として、ソレはソコにある。『性的関係は存在しない』世界において、他者は確かに『キモチ悪い』。コレはさきに見た「Z」でハマーンがカミーユ君に対し、『よくもズケズケと!』と感じたコトが、≪反復≫されてンのでもある。
(『最終作』とゆったが、ただいま劇場版「21世紀版EVA」とゆうのが順次公開されてる最中なので、『20世紀版EVAの最終作』とゆう言い方にすべきかも?)
ハナシをじゃっかん戻しつつ、「Zガンダム」のドコかにてシャアいわく、『人の心に踏み込むには、それ相応の資格がいる』。とは、「Z」をダイヒョーするメイ文句(?)かのよーにゆわれるが。
しかしその≪資格≫とやらがドコでどー得られるか…が、ゼンゼン分からない(ご存じの方は、ゼヒ筆者にもお教え願いたい)。ゆったシャアにも、そンな資格はないらしぃし。
とすればコレは、『ヒトのココロには踏み込めない、つか踏み込むな』とゆってンのと、ドコが異なるのだろーか? すなーち、「EVA」で言われる『絶対領域』とゆうモノは存在するのだ。…と、この部位にても「Z」と「EVA」とゆう作品2コが出遭(いそこな)ってる。
もしも『性的関係』の存在する世界があるとすれば、その『絶対領域』の向こう側のコトだろう。そして「Z」でも「EVA」でも正しく描かれてるよーに、『絶対領域』を突破してその世界に達するコトは、≪主体≫を死か狂気に導く(…少なくとも、ドッチかの≪主体≫を)。ヒトとヒトとの間をさえぎる『絶対領域』の存在は、ヒトをヒトにしてる条件だ。
そーゆえば一時期のフロイト様は、≪テレパシー≫の存在をワリとマジで考えておられた。追ってラカン様は、世界一のフロイト信奉者でありながら例外テキに、そのコトを強~くヒハンなされた。
テレパシーの存在は、われわれの知ってる≪人格≫を否定するからだ。ヒトがヒトである以上、テレパシーはありえない…実に夢のないハナシだが、でもそーなのだ。そしてオリジナル・ガンダムシリーズにおける≪ニュータイプ≫たちの末路は、その事実と『設定』との間の整合性を、ムリにとってるモノかと考えられる。
けれど「Zガンダム」にしろ「EVA」にしろ一定の『正しいコト』を描いてはいつつ、しかし欲の深い筆者(?)の自分かってなガッカリを誘ってるのは。事実として『性的関係は存在しない』世界で生きなければならないわれわれに対し、ソレらの教えるところがあまりにも多くない…とゆうコトであるらしぃ。
とゆう、『押井守専門』を名のるブログにてのガンダム話(…やべぇッ)。ココまでの皆さまのご清聴、まことにありがとござました~ッ!
ソレコレでよーするにコイツらは、向かい合ってもお互いを見てないのだ。自分の見たモノは相手にも見えてる(ハズ)、と考えるだけなのだ。
『出遭い(そこね)』とゆう語で形容するにもコレはズイブンなモノがあるが、しかしわれわれが実人生で演ずる『出遭い(そこね)』は、だぃたぃこのよーに運ぶ。かとゆってもこのお芝居とは異なり、やたら殺し合いや感情のブツけ合いをヤるワケではないが、しかしコレを『おおむね正確な描写』だと、オレは見る。
もー少しハッキリ言うと、カミーユ君はハマーンに対しても『性的関係』を求めてイッてるのだ。そしてカレが求める『性的関係』とは、一体のモノとしての≪母-と-自分≫、とゆうイメージで表象されるモノなのだ。
そしてこのさいの『出遭い(そこね)』が片方の死によって終わるよーなコトにならンのは、一方のハマーンがチラリとは見た『性的関係がありうる』を、幻想としてしりぞけるからだ。その対応はあるイミ正しいが、しかしそんなコトがデキるのは「Z」の主要な女性キャラクターたちの中で、ハマーン1ピキだけだ。ソコらで彼女は、ユニ~クだ。何ンせ本命のラヴであるシャア本人をも殺そーとすンだから、その代理として目の前に出てキたカミーユ君ごときはッ。
で、ワリとそのよーにあしらわれがちだとゆうコトは、われわれが≪宇宙世紀のあたる君≫と呼ぶカミーユ君の、ナンパ師としていまだいたらざるトコだが。しかしそのカミーユ君は、追って『ニュータイプ同士の究極の交感』チックなコトをヤリすぎたせいで、カレの悲劇を演ずるハメになる。…ソコらはいちおう、ボカシた表現にしとく。
とまで、何ンのハナシをしてンのかとゆうと! ガンダムシリーズ中の『設定』である≪ニュータイプ≫とは、初代のラストでは未来の人類の希望かのよーに描かれたモンだが、追っての「Z」はまずソコを否定してる(…社会テキには、ソレは役立たない)。その否定が、この物語の出発点ではある。
しかしそのニュータイプ能力とやらが、ただ戦場で役に立つばかりか、初代にて『ララァ×アムロ』がチラリ示した『性的関係が存在し現前しうる』とゆう奇跡を、かいま見せるモノではあろう…と、「Z」は描いてる。ソコの機能は、必ずしも否定してないワケだ。
『ヒトは分かりあえる』がヒトビトの聞きたがってるコトバであるならば、『性的関係が存在する』も、またソレだ(…実質テキに両者は同じコト、ともゆえる)。ところがウソのないコトに『性的関係が存在する』はチラ見えくれーにしか現れず、「Z」作中にてもヒトビトは、フツーに『出遭い(そこね)』を演じるか、またはフィクションならではのとくべつに劇的かつ悲劇的なカタチでソレを演じるか…しか、デキないのだ。
そしてソレに付随し、作中ジンブツらの演じてるドタバタが乱脈すぎだ…とゆうコトを前回の堕文でシテキしたが、さいごまで見てソコらへの訂正の必要を、特に筆者は感じない。がしかし、もしも「Z」の最大のテーマが『性的関係がゼヒ存在すべき』とゆうヒトビトの想い…だとゆうンなら、前にシテキした今作全般のヘンにイヤらしぃフンイキにも、いちおうの理由がつくとはゆえる。
ところでココまでにさんざんゆってきた『性的関係は存在しない』とは、ジャック・ラカン様とゆうフランスの精神分析家の主張だが。ソレを聞いて筆者は以前にも、『ソレでか!』と、さとったコトがある。
…「新世紀エヴァンゲリオン」とゆう作品について筆者は、その作中のカンジンそーな要素たる『人類補完計画』てのが、どーゆうコトだかさっぱし分かンなかったのだ。そして、つぃにその計画の発動が描かれた劇場版「The End of Evangelion」を見てもよく分かンなかったので、大いにムクれて『まったくアニメ屋とゆう連中はッ!』と、クチをとがらせながら新宿の上映館を出た夏の終わり、in 1997…とゆうコトは憶えてる。
何ンだか筆者が『アニメの想い出』を語ると、≪失望≫とゆうコトばかりが出てクるよーな感じだが、ソレはともかく! ワカってしまえばカンタンなコトで(?)、モンダイのエヴァンゲリオンにおける『人類補完計画』とは、この世には存在してない『性的関係』を、ムリにでも存在させよーとゆうモノに他ならない。
だからその計画に巻き込まれたヒトビトは、それぞれの望むパートナーとの(想像上の?)一体化を悦びながら、『性的関係の現前』を悦びながら、そしてシアワセに『この世』を去ってゆく。…ソレが『死んだ』とゆうコトなのかどーかはよく分からンが、ココまでを見てキたわれわれにとって『ありえざる性的関係のまたき現前⇒個体の死』とゆう流れは、あるコトだと考えられる。ところが取り残されたアスカとシンジ君の2人には、あいも変わらず『性的関係は存在しない』。
だからその最終作のラストに、『キモチ悪い』とゆうアスカのセリフはある。…あの作の終わり、誰がどー見てもだんぜんキモチ悪い場面でそのよーなセリフを聞いて、『ホントにキモチわりーぜ!』とオレは想ったが…。『何ンだ、この不ユカイさは!』とも、言いたくはなるトコだが…。
しかし一定の正しさありげな発言として、ソレはソコにある。『性的関係は存在しない』世界において、他者は確かに『キモチ悪い』。コレはさきに見た「Z」でハマーンがカミーユ君に対し、『よくもズケズケと!』と感じたコトが、≪反復≫されてンのでもある。
(『最終作』とゆったが、ただいま劇場版「21世紀版EVA」とゆうのが順次公開されてる最中なので、『20世紀版EVAの最終作』とゆう言い方にすべきかも?)
ハナシをじゃっかん戻しつつ、「Zガンダム」のドコかにてシャアいわく、『人の心に踏み込むには、それ相応の資格がいる』。とは、「Z」をダイヒョーするメイ文句(?)かのよーにゆわれるが。
しかしその≪資格≫とやらがドコでどー得られるか…が、ゼンゼン分からない(ご存じの方は、ゼヒ筆者にもお教え願いたい)。ゆったシャアにも、そンな資格はないらしぃし。
とすればコレは、『ヒトのココロには踏み込めない、つか踏み込むな』とゆってンのと、ドコが異なるのだろーか? すなーち、「EVA」で言われる『絶対領域』とゆうモノは存在するのだ。…と、この部位にても「Z」と「EVA」とゆう作品2コが出遭(いそこな)ってる。
もしも『性的関係』の存在する世界があるとすれば、その『絶対領域』の向こう側のコトだろう。そして「Z」でも「EVA」でも正しく描かれてるよーに、『絶対領域』を突破してその世界に達するコトは、≪主体≫を死か狂気に導く(…少なくとも、ドッチかの≪主体≫を)。ヒトとヒトとの間をさえぎる『絶対領域』の存在は、ヒトをヒトにしてる条件だ。
そーゆえば一時期のフロイト様は、≪テレパシー≫の存在をワリとマジで考えておられた。追ってラカン様は、世界一のフロイト信奉者でありながら例外テキに、そのコトを強~くヒハンなされた。
テレパシーの存在は、われわれの知ってる≪人格≫を否定するからだ。ヒトがヒトである以上、テレパシーはありえない…実に夢のないハナシだが、でもそーなのだ。そしてオリジナル・ガンダムシリーズにおける≪ニュータイプ≫たちの末路は、その事実と『設定』との間の整合性を、ムリにとってるモノかと考えられる。
けれど「Zガンダム」にしろ「EVA」にしろ一定の『正しいコト』を描いてはいつつ、しかし欲の深い筆者(?)の自分かってなガッカリを誘ってるのは。事実として『性的関係は存在しない』世界で生きなければならないわれわれに対し、ソレらの教えるところがあまりにも多くない…とゆうコトであるらしぃ。
とゆう、『押井守専門』を名のるブログにてのガンダム話(…やべぇッ)。ココまでの皆さまのご清聴、まことにありがとござました~ッ!
≪性的関係≫は存在しない Pt.2 - Zガンダム(4)
(『Pt.1』からの続き…)世には、≪反復≫は悲劇を喜劇にする、かのよーなコトが言われるが(…えっと確か、コレはマルクス様のメイ言だとか?)。しかしこの場合は、ハナシが逆だ。初代ガンダムの終わり方をあるイミでのハッピーエンドと受けとっておくと、「Z」の終わり方がどーにもヤバすぎる。
そして≪反復≫とゆうのなら「Z」には反復が多すぎで、前の堕文で話題になった、『ナゼに軍隊のパイロットが女性ばっかなのか?』…とゆうカミーユ君のギモンには、ココでいちおうの答が得られる。その理由とは、初代でおなじみ『ララァ×アムロ』の大詰めシーンを、ぞんぶんに大量生産で≪反復≫するタメだ。
ところで見てればソレとなくワカるコトだが、ニュータイプ同士だったとしてもお互いが≪異性≫でなければ、『ララァ×アムロ』の大詰めで描かれたよーなキョーレツな『出遭い(そこね)』は、生じないらしぃ。たとぇば「Z」にはアムロとシャアとの2ショットがたびたび描かれてるが(キャ~!)、しかしニュータイプ同士だからとゆって特別なコトは、何ンも起こらないワケで。
そしてアムロ君がララァと出遭(いそこな)ってしまったコトが、初代のケツ末ではともかくも『よかったコト』と描かれてるよーに想えるが。しかし「Z」でのアムロ(ら)は、ソレをあんまし『よかったコト』とは考えてなさげ。
で、そのよーなコトの≪反復≫はヤメなければ…とアムロは考えてンのに、カミーユ君はこりもせずその≪反復≫をヤメない。そして(ひそやかにも)ニュータイプ救世主義を護持し続けてるシャアは、ソコのところでタイドをハッキリさしてないよーな感じ。
で、『ララァ×アムロ』が示したよーなニュータイプ同士の究極の交感とは、いったいナニごとなのかとゆうと? ソレをわれわれは、『≪性的関係≫が(ついに!)存在し、かつ現前しうる』…とゆうテーゼの描出、と受けとるコトがデキそう。
ただし事実としたらハッキリと、『性的関係は存在しない』。ではあるがヒトビトは、『性的関係が存在する(存在しうる)』とゆうコトバを聞きたがってるのだ。そして「Z」とゆう作品は…その物語は…その作中ジンブツらは、『性的関係は存在すべき』とゆうヒトビトの願望と『性的関係は存在しない』とゆう事実とのはざまにて想ッくそ、のたうち廻ッてみせてるのだ。
ところでニンゲンとゆう存在自体が、『性的関係のなさ』を前提に成り立ってるよーなトコはある。だからこそ初代の『ララァ×アムロ』でも「Z」でも、『性的関係の現前』を見たよーな2人は、その一方が死ななければならない…のかも知れない。『既知のブツリ法則を成り立たしめるタメに、かくかくのよーな現象が生じる』などとゆう転倒気味な説明を聞くコトがあるが、コレはソレかも知れない。
てゆうかよく見たら「Z」においては逆に、片方の死が確定した時点でやっと、その『ニュータイプ同士の究極の交感』的な描写が始まる…とゆうのがある。『性的関係の現前』があるとすれば、それはいまわのきわの幻覚としてノミ…だとゆうのも、まったく言いたくはないコトだが。
しかもソコで死ぬ側に廻るのは、必ずや女性の方だ。ナゼに必ず女性が死ぬのかとゆうと、ほんとうに『ヒトを愛する』とゆうコトがデキるのは女性だけだから…とでもゆっときたぃ気はするが。けれどそのよーな想念がけっきょくは、筆者においてもごくごくフツーの凡人として、『性的関係の存在を信じたい』…てコトの表れなのかも。
ところで「Z」における、シリーズ前作での『ララァ×アムロ』の出遭い(そこね)を反復しての、『ニュータイプ同士の究極の交感』チックな描写。…とゆうモノがやたらにある中で、作の大詰め直前での『ハマーン×カミーユ』は、チョッと異なったモノになってる感じ(第47話)。ソコで対峙したニュータイプ2人はお互いの中に、それぞれの『見たいイメージ』を見るのだ。
まずはカミーユ君につぃてゆうと、カレはハマーンの中にカレが特別に見てる女性たちのイメージらを、次々と見る…次々と。さすがわれらのカミーユ君、幼なじみのファから『女好き!』と叱られて『悪いかよ!』と、パックン開き直りやがった≪あたる君≫だけにッ。
ソレはともかく、やがてカミーユ君の目にするイメージらは、カレの亡母とゆうイメージに収束する。その最終的な『想像(イメージ)』の中には、過去の若き母と幼きカミーユ君がいる。その2人は希望と喜びに満ちて、幸せそーだ。
その一方のハマーンが見るイメージは、そんなにもりだくさんではなくて。まずはシロッコとシャアのイメージがフラッシュし、次には過去の、あどけない少女だったころの彼女自身と、そして兄と慕ったかってのシャアとのラブラブっぽぃ2ショット…ソレを彼女は、カミーユ君の中に見る。
コレを極端に単純にゆうと、ハマーンはカミーユ君の中にシャアを見ており、カミーユ君はハマーンの中に自分の母を見てるのだ。そしてそれぞれのイメージはそれぞれに、いまは求めえぬ幼時の至上の幸福を…永遠(とわ)に失われてしまったソレを、チラリとかいま見せるのだ。
とゆうワケでこのご両人は、対峙しながら『同床異夢』をきわめてる(かと見れる)。にもかかーらず、カミーユ君はカレらが『同じものを見た!』と言い、そして『ヒトは分かりあえるんだ!』と言う。
けれど一方のハマーンは、『よくもズケズケとヒトの中に入る!』と言い棄てて、たったいまの幻視を…『ニュータイプ同士の交感』を不快感とともに否定し去り、そして再びカミーユ君にケンカを売り直すのだった。(『Pt.3』へ続く)
そして≪反復≫とゆうのなら「Z」には反復が多すぎで、前の堕文で話題になった、『ナゼに軍隊のパイロットが女性ばっかなのか?』…とゆうカミーユ君のギモンには、ココでいちおうの答が得られる。その理由とは、初代でおなじみ『ララァ×アムロ』の大詰めシーンを、ぞんぶんに大量生産で≪反復≫するタメだ。
ところで見てればソレとなくワカるコトだが、ニュータイプ同士だったとしてもお互いが≪異性≫でなければ、『ララァ×アムロ』の大詰めで描かれたよーなキョーレツな『出遭い(そこね)』は、生じないらしぃ。たとぇば「Z」にはアムロとシャアとの2ショットがたびたび描かれてるが(キャ~!)、しかしニュータイプ同士だからとゆって特別なコトは、何ンも起こらないワケで。
そしてアムロ君がララァと出遭(いそこな)ってしまったコトが、初代のケツ末ではともかくも『よかったコト』と描かれてるよーに想えるが。しかし「Z」でのアムロ(ら)は、ソレをあんまし『よかったコト』とは考えてなさげ。
で、そのよーなコトの≪反復≫はヤメなければ…とアムロは考えてンのに、カミーユ君はこりもせずその≪反復≫をヤメない。そして(ひそやかにも)ニュータイプ救世主義を護持し続けてるシャアは、ソコのところでタイドをハッキリさしてないよーな感じ。
で、『ララァ×アムロ』が示したよーなニュータイプ同士の究極の交感とは、いったいナニごとなのかとゆうと? ソレをわれわれは、『≪性的関係≫が(ついに!)存在し、かつ現前しうる』…とゆうテーゼの描出、と受けとるコトがデキそう。
ただし事実としたらハッキリと、『性的関係は存在しない』。ではあるがヒトビトは、『性的関係が存在する(存在しうる)』とゆうコトバを聞きたがってるのだ。そして「Z」とゆう作品は…その物語は…その作中ジンブツらは、『性的関係は存在すべき』とゆうヒトビトの願望と『性的関係は存在しない』とゆう事実とのはざまにて想ッくそ、のたうち廻ッてみせてるのだ。
ところでニンゲンとゆう存在自体が、『性的関係のなさ』を前提に成り立ってるよーなトコはある。だからこそ初代の『ララァ×アムロ』でも「Z」でも、『性的関係の現前』を見たよーな2人は、その一方が死ななければならない…のかも知れない。『既知のブツリ法則を成り立たしめるタメに、かくかくのよーな現象が生じる』などとゆう転倒気味な説明を聞くコトがあるが、コレはソレかも知れない。
てゆうかよく見たら「Z」においては逆に、片方の死が確定した時点でやっと、その『ニュータイプ同士の究極の交感』的な描写が始まる…とゆうのがある。『性的関係の現前』があるとすれば、それはいまわのきわの幻覚としてノミ…だとゆうのも、まったく言いたくはないコトだが。
しかもソコで死ぬ側に廻るのは、必ずや女性の方だ。ナゼに必ず女性が死ぬのかとゆうと、ほんとうに『ヒトを愛する』とゆうコトがデキるのは女性だけだから…とでもゆっときたぃ気はするが。けれどそのよーな想念がけっきょくは、筆者においてもごくごくフツーの凡人として、『性的関係の存在を信じたい』…てコトの表れなのかも。
ところで「Z」における、シリーズ前作での『ララァ×アムロ』の出遭い(そこね)を反復しての、『ニュータイプ同士の究極の交感』チックな描写。…とゆうモノがやたらにある中で、作の大詰め直前での『ハマーン×カミーユ』は、チョッと異なったモノになってる感じ(第47話)。ソコで対峙したニュータイプ2人はお互いの中に、それぞれの『見たいイメージ』を見るのだ。
まずはカミーユ君につぃてゆうと、カレはハマーンの中にカレが特別に見てる女性たちのイメージらを、次々と見る…次々と。さすがわれらのカミーユ君、幼なじみのファから『女好き!』と叱られて『悪いかよ!』と、パックン開き直りやがった≪あたる君≫だけにッ。
ソレはともかく、やがてカミーユ君の目にするイメージらは、カレの亡母とゆうイメージに収束する。その最終的な『想像(イメージ)』の中には、過去の若き母と幼きカミーユ君がいる。その2人は希望と喜びに満ちて、幸せそーだ。
その一方のハマーンが見るイメージは、そんなにもりだくさんではなくて。まずはシロッコとシャアのイメージがフラッシュし、次には過去の、あどけない少女だったころの彼女自身と、そして兄と慕ったかってのシャアとのラブラブっぽぃ2ショット…ソレを彼女は、カミーユ君の中に見る。
コレを極端に単純にゆうと、ハマーンはカミーユ君の中にシャアを見ており、カミーユ君はハマーンの中に自分の母を見てるのだ。そしてそれぞれのイメージはそれぞれに、いまは求めえぬ幼時の至上の幸福を…永遠(とわ)に失われてしまったソレを、チラリとかいま見せるのだ。
とゆうワケでこのご両人は、対峙しながら『同床異夢』をきわめてる(かと見れる)。にもかかーらず、カミーユ君はカレらが『同じものを見た!』と言い、そして『ヒトは分かりあえるんだ!』と言う。
けれど一方のハマーンは、『よくもズケズケとヒトの中に入る!』と言い棄てて、たったいまの幻視を…『ニュータイプ同士の交感』を不快感とともに否定し去り、そして再びカミーユ君にケンカを売り直すのだった。(『Pt.3』へ続く)
≪性的関係≫は存在しない Pt.1 - Zガンダム(3)
前のハナシの続き、「機動戦士Zガンダム」のTVシリーズを最終回まで見直したイキオイで、この堕文をひとまずの〆くくりにしよーとしつつ。
さてだがガンダムシリーズの続編や姉妹編らを語ろーとするコトは、逆にオリジナルの初代ガンダムがどーゆうシロモノであったか…をも語るコトになり気味なンではなかろーか? 筆者は「Z」の直前にその初代のTVシリーズをまた見てたンだが、1つ気づいたコトがある。
まず、初代ガンダムのストーリーの流れを、1.宇宙編(上)、2.地球編、3.宇宙編(下)、と、だいたい3つのパートに分けて考えるコトがデキそーだとして…(ご存じの劇場版『3部作』の構成と、ほぼ同様に)。
そして筆者が見て意外だと感じたのは、かの≪ニュータイプ≫とゆう話題がワリと大々的に出てクるのは、やっと第3パートになってから、とゆうコトに対してだ。自分のイメージの中の「ガンダム」シリーズだと、その≪ニュータイプ≫とゆう話題はもっともっと大きく全般テキに支配テキなモノだったのに!
(細かく申すと、第1と第2のパートでヒトビトは、アムロ君のコトを『何か特別だ』とか『エスパーかも知れない』とかゆっている。がしかし、『ニュータイプなのでは?』とハッキリは、言わない)
ソレを見た上で視点を大ロングにすれば、SFやファンタジーの世界で『とんでも設定』の利用は大いにアリだとしても、ソレをケツ末のトコで提示するよーな構成は上品ではなさげ。つまりフツーは、『もしも超能力があったら?』のよーな≪設定≫が早めに提示され、ソレを前提としてお芝居が展開される。
ソレがその逆に、フシギな事件が次々と起こった上でのケツ末で、『実は超能力によるシワザでした~』と、≪設定≫がさいごに提示されるよーなモノ…すなーち『とんでも設定=オハナシのケツ論』になってるよーな構成は、品格に欠けるンではなかろーか? そして作品のスケールの大きさに比例して、そのはしたなさはより目につくよーになる。ムカシのコトバで『ショート・ショート』とゆったよーな極小規模の作品だったなら、『設定=ケツ論』はモンダイだ、ナドとゆってるヒマもないし。
ところがだ、逆に初代ガンダムは、その≪ニュータイプ≫とゆう『とんでも設定』の提示をさいごの方にもってクることによって、大きな効果をあげている。フツーなら好まれないよーな『設定=ケツ論』とゆう構成が、ココにおいては大成功してる、と見れる。
とゆうのは…。初代ガンダムの実作を見ておれば、さいしょ『敵ジオン軍が追ってキやがるので、主人公らのホワイトベースは必死で逃げる』とゆう分かりやすさで始まったストーリーは、やがてホワイトベースが地球連邦軍に組み込まれ、わざーざ遠くからオデッサの決戦場に向かうよーなトコらで、その様相を変えている。
ソコいらで『追われるので抵抗しつつ逃げる』とゆうサスペンスの直接性が薄れてキて、やや引いた目で見ての戦争のヒサンさが描かれるよーになっている。さいしょ『自分は死にたくない!』とゆうキモチだけで≪戦闘≫をしてた作中ジンブツらはソコらで≪戦争≫を眺め、『なぜこのよーな、死の大量生産がなければならないのか?』…とゆうキモチをいだき始める。
で、そのパートをやや過ぎたあたりで、つぃに≪ニュータイプ≫とゆうとんでも設定がイキ始めるのだ。つまりそのよーな大戦争のヒサンさに、『人類がニュータイプへと覚醒するため』とゆう理由がツキ始めるのだ。
この堕文は『初代ガンダム論』ではないので、超ハショッて申すが。かくて≪ニュータイプ≫とはナニかとゆうと、その作中で人類が『宇宙世紀』とゆう時代に開けてしまったパンドラの箱…数々のヒサンすぎる悲惨がソコから飛び出てキた箱の、いちばん奥に見出された≪希望≫に他ならない。
ナドと筆者がカィてると、≪ニュータイプ≫ごときはゼンゼンそらぞらしぃ作りバナシかのよーだが。じっさいそーではあるのだが、しかし実作を見ておれば『そうだな。』とゆう気になりがちなのが、その作劇のスゴぃトコだ。何ンせ≪メシアニズム≫とゆうのは全般に、追い込まれたヒトらがさいごに喰ぃつくモノであり。そして初代ガンダムは、そのさいしょの2/3を使って見る者らを心理テキにぞんぶんに追い込んだ上で、さいごその『感動のラスト』に向けて≪ニュータイプ≫とゆうメシアニズムを提示してるのだ。
そして、『ヒトは、分かりあえる』とゆうニュータイプ主義の一大スローガンが、『ヒトビトが聞きたがってるコトバ』に他ならないとゆうコトもまた、いちおうは強調しとくべきだろう。アタリマエだが商業的にヒットするよーな作品らとは必ず、『ヒトビトが聞きたがってるコトバ』を提示するよーなシロモノではある。そしてニュータイプ主義の導くところにより、ナニがあっても『いずれは分かりあえる』ハズなので、目の前のアンマリなヒサンさごときは気にしなくともイイらしぃ。そーしてヒトはいつか、時間をも超越デキるらしぃ。
ただし賢明なる皆さまに対しては言うもさらなりだが、時間を超越デキないからこそヒトはヒトなのであって、ゆえにチッとは必死になって、≪現在≫を生きなければならない。
で、そンなよーなコトらを、初代ガンダムとゆう作品が提示してたとして。…やっと本題(!)、われらが見てる「Zガンダム」とゆう作品は、初代の提示した物語のケツ論(らしきもの)を、『否定してるが否定してない』、『否定してないが否定してる』、と、まったくありえざるアイマイなタイドで継承してるのだった。
コレはつまり、『設定=ケツ論』とゆう初代のアクロバット的な作劇でひじょうに有効だった≪ニュータイプ≫とゆう設定が、続いた「Z」におけるオハナシの『前提』としたら、まったくマトモには機能しなかった(!)…とゆうコトを示してるかと見ゆる。(『Pt.2』へ続く)
さてだがガンダムシリーズの続編や姉妹編らを語ろーとするコトは、逆にオリジナルの初代ガンダムがどーゆうシロモノであったか…をも語るコトになり気味なンではなかろーか? 筆者は「Z」の直前にその初代のTVシリーズをまた見てたンだが、1つ気づいたコトがある。
まず、初代ガンダムのストーリーの流れを、1.宇宙編(上)、2.地球編、3.宇宙編(下)、と、だいたい3つのパートに分けて考えるコトがデキそーだとして…(ご存じの劇場版『3部作』の構成と、ほぼ同様に)。
そして筆者が見て意外だと感じたのは、かの≪ニュータイプ≫とゆう話題がワリと大々的に出てクるのは、やっと第3パートになってから、とゆうコトに対してだ。自分のイメージの中の「ガンダム」シリーズだと、その≪ニュータイプ≫とゆう話題はもっともっと大きく全般テキに支配テキなモノだったのに!
(細かく申すと、第1と第2のパートでヒトビトは、アムロ君のコトを『何か特別だ』とか『エスパーかも知れない』とかゆっている。がしかし、『ニュータイプなのでは?』とハッキリは、言わない)
ソレを見た上で視点を大ロングにすれば、SFやファンタジーの世界で『とんでも設定』の利用は大いにアリだとしても、ソレをケツ末のトコで提示するよーな構成は上品ではなさげ。つまりフツーは、『もしも超能力があったら?』のよーな≪設定≫が早めに提示され、ソレを前提としてお芝居が展開される。
ソレがその逆に、フシギな事件が次々と起こった上でのケツ末で、『実は超能力によるシワザでした~』と、≪設定≫がさいごに提示されるよーなモノ…すなーち『とんでも設定=オハナシのケツ論』になってるよーな構成は、品格に欠けるンではなかろーか? そして作品のスケールの大きさに比例して、そのはしたなさはより目につくよーになる。ムカシのコトバで『ショート・ショート』とゆったよーな極小規模の作品だったなら、『設定=ケツ論』はモンダイだ、ナドとゆってるヒマもないし。
ところがだ、逆に初代ガンダムは、その≪ニュータイプ≫とゆう『とんでも設定』の提示をさいごの方にもってクることによって、大きな効果をあげている。フツーなら好まれないよーな『設定=ケツ論』とゆう構成が、ココにおいては大成功してる、と見れる。
とゆうのは…。初代ガンダムの実作を見ておれば、さいしょ『敵ジオン軍が追ってキやがるので、主人公らのホワイトベースは必死で逃げる』とゆう分かりやすさで始まったストーリーは、やがてホワイトベースが地球連邦軍に組み込まれ、わざーざ遠くからオデッサの決戦場に向かうよーなトコらで、その様相を変えている。
ソコいらで『追われるので抵抗しつつ逃げる』とゆうサスペンスの直接性が薄れてキて、やや引いた目で見ての戦争のヒサンさが描かれるよーになっている。さいしょ『自分は死にたくない!』とゆうキモチだけで≪戦闘≫をしてた作中ジンブツらはソコらで≪戦争≫を眺め、『なぜこのよーな、死の大量生産がなければならないのか?』…とゆうキモチをいだき始める。
で、そのパートをやや過ぎたあたりで、つぃに≪ニュータイプ≫とゆうとんでも設定がイキ始めるのだ。つまりそのよーな大戦争のヒサンさに、『人類がニュータイプへと覚醒するため』とゆう理由がツキ始めるのだ。
この堕文は『初代ガンダム論』ではないので、超ハショッて申すが。かくて≪ニュータイプ≫とはナニかとゆうと、その作中で人類が『宇宙世紀』とゆう時代に開けてしまったパンドラの箱…数々のヒサンすぎる悲惨がソコから飛び出てキた箱の、いちばん奥に見出された≪希望≫に他ならない。
ナドと筆者がカィてると、≪ニュータイプ≫ごときはゼンゼンそらぞらしぃ作りバナシかのよーだが。じっさいそーではあるのだが、しかし実作を見ておれば『そうだな。』とゆう気になりがちなのが、その作劇のスゴぃトコだ。何ンせ≪メシアニズム≫とゆうのは全般に、追い込まれたヒトらがさいごに喰ぃつくモノであり。そして初代ガンダムは、そのさいしょの2/3を使って見る者らを心理テキにぞんぶんに追い込んだ上で、さいごその『感動のラスト』に向けて≪ニュータイプ≫とゆうメシアニズムを提示してるのだ。
そして、『ヒトは、分かりあえる』とゆうニュータイプ主義の一大スローガンが、『ヒトビトが聞きたがってるコトバ』に他ならないとゆうコトもまた、いちおうは強調しとくべきだろう。アタリマエだが商業的にヒットするよーな作品らとは必ず、『ヒトビトが聞きたがってるコトバ』を提示するよーなシロモノではある。そしてニュータイプ主義の導くところにより、ナニがあっても『いずれは分かりあえる』ハズなので、目の前のアンマリなヒサンさごときは気にしなくともイイらしぃ。そーしてヒトはいつか、時間をも超越デキるらしぃ。
ただし賢明なる皆さまに対しては言うもさらなりだが、時間を超越デキないからこそヒトはヒトなのであって、ゆえにチッとは必死になって、≪現在≫を生きなければならない。
で、そンなよーなコトらを、初代ガンダムとゆう作品が提示してたとして。…やっと本題(!)、われらが見てる「Zガンダム」とゆう作品は、初代の提示した物語のケツ論(らしきもの)を、『否定してるが否定してない』、『否定してないが否定してる』、と、まったくありえざるアイマイなタイドで継承してるのだった。
コレはつまり、『設定=ケツ論』とゆう初代のアクロバット的な作劇でひじょうに有効だった≪ニュータイプ≫とゆう設定が、続いた「Z」におけるオハナシの『前提』としたら、まったくマトモには機能しなかった(!)…とゆうコトを示してるかと見ゆる。(『Pt.2』へ続く)
2009/09/29
わたしは人形になりたくない - イノセンス(3)
そんなコトをしなきゃならない理由が、特にないが。けれどタマタマ機会があって、われらが押井守カントクの作品「イノセンス」の原作まんが(士郎正宗「攻殻機動隊」第1巻, 『Robot Rondo』の巻)に目を通した。以下、ソコから感じたコトをなるべく手短に。
あまり熟読もしてないが、当該の本をザッと眺めての印象をまず。筆者が大学生だったころ…とゆうのもズイブンとムカシなンだけど(汗)、ガッコの漫研の機関誌とゆうのを見ると、まんがではなく設定画だけを載せてるヒトがいてビックリしたモンだ。『コイツは、ナニを考えてやがンだッ!』と。
筆者のよーなトーシローから見ると、『まんが』とはヒト(登場人物)が動きオハナシが動くモンだが、しかしそーゆうトコからは入らないヒトもいる。で、ヒトを動かしオハナシを動かす前に設定画ばっかしを念入りにカィてて、まんが家になるどころか1本のまんが作品を完成するコトさえもデキんかったとゆう連中は、そーとーにいた(いる)と見るベキだろう。
そしてわれらが見てる士郎正宗センセは、そのよーなヤカラの中から立ち上がって、ともかくも『まんが作品』ぽぃモノを世に提出されている…とゆうお方に見えるのだッた。だからその作品の中では、ヒトが動かずオハナシが動かない。ハッキリ申せば、設定画に毛が生えたばかりのモンが見かけ上の『作品』になってるノミ…とゆう気がするが。
よって。「イノセンス」ではなく「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」につぃて、『何ンとゆう中ミのない、ドラマのない作品だろう! いわばモードだけ、風景だけ、ファッションだけの映画じゃねーかッ!』…とゆう感じ方をするのはワリとフツーだと想うが、ソレのそのよーな特徴は別にアニメ版のスタッフが作ったモノではない…とまでは、ココにて知れる。
(かつ、モードだけ・風景だけ・ファッションだけの映画ごときはよろしくない…ともまた、いちがいには言い切れぬ。もし仮に『やたら長いプロモビデオ』のよーな作品でしかなかったとしても、しかし≪誰か≫がソレを愉しンでンだったら大いにアリでは…とまでは想う。どーであれ、駄作・凡作の発生は世の必然なので、いちーち『駄作はケシカラン』とゆっても始まらない)
とゆうトコで想い出すと、確か5年くらぃ前、筆者はわれらが押井守・原作のまんが作品「犬狼伝説」についてチョッと堕文をカィたコトがあり。その中で『上手いけど面白くないまんが』の描き手の双璧として、「犬狼」の作画担当・藤原カムイセンセと、コチラの士郎正宗センセを並べたのだッた。
で、その東西の両ヨコヅナがともに、われらの押井守カントクと浅くもないご縁を持ってるとはまた、どーゆうワケなのだろーかッ?
さらにその士郎正宗センセのお作につぃて、あるイミでリッパに正統テキなる『メカ-と-美少女』の喰い合わせ、コンベンショナルでオーセンティックなおたく美学のアッパレな貫徹…とかゆうシテキもデキよーけど、まぁソレはよい。筆者が述べたいのは、われらが見てる押井守作品「イノセンス」と、その原作との異同について、1つ。
で、以後またネタばらしのよーなハナシになるので、皆さまにはごチューイをお願いしつつ。
押井作品「イノセンス」とその原作との間の異同は、イロイロとある。が、筆者がカンジンだと見るのは1コのポイントだけだ。
われわれは「イノセンス」にかかわる前回の堕文にて、その作品のヒーローが、命カラガラ救出された気の毒な少女に向かって、想わずビックリするよーなコトをゆうのを見た。いわく、『魂を吹き込まれた人形がどうなるかは、考えなかったのか?』。
で、原作の方はってと、オハナシの骨子はだぃたぃ同じで――『同じ』、と言い切ってもヤバンだが――。しかし相当する場面でヒーローは、『被害者が 出るとは 考えなかった のか?』、とまずゆって、次に暴走したロボットによる『被害』の数々を伝えて少女(ら)を責める。確かにその『被害』をこーむった者らの多くはソレに値するホドの大悪人でもなく、ただ巻き込まれたばかりでもあろーけど。
すると。われわれのよーな凡人から見たら気の毒きわまる少女に向けて、その『ヒーロー』が心なさもきわまったコトをぬかしやがる…とゆう点は両作で同じだが。
けれど押井作品においては、その言表の非ジョーシキさがひと廻りランクアップしてる。われらが見てる「イノセンス」のヒーローは、わざーざ原作のセリフを打ち消して『人間の(こーむった被害の)コトじゃねェ』とゆった上で、そしてさきに見たメイ文句を繰り出すのだった。
とまでを見て筆者は、この散漫さもきわまり気味なオハナシに対し、逆にチョッと感心するよーなトコが生じてクるのだった。ダマって見てれば、ロリコンのおじさまたちはロリコンとしての≪欲望≫を追求し、悪徳企業は手段を選ばず利益を追求し、少女たちはひたすらに自らへの救けを求め、そしてケーサツのヒトらはただ単に職ムを執行してるばかり。かくてこの方々には、それぞれに触れ合ってるトコが、まったくない。
この物語はケーサツの動きを追うとゆうモノではありつつ、しかし「はぐれ刑事何ンとか系」みてーのとはまったく異なり、何ンらかの『理解』や『共感』で終わる…とゆうのがまったくないワケだ。ソコが逆に、≪存在する事実≫とゆうイミでの『正しいこと』を描いてるのかなァ…とゆう気もしてクるのだった。
(映画としての「イノセンス」を、そのシリーズ前作「攻殻機動隊」よりは印象深いモノにしてンのは、その『ともかくも事実を描いてる』とゆうポイントなのやも知れぬ)
ただあるのは、原作では特に強調されてなくて「イノセンス」にツケ足された、『人形愛』とゆう奇妙な要素だが。ソレは、ヒトとヒトとの『理解』も『共感』もない…とゆうコトを前提として浮上してクる要素だと考えられる。われらが見てる「イノセンス」のヒーローにとっては、ニンゲンの苦しみよりも人形の苦しみの方が、まだしも『理解』したり『共感』したりデキそーなモノらしぃ。
『魂を吹き込まれた人形』こそを哀れだと考えてるらしきこのヒーローは、今シリーズ作にて『魂を吹き込まれた人形』として活躍するおなじみのヒロイン≪少佐≫の存在をグロテスクだとは想わず。逆にモンダイの大詰めシーンで『わたしは人形になりたくなかったんだもの!』と訴えるフツーの少女を、奇妙なモノとして眺めるのだ。
そして、もしも少佐をよしとするなら、この『フツーの少女』とやらの方が、よっぽどグロテスクな生き物である…とゆう見方は成り立つにチガイない。
ところでオリジナルの「ガンダム」シリーズ(初代・Z・ZZ・逆シャア)を見てて想ったンだが、ソッチの世界にも≪ニュータイプ≫とゆうキテレツな設定はありつつ、しかしサイボーグ技術とゆうモノがまったく登場しない。むしろ不自然なまでに(?)、ソレがない。ソレがまた、1つの考え方なのだろう。
あまり熟読もしてないが、当該の本をザッと眺めての印象をまず。筆者が大学生だったころ…とゆうのもズイブンとムカシなンだけど(汗)、ガッコの漫研の機関誌とゆうのを見ると、まんがではなく設定画だけを載せてるヒトがいてビックリしたモンだ。『コイツは、ナニを考えてやがンだッ!』と。
筆者のよーなトーシローから見ると、『まんが』とはヒト(登場人物)が動きオハナシが動くモンだが、しかしそーゆうトコからは入らないヒトもいる。で、ヒトを動かしオハナシを動かす前に設定画ばっかしを念入りにカィてて、まんが家になるどころか1本のまんが作品を完成するコトさえもデキんかったとゆう連中は、そーとーにいた(いる)と見るベキだろう。
そしてわれらが見てる士郎正宗センセは、そのよーなヤカラの中から立ち上がって、ともかくも『まんが作品』ぽぃモノを世に提出されている…とゆうお方に見えるのだッた。だからその作品の中では、ヒトが動かずオハナシが動かない。ハッキリ申せば、設定画に毛が生えたばかりのモンが見かけ上の『作品』になってるノミ…とゆう気がするが。
よって。「イノセンス」ではなく「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」につぃて、『何ンとゆう中ミのない、ドラマのない作品だろう! いわばモードだけ、風景だけ、ファッションだけの映画じゃねーかッ!』…とゆう感じ方をするのはワリとフツーだと想うが、ソレのそのよーな特徴は別にアニメ版のスタッフが作ったモノではない…とまでは、ココにて知れる。
(かつ、モードだけ・風景だけ・ファッションだけの映画ごときはよろしくない…ともまた、いちがいには言い切れぬ。もし仮に『やたら長いプロモビデオ』のよーな作品でしかなかったとしても、しかし≪誰か≫がソレを愉しンでンだったら大いにアリでは…とまでは想う。どーであれ、駄作・凡作の発生は世の必然なので、いちーち『駄作はケシカラン』とゆっても始まらない)
とゆうトコで想い出すと、確か5年くらぃ前、筆者はわれらが押井守・原作のまんが作品「犬狼伝説」についてチョッと堕文をカィたコトがあり。その中で『上手いけど面白くないまんが』の描き手の双璧として、「犬狼」の作画担当・藤原カムイセンセと、コチラの士郎正宗センセを並べたのだッた。
で、その東西の両ヨコヅナがともに、われらの押井守カントクと浅くもないご縁を持ってるとはまた、どーゆうワケなのだろーかッ?
さらにその士郎正宗センセのお作につぃて、あるイミでリッパに正統テキなる『メカ-と-美少女』の喰い合わせ、コンベンショナルでオーセンティックなおたく美学のアッパレな貫徹…とかゆうシテキもデキよーけど、まぁソレはよい。筆者が述べたいのは、われらが見てる押井守作品「イノセンス」と、その原作との異同について、1つ。
で、以後またネタばらしのよーなハナシになるので、皆さまにはごチューイをお願いしつつ。
押井作品「イノセンス」とその原作との間の異同は、イロイロとある。が、筆者がカンジンだと見るのは1コのポイントだけだ。
われわれは「イノセンス」にかかわる前回の堕文にて、その作品のヒーローが、命カラガラ救出された気の毒な少女に向かって、想わずビックリするよーなコトをゆうのを見た。いわく、『魂を吹き込まれた人形がどうなるかは、考えなかったのか?』。
で、原作の方はってと、オハナシの骨子はだぃたぃ同じで――『同じ』、と言い切ってもヤバンだが――。しかし相当する場面でヒーローは、『被害者が 出るとは 考えなかった のか?』、とまずゆって、次に暴走したロボットによる『被害』の数々を伝えて少女(ら)を責める。確かにその『被害』をこーむった者らの多くはソレに値するホドの大悪人でもなく、ただ巻き込まれたばかりでもあろーけど。
すると。われわれのよーな凡人から見たら気の毒きわまる少女に向けて、その『ヒーロー』が心なさもきわまったコトをぬかしやがる…とゆう点は両作で同じだが。
けれど押井作品においては、その言表の非ジョーシキさがひと廻りランクアップしてる。われらが見てる「イノセンス」のヒーローは、わざーざ原作のセリフを打ち消して『人間の(こーむった被害の)コトじゃねェ』とゆった上で、そしてさきに見たメイ文句を繰り出すのだった。
とまでを見て筆者は、この散漫さもきわまり気味なオハナシに対し、逆にチョッと感心するよーなトコが生じてクるのだった。ダマって見てれば、ロリコンのおじさまたちはロリコンとしての≪欲望≫を追求し、悪徳企業は手段を選ばず利益を追求し、少女たちはひたすらに自らへの救けを求め、そしてケーサツのヒトらはただ単に職ムを執行してるばかり。かくてこの方々には、それぞれに触れ合ってるトコが、まったくない。
この物語はケーサツの動きを追うとゆうモノではありつつ、しかし「はぐれ刑事何ンとか系」みてーのとはまったく異なり、何ンらかの『理解』や『共感』で終わる…とゆうのがまったくないワケだ。ソコが逆に、≪存在する事実≫とゆうイミでの『正しいこと』を描いてるのかなァ…とゆう気もしてクるのだった。
(映画としての「イノセンス」を、そのシリーズ前作「攻殻機動隊」よりは印象深いモノにしてンのは、その『ともかくも事実を描いてる』とゆうポイントなのやも知れぬ)
ただあるのは、原作では特に強調されてなくて「イノセンス」にツケ足された、『人形愛』とゆう奇妙な要素だが。ソレは、ヒトとヒトとの『理解』も『共感』もない…とゆうコトを前提として浮上してクる要素だと考えられる。われらが見てる「イノセンス」のヒーローにとっては、ニンゲンの苦しみよりも人形の苦しみの方が、まだしも『理解』したり『共感』したりデキそーなモノらしぃ。
『魂を吹き込まれた人形』こそを哀れだと考えてるらしきこのヒーローは、今シリーズ作にて『魂を吹き込まれた人形』として活躍するおなじみのヒロイン≪少佐≫の存在をグロテスクだとは想わず。逆にモンダイの大詰めシーンで『わたしは人形になりたくなかったんだもの!』と訴えるフツーの少女を、奇妙なモノとして眺めるのだ。
そして、もしも少佐をよしとするなら、この『フツーの少女』とやらの方が、よっぽどグロテスクな生き物である…とゆう見方は成り立つにチガイない。
ところでオリジナルの「ガンダム」シリーズ(初代・Z・ZZ・逆シャア)を見てて想ったンだが、ソッチの世界にも≪ニュータイプ≫とゆうキテレツな設定はありつつ、しかしサイボーグ技術とゆうモノがまったく登場しない。むしろ不自然なまでに(?)、ソレがない。ソレがまた、1つの考え方なのだろう。
2009/09/25
アニメと呼ばれるイヤらしぃ夢 Pt.2 - Zガンダム(2)
(『Pt.1』からの続き…)ところで筆者は想うンだが、見た目はキレイなおねー様たちといえども、相手は百戦錬磨の≪職業軍人≫なンだから。そンなオトコが考えるよーなやさしさを、彼女らに期待するのはムリなンではないかと? このおねー様らと、初代で活躍したセイラ、ミライ、マチルダらとは、根本テキに違うし。
コトを上から見て言えるコトだが、もっとずっと『やさしい』ミライでさえも、かってアムロ君に対して、あまり『やさしく』接してもいれなかったのだ。しかしわれらのカミーユ君は、カレが想うよーなコトはないと(いちおう)さとった上でも、おねー様たちに対して職業テキに接する…とゆうふーにはならンのだった。
印象深いシーンは、何かの都合でおねー様の1人のレコアが、単身で地球に降下するコトになる。すると、特に用事もないのにカミーユ君は、ロケットを準備中のレコアに声をかけながら、その胸から腰のあたりをジロジロと舐め廻すよーに眺めるのだった(!)。よく分からぬよーで実によく分かる場面であり、筆者はつぃつぃ爆笑を禁じえなかったがッ!
(…そしてそのシーンを見た上では、カミーユ君が入浴の途中のファの半裸をまったくエンリョなく拝見しまくるとゆう場面に意外性みたぃのが、コレっぽっちもないッ)
またチョッとビックリいたすのはカレが、敵軍の女性パイロットのライラおねー様に対してさえも、何ンとなく甘えたタイドに出るコトだ。他に女性があまりいないッてのもありつつ、しかしコレじゃ、カレはどーにも他ならぬ≪女性兵士≫てモノがスキなのでは…とゆう気がしてクる。そーゆう趣向があるコトをわれわれは知っており、かつそンな趣向の存在理由も知っている。そしてそのよーな≪カミーユ君≫たちに向けて、この作品が作られてるよーな気がせぬコトもない。
かつ因果なコトに、カレがその素性を知らずにひかれた≪フォウ≫も実は敵軍のパイロットだったし、そして幼なじみのファもまた、追ってエウーゴのパイロットになるのだ。そーしてさすがのカミーユ君もしまいには、どーしてこんなにも軍隊のパイロットが女性ばっかなのか…とゆうギモンをいだく。そして『時代が変わってるのか』と、特にイミをなさないよーなコトをゆう(…初代ガンダムに描かれた『一年戦争』のころ、女性パイロットはきわめて例外テキな存在だった)。
けど、オレの見るに。あまりシテキしたくもないコトだが、カレのゆう『時代が変わった』とは、まずは作中の時代の変化をゆってるにせよ。だがむしろ作品の外側にて、7年間とゆう刻(とき)の間に、時代も変わりヒトらも変わった…とゆうコトではなかろーか? あえてゆうなら、カスである…じゃなく。いまのコトバでゆって、勇ましく闘う女性キャラクターが≪萌え≫だと。がしかし、いまは作品外のハナシはさておいて。
ところでどーにもウットーしぃのは、ツゴウに応じて『軍隊だから』、『軍人だから』、『戦争中だから』、と言い張っておられるこの女性戦士たちが、そンなには職業に徹しておらずワリと感情まかせに動いており、しかもいちように情緒不安定気味だとゆうコトだ。ソレが特に若いベルトーチカ、フォウ、ファ、サラらにおいてひじょうにヒドく、また、もっと筋金入りなハズのおねー様らにおいても相当ある。
ココらに≪神経症≫っぽぃ徴候を見るのはワリとふつーの診立てかと考えられ、「Z」作中の女性らがミョーに勇ましぃのは逆に、いろンなイミでフガイなきオトコどもへ向けてのプロテストに他ならない。だからカミーユ君ごときヒヨッコじゃーハナシにならンにせよ(涙)、しかし敵ボスのシロッコがそそり立つオトコぶりを見せると、歴戦のレコアおねー様がたわいなくキュ~ンとなっちまう。
むしろそのよーな展開を大いに期待して、彼女らは戦場とゆう舞台にいるのだ。ゆってる自分もビックリなよーなコトを申すが、武器を振り廻すコトは彼女らなりの媚態であり挑撥なのだ。
とゆうふーに考えると、よせばイイのにファが戦闘用ロボットのパイロットなどに志願した理由がよく分かるだろう。ソレはトーゼン、おねー様たちのお尻ばっか見てるカミーユ君に向けての媚態であり挑撥に他ならぬ。
ソレコレによって、さきからゆってるイヤらしさ、ソレも場チガイ気味でトートツなイヤらしさこそ、「Z」のエッセンスに他ならぬ。トートツな暴力とゆうのもそーだが、少女や少年らはもとよりトシ喰った連中にてもオトナげがひじょうになく、衝動を抑えるとゆうコトがデキかねている。
けれどもハタから見てて筆者が想うのは、『ヤるならば戦争かメロドラマか、ドッチかだけにしたらイイんでは?』…と。戦場とゆうステージ上でその≪神経症≫チックな女性らは、死と愛欲とが裏オモテに抱き合わされた≪ロンド≫を踊る(…ちょーどレコアのフルネームが、レコア・『ロンド』で)。その眺めこそが真のみどころかのよーにも見え、ソレに対して『スペースノイドがどうこう』とゆう見かけ上のテーマ性(?)…作中のオトコらがいちおう追求してるコトが、あまりにもカンケイない。
だから「Z」に対してフツーは誰もが感じるよーな、オハナシの中心のなさ、ドラマ性が四分五裂、心理の展開がトッピで飛躍あり、とゆった印象のモトは、ソコらにあるのかと。われわれは「Z」につぃて、『コレは戦争のオハナシかなァ』と想って見てればメロドラマを見るハメになり、メロドラマだと想って見てれば戦争を見せられるハメになる。
しかもその両サイドがそれぞれに、『成り立ってる』モンなのかどーなのか? むしろ「Z」とゆう作品は、そのストーリーもテーマ性もぞんぶんにブンレツしてる超ドサクサにおぃて、かろーじて『成り立ってる』かのよーに見えるシロモノかと想うのだ。ホメてないけど、そのムヤミと迷宮テキな構成はソコにおぃて確かに機能してやがる。面白いとは言いがたくも、ゼンゼン見るにたえざるシロモノでもない…とゆう水準をキープしてるのはソコが機能してるからだ。
自ら称して≪ガンダムおじさん≫とゆう、このシリーズの産みの親テキなヒトがいるけれど、カレの作品群はいちようにあらゆるイミで分かりニクい。ソレらを見て受け手らは、ナニかをチョッピリ分かッただけでも、『エレぇコトをヤッた』かのよーな錯覚に陥る。
(≪ガンダムおじさん≫とゆう異名は富野カントクが、「Z」サントラ盤のライナー中でゆってた語。『ゼッタイにヤラぬと断言してたガンダムの続編をヤるハメになッちまッた以上、自分はヒトから≪ガンダムおじさん≫とゆわれてもしょーがない』、とか何ンとか。とはつまり、『ガンダムおじさんと呼ばれたい』とゆうイミに受けとるべきかと)
そしてこの「Z」とゆうお芝居の全般テキなドサクサぶりは、作中人物らが戦争のドサクサまぎれにそれぞれの≪欲望≫を追求しよーとゆうそれぞれの身ぶりとは、キレイに対応してる。だからわれらのカミーユ君が、戦争のドサクサまぎれにナンパ的な行動を行き当たりばったりに繰り返し、まるでかの≪諸星あたる君≫を反復してるよーなのも、この作中では特にヘンなコトとも言えない。上から下まで、そして最初から最後までを貫徹して、≪公私混同≫こそが、「Z」の作劇の最大原理なのだ。
さらにそのブンレツを基礎づける「Z」とゆう作品の全般テキなフンイキを、筆者のコトバでゆえば、『幻滅してるが、幻想は棄てきれない』。まず前提に、かの『一年戦争』とゆう大きすぎなギセイを払った上でも人類は、まったく何ンら向上するトコがなかったとゆう大幻滅があり。
ソコらを何ンとか取り返そうとゆうのが、オトコらがタテマエとして追求してるコトのよーだが(…しかし、その実質はイカに?)。かつ初代ガンダムとの異同とゆえば「Z」には、リュウやランバ・ラルのよーな大らかでゴーケツっぽぃ男子たちがまったく登場せず、オトコらがみなコセコセして女々しい。
で、ソレに沿うよーな沿わぬよーなカタチで勇ましく奮い立ってる女性たちは、世に言う『平凡な幸せ』のベースさえをも作れぬオトコどもにハッキリと幻滅はしつつ、しかしオトコらに対する幻想を棄てきれない。だからこの女性たちの行動が勇ましくはありながら、ミョーにまっすぐでないのだ。とゆう奇妙な『まっすぐでなさ』が、『題材は重いが作劇が軽い』とゆう「Z」のフシギな特徴を形成しつつ。
(そしてそンなよーな女性像は、続いた1988年の作品「逆襲のシャア」劇場版にもやたら描かれる。ソッチの作品のヒロイン格っぽぃクェスのジンブツ像は、フロイト「あるヒステリー分析の断片」に描かれた≪症例ドーラ≫をチープに反復してるモノかと見ゆる)
ソレとわれらがカミーユ君においては、その両親に『幻滅』しつつも、2人への『幻想』を棄てきれず。またカツ君においては、『一年戦争』の後のアムロのフガイなさに幻滅しつつも、カレへの幻想を棄てきれず。さらにファは、チャンとしたナイトを演じてくれないカミーユ君に対して…。かつホワイトベースの元クルーらは、エウーゴの一兵士の立場に甘ンじてるシャアに対して…。等々々と、描かれた構図らは重なる。
ところで『オトコ(の支配)に対する幻滅』とゆう感じ方を、若めな男子のカミーユ君やカツ君もまた共有してるコト、ソレをも見とくべきだろう。だからカレらは歴戦のおねー様たちに対し、ヘンにふくらみある幻想をいだいて、そのお尻を追ッかけ廻し、そして≪何か≫を彼女らに大いに期待するのだが。
しかしおねー様たちには、カレらごときの期待に応じようとゆう気がゼンゼンない。かくてこのお芝居の中では、互いの幻想と幻想とが、ただただスレ違い続けるばっかしなのだ。とまでゆって、いったん終わる。
コトを上から見て言えるコトだが、もっとずっと『やさしい』ミライでさえも、かってアムロ君に対して、あまり『やさしく』接してもいれなかったのだ。しかしわれらのカミーユ君は、カレが想うよーなコトはないと(いちおう)さとった上でも、おねー様たちに対して職業テキに接する…とゆうふーにはならンのだった。
印象深いシーンは、何かの都合でおねー様の1人のレコアが、単身で地球に降下するコトになる。すると、特に用事もないのにカミーユ君は、ロケットを準備中のレコアに声をかけながら、その胸から腰のあたりをジロジロと舐め廻すよーに眺めるのだった(!)。よく分からぬよーで実によく分かる場面であり、筆者はつぃつぃ爆笑を禁じえなかったがッ!
(…そしてそのシーンを見た上では、カミーユ君が入浴の途中のファの半裸をまったくエンリョなく拝見しまくるとゆう場面に意外性みたぃのが、コレっぽっちもないッ)
またチョッとビックリいたすのはカレが、敵軍の女性パイロットのライラおねー様に対してさえも、何ンとなく甘えたタイドに出るコトだ。他に女性があまりいないッてのもありつつ、しかしコレじゃ、カレはどーにも他ならぬ≪女性兵士≫てモノがスキなのでは…とゆう気がしてクる。そーゆう趣向があるコトをわれわれは知っており、かつそンな趣向の存在理由も知っている。そしてそのよーな≪カミーユ君≫たちに向けて、この作品が作られてるよーな気がせぬコトもない。
かつ因果なコトに、カレがその素性を知らずにひかれた≪フォウ≫も実は敵軍のパイロットだったし、そして幼なじみのファもまた、追ってエウーゴのパイロットになるのだ。そーしてさすがのカミーユ君もしまいには、どーしてこんなにも軍隊のパイロットが女性ばっかなのか…とゆうギモンをいだく。そして『時代が変わってるのか』と、特にイミをなさないよーなコトをゆう(…初代ガンダムに描かれた『一年戦争』のころ、女性パイロットはきわめて例外テキな存在だった)。
けど、オレの見るに。あまりシテキしたくもないコトだが、カレのゆう『時代が変わった』とは、まずは作中の時代の変化をゆってるにせよ。だがむしろ作品の外側にて、7年間とゆう刻(とき)の間に、時代も変わりヒトらも変わった…とゆうコトではなかろーか? あえてゆうなら、カスである…じゃなく。いまのコトバでゆって、勇ましく闘う女性キャラクターが≪萌え≫だと。がしかし、いまは作品外のハナシはさておいて。
ところでどーにもウットーしぃのは、ツゴウに応じて『軍隊だから』、『軍人だから』、『戦争中だから』、と言い張っておられるこの女性戦士たちが、そンなには職業に徹しておらずワリと感情まかせに動いており、しかもいちように情緒不安定気味だとゆうコトだ。ソレが特に若いベルトーチカ、フォウ、ファ、サラらにおいてひじょうにヒドく、また、もっと筋金入りなハズのおねー様らにおいても相当ある。
ココらに≪神経症≫っぽぃ徴候を見るのはワリとふつーの診立てかと考えられ、「Z」作中の女性らがミョーに勇ましぃのは逆に、いろンなイミでフガイなきオトコどもへ向けてのプロテストに他ならない。だからカミーユ君ごときヒヨッコじゃーハナシにならンにせよ(涙)、しかし敵ボスのシロッコがそそり立つオトコぶりを見せると、歴戦のレコアおねー様がたわいなくキュ~ンとなっちまう。
むしろそのよーな展開を大いに期待して、彼女らは戦場とゆう舞台にいるのだ。ゆってる自分もビックリなよーなコトを申すが、武器を振り廻すコトは彼女らなりの媚態であり挑撥なのだ。
とゆうふーに考えると、よせばイイのにファが戦闘用ロボットのパイロットなどに志願した理由がよく分かるだろう。ソレはトーゼン、おねー様たちのお尻ばっか見てるカミーユ君に向けての媚態であり挑撥に他ならぬ。
ソレコレによって、さきからゆってるイヤらしさ、ソレも場チガイ気味でトートツなイヤらしさこそ、「Z」のエッセンスに他ならぬ。トートツな暴力とゆうのもそーだが、少女や少年らはもとよりトシ喰った連中にてもオトナげがひじょうになく、衝動を抑えるとゆうコトがデキかねている。
けれどもハタから見てて筆者が想うのは、『ヤるならば戦争かメロドラマか、ドッチかだけにしたらイイんでは?』…と。戦場とゆうステージ上でその≪神経症≫チックな女性らは、死と愛欲とが裏オモテに抱き合わされた≪ロンド≫を踊る(…ちょーどレコアのフルネームが、レコア・『ロンド』で)。その眺めこそが真のみどころかのよーにも見え、ソレに対して『スペースノイドがどうこう』とゆう見かけ上のテーマ性(?)…作中のオトコらがいちおう追求してるコトが、あまりにもカンケイない。
だから「Z」に対してフツーは誰もが感じるよーな、オハナシの中心のなさ、ドラマ性が四分五裂、心理の展開がトッピで飛躍あり、とゆった印象のモトは、ソコらにあるのかと。われわれは「Z」につぃて、『コレは戦争のオハナシかなァ』と想って見てればメロドラマを見るハメになり、メロドラマだと想って見てれば戦争を見せられるハメになる。
しかもその両サイドがそれぞれに、『成り立ってる』モンなのかどーなのか? むしろ「Z」とゆう作品は、そのストーリーもテーマ性もぞんぶんにブンレツしてる超ドサクサにおぃて、かろーじて『成り立ってる』かのよーに見えるシロモノかと想うのだ。ホメてないけど、そのムヤミと迷宮テキな構成はソコにおぃて確かに機能してやがる。面白いとは言いがたくも、ゼンゼン見るにたえざるシロモノでもない…とゆう水準をキープしてるのはソコが機能してるからだ。
自ら称して≪ガンダムおじさん≫とゆう、このシリーズの産みの親テキなヒトがいるけれど、カレの作品群はいちようにあらゆるイミで分かりニクい。ソレらを見て受け手らは、ナニかをチョッピリ分かッただけでも、『エレぇコトをヤッた』かのよーな錯覚に陥る。
(≪ガンダムおじさん≫とゆう異名は富野カントクが、「Z」サントラ盤のライナー中でゆってた語。『ゼッタイにヤラぬと断言してたガンダムの続編をヤるハメになッちまッた以上、自分はヒトから≪ガンダムおじさん≫とゆわれてもしょーがない』、とか何ンとか。とはつまり、『ガンダムおじさんと呼ばれたい』とゆうイミに受けとるべきかと)
そしてこの「Z」とゆうお芝居の全般テキなドサクサぶりは、作中人物らが戦争のドサクサまぎれにそれぞれの≪欲望≫を追求しよーとゆうそれぞれの身ぶりとは、キレイに対応してる。だからわれらのカミーユ君が、戦争のドサクサまぎれにナンパ的な行動を行き当たりばったりに繰り返し、まるでかの≪諸星あたる君≫を反復してるよーなのも、この作中では特にヘンなコトとも言えない。上から下まで、そして最初から最後までを貫徹して、≪公私混同≫こそが、「Z」の作劇の最大原理なのだ。
さらにそのブンレツを基礎づける「Z」とゆう作品の全般テキなフンイキを、筆者のコトバでゆえば、『幻滅してるが、幻想は棄てきれない』。まず前提に、かの『一年戦争』とゆう大きすぎなギセイを払った上でも人類は、まったく何ンら向上するトコがなかったとゆう大幻滅があり。
ソコらを何ンとか取り返そうとゆうのが、オトコらがタテマエとして追求してるコトのよーだが(…しかし、その実質はイカに?)。かつ初代ガンダムとの異同とゆえば「Z」には、リュウやランバ・ラルのよーな大らかでゴーケツっぽぃ男子たちがまったく登場せず、オトコらがみなコセコセして女々しい。
で、ソレに沿うよーな沿わぬよーなカタチで勇ましく奮い立ってる女性たちは、世に言う『平凡な幸せ』のベースさえをも作れぬオトコどもにハッキリと幻滅はしつつ、しかしオトコらに対する幻想を棄てきれない。だからこの女性たちの行動が勇ましくはありながら、ミョーにまっすぐでないのだ。とゆう奇妙な『まっすぐでなさ』が、『題材は重いが作劇が軽い』とゆう「Z」のフシギな特徴を形成しつつ。
(そしてそンなよーな女性像は、続いた1988年の作品「逆襲のシャア」劇場版にもやたら描かれる。ソッチの作品のヒロイン格っぽぃクェスのジンブツ像は、フロイト「あるヒステリー分析の断片」に描かれた≪症例ドーラ≫をチープに反復してるモノかと見ゆる)
ソレとわれらがカミーユ君においては、その両親に『幻滅』しつつも、2人への『幻想』を棄てきれず。またカツ君においては、『一年戦争』の後のアムロのフガイなさに幻滅しつつも、カレへの幻想を棄てきれず。さらにファは、チャンとしたナイトを演じてくれないカミーユ君に対して…。かつホワイトベースの元クルーらは、エウーゴの一兵士の立場に甘ンじてるシャアに対して…。等々々と、描かれた構図らは重なる。
ところで『オトコ(の支配)に対する幻滅』とゆう感じ方を、若めな男子のカミーユ君やカツ君もまた共有してるコト、ソレをも見とくべきだろう。だからカレらは歴戦のおねー様たちに対し、ヘンにふくらみある幻想をいだいて、そのお尻を追ッかけ廻し、そして≪何か≫を彼女らに大いに期待するのだが。
しかしおねー様たちには、カレらごときの期待に応じようとゆう気がゼンゼンない。かくてこのお芝居の中では、互いの幻想と幻想とが、ただただスレ違い続けるばっかしなのだ。とまでゆって、いったん終わる。
アニメと呼ばれるイヤらしぃ夢 Pt.1 - Zガンダム(1)
【釈明:1】 押井守センモンかのよーな看板があるッてのにガンダム話だが、あるぃは押井研究のタメに必要やも知れぬ…とゆう気がして、チョッとガンダムを見直してるトコで。
【釈明:2】 しかも、ナゼにまず「Zガンダム」なのか…とゆうのは、もっと釈明に苦しむところだが。しかしあるイミでいま、初代の「機動戦士ガンダム」(1979)と「機動戦士Zガンダム」(1986)とを並べると、自分にとっては後者の方に奇妙なインパクトがあるのだった。
で、ソレはどーゆうイミで…とゆうと。初代があまりにも≪現在≫に生きてる作品であるに対し、この21世紀に自分が眺める「Z」があまりにもアナクロなタイムカプセルからの出土品ッぽぃ。とゆうワケで、筆者が「Z」から受けつつあるインパクトを、そンなに前向きなモノとはゆえない。
そもそも「Z」は初放映のときに見てたハズなンだが、その内容につぃて憶えてたコトがあまりにも少ない。『エウーゴ』とゆう主人公側の組織の名前さえも憶えてなかった…とゆうダイタンな忘れっぷりには、自分でもビックリした。一方の敵側の組織の名『ティターンズ』は憶えてたが、ソレよかもっとハッキリ憶えてたのは、その最終回を見てモーレツな不ユカイを感じたコトだ。その不ユカイがあまりにキョーレツだったので、筆者はソレから数年間アニメとか見ない仔になった。
ココにてよくあるメイ文句の借用をいたせば、『何ンだ、この不ユカイさはッ!?』…とでもなりげ。がしかし、前置きはこのくれーにして…。ちなみにこの堕文は、「Z」を第29話まで再見した時点で書かれてる。どのよーに不ユカイなケツ末だったかは、いまだ想い出せてない。
(なお以下の文中では、「初代」にしろ「Z」にしろ、それぞれのTVシリーズのコトをゆっている)
さてだが、ご存じのよーに初代ガンダムの劇中でも、多くのヒトらが死ぬ。何ンせいきなし『人類の約半数が死亡した』…と、ド頭で語られるホドのシロモノではあるが、まぁソコは『劇中』とも言いがたいトコなので、チョッと別にして。
名前がツィてて印象に残ってるギセイ者らをザッと想い出してみると、リュウ、マチルダ、ランバ・ラル、ハモン、ミハル、スレッガー…等々々。そして自分はあんまし感情移入して見ない方なのだが、しかしソレらを見てて心が動く、とゆうコトは止めれない。するとそのテイドには、自分もマトモなニンゲンであったのかなァ…などと感じさせられるのだが。
ところが一方、「Z」を見てて感じるのは、『ヒト(登場人物)が多すぎてウットーしぃので、サッサと死なしてくれねーだろーか?』とゆうコトだ。そのイミでは、出てキてワリとすぐ死ぬ≪ライラ≫がエラぃとゆえる(!)。そしてさっき筆者は第29話の末尾の予告編を見て、次回(第30話)のサブタイトルが『ジェリド特攻』だと知り、思わず『ヤッた!』と心で叫んだ(…敵側に、≪ジェリド≫とゆう登場人物がいるのだ)。
タカがテレビのまんがとゆえどもデキの悪いシロモノは、このよーにヒトの情動に悪影響を与えるのではなかろーか? そもそも≪特攻≫はガンダムシリーズにはよく出てるコトバだが、こンな単語を見るコト自体がフツーに不ユカイだ、と、ふだんは想うのだがッ!
また。初代ガンダムから「Z」への異同としてどーにも目につくのは、暴力とエロスの描写のムヤミなエスカレートだ。『修正』だか何ンだかと称したりして、殴る殴られる、とゆう場面がヤケに多いのは見たまンま。だぃたぃのところ第1話で、主人公のカミーユ君がティターンズらにつッかかって逆に超ボコられる場面…ココの描写が、いっきなし過剰なモノかと見るが。
ソレに対する≪エロス≫の描写は多少もって廻ったモノだけど、しかしあからさまではある。だぃたぃのところ第1話の冒頭、カミーユ君が部活をサボってガッコを抜け出すのを、その幼なじみのファが追ッかける…このシーケンスからいきなし、ファをはじめ少女たちの描き方がミョーにイヤらしぃ。『コレから始まるアニメは、「くりいむレモン」シリーズの1編なのか?』と、素でチラリ考えたホドだ。
どーして「くりいむレモン」かって、ほぼ同じよーな時代のアニメ作品なンで感触が似てるワケだが。で、そンなコトをゆってるオレ自身のイヤらしさをも認めるよーなハメになるが、しかしそうだ。
さらに。追ってカミーユらが参加した戦いの双方の軍隊チックな組織には、どーゆうワケだか、パイロットとゆう部門に女性が多し。そしてこの方々が無イミに胸の目立つ服を着て(イヤ本当は大いにイミあるが)、しかもなかなか女クサく振るまうので、組織のフンイキが双方でヘンにイヤらしぃ。
とゆうトコで初代ガンダムを見直すと、コッチもまったくイヤらしくないオハナシだとは言えない。まず何ンせララァとシャアの関係がひじょうにイヤらしぃし、またサイド6を出航するさいにミライが3人のオトコらを巻き込んで大痴話ゲンカ…なンてゆうイヤらしぃメイ場面もあったが。
しかし全般テキにはそンなにイヤらしくないハズで、画面テキにも色気がほとんどない。たとぇば、ホワイトベースの少年兵たちがマチルダをマドンナのよーに慕う…とゆうくだりをご存じだろーけど、そのエピソードにイヤらしさを感じるとゆうお方は、ほぼおられぬのでは、と。
その一方、だぃたぃ主人公の父親が愛人を囲ッてて、妻を放ッとぃてソッチに入れあげてるコトをムスコは大いに知りまくり…とゆう初期設定からして「Z」はイヤらしぃ。そしてその父たるジンブツが、生きるか死ぬかのロボット戦の最中に、その愛人のHな姿を脳裡に浮かべて想わずニヤニヤ…とはまた、イヤらしぃにもホドがあるッ! あと確か敵側にもう1人、その死のまぎわにカレの愛人のエロ姿態を想い浮かべる(!)、とゆうヒトがいたよーだし。
ところで初代ガンダムで、ミライを囲んでオトコら3ビキが…とゆうハナシが出たけど、その場面でイヤらしぃ態度なのは意外とミライで、むしろオトコらのタイドはイヤらしくない。特に3ビキの中でもブライト艦長は、可能な限り自分を抑えててリッパだと感じられる(…付言して、ミライのよーな女性が地味顔のクセにオトコらを手玉に取るよーな展開になる…とは、逆にあるよーなコトでリアルだ。ソレに対し、誰がどー見ても美人サンのセイラには、逆に浮いたハナシがない…ソコもまたホントらしぃ)。
ところがその一方、「Z」のヘンケン艦長は自分が部下のエマ・シーンに岡惚れしてるコトをまったく隠せておらず、それでカレの艦内のフンイキをヘーキでイヤらしくしてやがるのだった。
そしてそのよーなアニメのヒーローであり、かつその実の父がそーゆうヒトであるからには、われらのカミーユ君がリッパなむっつりスケベであるコトには、何ンンもフシギがない。だがココはあんまし責めてなくて、筆者はカミーユ君にはかなり共感デキる部位がある。
オハナシの発端で両親を、ソレもタイヘンに無残なカタチで失ったカミーユ君は、カレがまぎれ込んだエウーゴのパイロットのおねー様たちに、やさし~くいたわってもらいたいのがヤマヤマだ。ソコらを大いに期待してるのだが、しかしアッサリと彼女らにツキ放され、ゼンゼンかまってもらえない…とゆうウキ目を見るのだった。(『Pt.2』へ続く)
【釈明:2】 しかも、ナゼにまず「Zガンダム」なのか…とゆうのは、もっと釈明に苦しむところだが。しかしあるイミでいま、初代の「機動戦士ガンダム」(1979)と「機動戦士Zガンダム」(1986)とを並べると、自分にとっては後者の方に奇妙なインパクトがあるのだった。
で、ソレはどーゆうイミで…とゆうと。初代があまりにも≪現在≫に生きてる作品であるに対し、この21世紀に自分が眺める「Z」があまりにもアナクロなタイムカプセルからの出土品ッぽぃ。とゆうワケで、筆者が「Z」から受けつつあるインパクトを、そンなに前向きなモノとはゆえない。
そもそも「Z」は初放映のときに見てたハズなンだが、その内容につぃて憶えてたコトがあまりにも少ない。『エウーゴ』とゆう主人公側の組織の名前さえも憶えてなかった…とゆうダイタンな忘れっぷりには、自分でもビックリした。一方の敵側の組織の名『ティターンズ』は憶えてたが、ソレよかもっとハッキリ憶えてたのは、その最終回を見てモーレツな不ユカイを感じたコトだ。その不ユカイがあまりにキョーレツだったので、筆者はソレから数年間アニメとか見ない仔になった。
ココにてよくあるメイ文句の借用をいたせば、『何ンだ、この不ユカイさはッ!?』…とでもなりげ。がしかし、前置きはこのくれーにして…。ちなみにこの堕文は、「Z」を第29話まで再見した時点で書かれてる。どのよーに不ユカイなケツ末だったかは、いまだ想い出せてない。
(なお以下の文中では、「初代」にしろ「Z」にしろ、それぞれのTVシリーズのコトをゆっている)
さてだが、ご存じのよーに初代ガンダムの劇中でも、多くのヒトらが死ぬ。何ンせいきなし『人類の約半数が死亡した』…と、ド頭で語られるホドのシロモノではあるが、まぁソコは『劇中』とも言いがたいトコなので、チョッと別にして。
名前がツィてて印象に残ってるギセイ者らをザッと想い出してみると、リュウ、マチルダ、ランバ・ラル、ハモン、ミハル、スレッガー…等々々。そして自分はあんまし感情移入して見ない方なのだが、しかしソレらを見てて心が動く、とゆうコトは止めれない。するとそのテイドには、自分もマトモなニンゲンであったのかなァ…などと感じさせられるのだが。
ところが一方、「Z」を見てて感じるのは、『ヒト(登場人物)が多すぎてウットーしぃので、サッサと死なしてくれねーだろーか?』とゆうコトだ。そのイミでは、出てキてワリとすぐ死ぬ≪ライラ≫がエラぃとゆえる(!)。そしてさっき筆者は第29話の末尾の予告編を見て、次回(第30話)のサブタイトルが『ジェリド特攻』だと知り、思わず『ヤッた!』と心で叫んだ(…敵側に、≪ジェリド≫とゆう登場人物がいるのだ)。
タカがテレビのまんがとゆえどもデキの悪いシロモノは、このよーにヒトの情動に悪影響を与えるのではなかろーか? そもそも≪特攻≫はガンダムシリーズにはよく出てるコトバだが、こンな単語を見るコト自体がフツーに不ユカイだ、と、ふだんは想うのだがッ!
また。初代ガンダムから「Z」への異同としてどーにも目につくのは、暴力とエロスの描写のムヤミなエスカレートだ。『修正』だか何ンだかと称したりして、殴る殴られる、とゆう場面がヤケに多いのは見たまンま。だぃたぃのところ第1話で、主人公のカミーユ君がティターンズらにつッかかって逆に超ボコられる場面…ココの描写が、いっきなし過剰なモノかと見るが。
ソレに対する≪エロス≫の描写は多少もって廻ったモノだけど、しかしあからさまではある。だぃたぃのところ第1話の冒頭、カミーユ君が部活をサボってガッコを抜け出すのを、その幼なじみのファが追ッかける…このシーケンスからいきなし、ファをはじめ少女たちの描き方がミョーにイヤらしぃ。『コレから始まるアニメは、「くりいむレモン」シリーズの1編なのか?』と、素でチラリ考えたホドだ。
どーして「くりいむレモン」かって、ほぼ同じよーな時代のアニメ作品なンで感触が似てるワケだが。で、そンなコトをゆってるオレ自身のイヤらしさをも認めるよーなハメになるが、しかしそうだ。
さらに。追ってカミーユらが参加した戦いの双方の軍隊チックな組織には、どーゆうワケだか、パイロットとゆう部門に女性が多し。そしてこの方々が無イミに胸の目立つ服を着て(イヤ本当は大いにイミあるが)、しかもなかなか女クサく振るまうので、組織のフンイキが双方でヘンにイヤらしぃ。
とゆうトコで初代ガンダムを見直すと、コッチもまったくイヤらしくないオハナシだとは言えない。まず何ンせララァとシャアの関係がひじょうにイヤらしぃし、またサイド6を出航するさいにミライが3人のオトコらを巻き込んで大痴話ゲンカ…なンてゆうイヤらしぃメイ場面もあったが。
しかし全般テキにはそンなにイヤらしくないハズで、画面テキにも色気がほとんどない。たとぇば、ホワイトベースの少年兵たちがマチルダをマドンナのよーに慕う…とゆうくだりをご存じだろーけど、そのエピソードにイヤらしさを感じるとゆうお方は、ほぼおられぬのでは、と。
その一方、だぃたぃ主人公の父親が愛人を囲ッてて、妻を放ッとぃてソッチに入れあげてるコトをムスコは大いに知りまくり…とゆう初期設定からして「Z」はイヤらしぃ。そしてその父たるジンブツが、生きるか死ぬかのロボット戦の最中に、その愛人のHな姿を脳裡に浮かべて想わずニヤニヤ…とはまた、イヤらしぃにもホドがあるッ! あと確か敵側にもう1人、その死のまぎわにカレの愛人のエロ姿態を想い浮かべる(!)、とゆうヒトがいたよーだし。
ところで初代ガンダムで、ミライを囲んでオトコら3ビキが…とゆうハナシが出たけど、その場面でイヤらしぃ態度なのは意外とミライで、むしろオトコらのタイドはイヤらしくない。特に3ビキの中でもブライト艦長は、可能な限り自分を抑えててリッパだと感じられる(…付言して、ミライのよーな女性が地味顔のクセにオトコらを手玉に取るよーな展開になる…とは、逆にあるよーなコトでリアルだ。ソレに対し、誰がどー見ても美人サンのセイラには、逆に浮いたハナシがない…ソコもまたホントらしぃ)。
ところがその一方、「Z」のヘンケン艦長は自分が部下のエマ・シーンに岡惚れしてるコトをまったく隠せておらず、それでカレの艦内のフンイキをヘーキでイヤらしくしてやがるのだった。
そしてそのよーなアニメのヒーローであり、かつその実の父がそーゆうヒトであるからには、われらのカミーユ君がリッパなむっつりスケベであるコトには、何ンンもフシギがない。だがココはあんまし責めてなくて、筆者はカミーユ君にはかなり共感デキる部位がある。
オハナシの発端で両親を、ソレもタイヘンに無残なカタチで失ったカミーユ君は、カレがまぎれ込んだエウーゴのパイロットのおねー様たちに、やさし~くいたわってもらいたいのがヤマヤマだ。ソコらを大いに期待してるのだが、しかしアッサリと彼女らにツキ放され、ゼンゼンかまってもらえない…とゆうウキ目を見るのだった。(『Pt.2』へ続く)
2009/09/21
黒死館の彼岸、でなくその手前に Pt.2 - イノセンス(2)
(『Pt.1』からの続き…)ところで筆者は、『押井守「イノセンス」-と-小栗虫太郎「黒死館殺人事件」』とゆう作品ら2コを、恣意的に並べてみてる…とゆう気がしない。ドッチも一種の謎解きミステリーである…などとゆう共通項だけでは大マカすぎだが、この2コにはさらに、『人形、自動人形、人形愛』…とゆうモチーフのカブリもある。
「黒死館」には、物語のスタート以前に死んだ先代当主が(カレの亡妻の生き写しとして)愛した≪自動人形テレーズ≫、とゆうモノが登場する。そして最初の殺人の後、メイ探偵の法水は、ホンキではなかったのかも知れないが、『犯人もしくは殺人の手段がテレーズだったのでは?』…のよーなコトを言う。
その一方のわれらが「イノセンス」はストレートにも、『人形がヒトを殺す』とゆうオハナシではある。少なくとも、直接の殺人の手段が人形(アンドロイド)によるモノであるコトはマチガイない。そしてその人形らは≪性交≫の機能をも有するシロモノで、ハッキリ申せばロリコンの金持ちオヤジらの愛玩用ロボメイドで…と、ココもまた設定がストレートになっている。
(ストレートな反復…とゆうなら大余談だが、竜騎士07「うみねこのなく頃に」とゆう多メディア作品が大きな注目の中で現在進行中で、筆者もそのコミック版の第1巻を読んだが。コレがまたストレートに「黒死館」のフンイキをいま風のモードで反復してるモノであり、ソレへの1コのオマージュであろうとしか見れない。そーすると意外にも、この21世紀初頭に「黒死館」を反復するコトは、大いにアリなのやも?)
また。「黒死館殺人事件」(1935)とゆう長ぁ~い小説のド中盤、その館の新たな主人になろーかと目されてる青年が、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」(1911)のメロディを口笛で吹きながら登場する。よりにもよってそんな曲を登場のテーマにするなンて、さすが≪黒死館≫の住人だ、と筆者のよーな凡人はビックリする場面だが…(ちなみに≪黒死館≫の主な住人らは、総じてクラシック音楽のすぐれた素養を有する)。
そーするとメイ探偵の法水はその青年をつかまえて、カレがカビ臭いウンチクのみならず、同時代の『前衛』芸術にも明るいトコを見せる。
『僕はその「ペトルーシュカ」が、ストラヴィンスキーの作品の中では、一番好ましいと思っているのです。恐ろしい原罪哲学じゃありませんか。人形にさえ、口を空いている墳墓(はかあな)が待っているのですからね』(小栗虫太郎「黒死館殺人事件」, 第三篇の三)
とゆわれて想ったのだが、筆者はバレエ作品「ペトルーシュカ」の音楽にはけっこーなじみがあるけれど、ソレがどんなオハナシかは知らンかった。…とゆうか、『どんなオハナシなの?』とゆうギモンをいだいたコトさえもなかった。ソコでこのさい調べてみたらコレは、命を吹き込まれた人形らの物語なのだった。
カーニバルの見世物用に魔術師が、主人公のペトルーシュカ、美貌のバレリーナ、そして勇ましいムーア人…とゆう3体の人形に命を与える。≪心≫を手に入れたペトルーシュカはバレリーナに恋をするが、しかし彼女はムーア人になびき、主人公は相手にされない。さらにカレは、産みの親の魔術師からもナゼだかウトまれ気味だ。
そーしてしまいにペトルーシュカは、ムーア人に追いかけ廻されたアゲクに惨殺され、ハラワタ代わりのワラ束を引きずり出されてしまう。ソレが公衆の面前でなされたのだが、しかし人々は『タカが人形のコトだし』と気にも留めぬ…とゆった、こりゃ~またイヤなオハナシではある。音楽だけを聞いてたいままでは、『カーニバル的なフンイキはあるなァ』とゆう感じしか受けとってなかッた。
よって法水のゆってンのはまず、『人形とても、死ぬときは死ぬ』くれーのコトだろう。ンだがソコへと、『原罪哲学』とゆうムズぃコトバが付随してンのはナゼか?
ソレはペトルーシュカが≪心≫を持ったコトが、神にそむいたイヴとアダムがムダにチエをつけ『性欲』をも得るハメになった≪原罪≫と、同一視されてンのだ…と考えられる。そーしてヒトと同等になったモノはヒトらと同等の≪原罪≫をもしょい込むハメになり、そしてヒトらと同等の死すべき運命(さだめ)をもしょい込むのだ。
するとけっきょく≪ペトルーシュカ≫とは、他ならぬわれわれのコトではなかろーか…とゆうハナシになり気味だ。異なるとゆえば、ニンゲンであって人形でないところのわれわれは、『人形の死』などには気を留めない…とゆうコトだ。
(なお、「黒死館殺人事件」にての≪人形≫とゆうモチーフは、そンなには掘り下げられてもない、とは付記しとく。いまご紹介した場面は青年に向かって法水が、『アンタ、人形を使ってナニかやってない?』とゆう揺さぶりをカケてンのだ…的に見れる)
ところでココからはネタばらしのよーなハナシになるので…と、皆さまにごチューイを促しつつ。
まず発端に、愛玩用の少女型アンドロイドが暴走し、その持ち主を殺したアゲクに『タスケテ…』とうめき声を挙げながら自らをも破壊…とゆう事件の続発。とゆうトコから始まった「イノセンス」のヒーローたちの捜査はさいご、ナマ身の少女たちの救出で終わる。
したくないンだが『説明』すれば、悪のロボットメーカーが、単なる電子頭脳のアンドロイドでは出せないテイストを出すタメ、かつ顧客側の見かけ上の合法性を確保するタメに、ナマの少女らの魂をアンドロイドに吹き込んで販売してた。その気の毒な少女らが救けを求めて、アンドロイドに暴走事故を起こさしてた…のよーなオハナシらしーが、今作は。
とゆう≪真相≫を知った上でヒーローが、かわいそーな少女の1人に向かってゆったセリフが出色だ。いわく、『魂を吹き込まれた人形がどうなるかは、考えなかったのか?』。
その場でどーしてそーゆうセリフが出てクるのかを、まったくリカイできなかッた筆者は、大いなる自信を持って『アイ・アム・リッパな凡人でござる!』とゆえそーかも。けれど「ペトルーシュカ」のオハナシを見た上では、むげに人形に≪魂≫を吹き込むのも罪やも知れぬ…とまでは、思えなくもない。けれどそーゆうコトをしたいのが、ニンゲンとゆう生き物なのだ。ヒトの≪原罪≫とゆうモノがあるとすれば、ソレだろう。
ところでだが、「イノセンス」の原作の「攻殻機動隊」とゆう作品世界の中ではサイボーグ技術およびロボット工学がヒジョーにススンでるが、しかし作中で『ゴースト』と呼ばれるヒトの≪魂≫のよーなモノまでは製作デキないらしぃ。だからこそロリコンのオジ様らをマン足さすタメのアンドロイドにも、ナマ身の要素が必要だったワケだ。
そーして『作り物のボディに≪魂≫が入ってる』とゆうその状態は、おなじみこのシリーズのヒロイン≪少佐≫がまた同じ、かと想うのだが。
そーしてこのオハナシは、一方に肉体とカンケイなく≪魂≫があるとゆうリッパな観念論と、また一方の≪神人同形論≫とにブンレツしてて、マトモな焦点をなしえてない(…ただし『テーマ論的に破綻してれば駄作である』、ともゆってない)。
そーしてシリーズ第1作を反復し、『女体っぽぃ作りモノの崩壊=アンチ・ヌーディティとも呼べるヌーディティ』の提示に始まって、ナゼかさいごは再び≪ロリ少女≫の現出によって終わるこの作品が示してるコトは、少なくとも1つ…題名に言われた≪イノセンス(無垢)≫を求め、ソレをどーにかしたいとゆう≪欲望≫の遍在であるにはチガいない。イヤなコトを申すけど今作に描かれたよーに、ロリコンのオジ様も≪人形≫を欲し、小さな女の子たちもまた≪人形≫とたわむれ遊びたがるのだ。そーして≪無垢≫を求めるヒトビトは自分こそを無垢だと考えたくて、そしてその≪罪≫を重ねる。
【付記】:コレをカィてる最中にフと部屋のBGMを止めたら、遠くからチンドン屋のお囃子が聞こえてキた。想ったよりもすぐに止んでしまったが、タブン幻聴ではなさげ。
筆者にとっては、『押井守作品』を音楽的に特徴づけるのがチンドン屋の演奏とウットーしぃド演歌なので、こーゆう現象はトーゼンありうるかと考える。
「黒死館」には、物語のスタート以前に死んだ先代当主が(カレの亡妻の生き写しとして)愛した≪自動人形テレーズ≫、とゆうモノが登場する。そして最初の殺人の後、メイ探偵の法水は、ホンキではなかったのかも知れないが、『犯人もしくは殺人の手段がテレーズだったのでは?』…のよーなコトを言う。
その一方のわれらが「イノセンス」はストレートにも、『人形がヒトを殺す』とゆうオハナシではある。少なくとも、直接の殺人の手段が人形(アンドロイド)によるモノであるコトはマチガイない。そしてその人形らは≪性交≫の機能をも有するシロモノで、ハッキリ申せばロリコンの金持ちオヤジらの愛玩用ロボメイドで…と、ココもまた設定がストレートになっている。
(ストレートな反復…とゆうなら大余談だが、竜騎士07「うみねこのなく頃に」とゆう多メディア作品が大きな注目の中で現在進行中で、筆者もそのコミック版の第1巻を読んだが。コレがまたストレートに「黒死館」のフンイキをいま風のモードで反復してるモノであり、ソレへの1コのオマージュであろうとしか見れない。そーすると意外にも、この21世紀初頭に「黒死館」を反復するコトは、大いにアリなのやも?)
また。「黒死館殺人事件」(1935)とゆう長ぁ~い小説のド中盤、その館の新たな主人になろーかと目されてる青年が、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」(1911)のメロディを口笛で吹きながら登場する。よりにもよってそんな曲を登場のテーマにするなンて、さすが≪黒死館≫の住人だ、と筆者のよーな凡人はビックリする場面だが…(ちなみに≪黒死館≫の主な住人らは、総じてクラシック音楽のすぐれた素養を有する)。
そーするとメイ探偵の法水はその青年をつかまえて、カレがカビ臭いウンチクのみならず、同時代の『前衛』芸術にも明るいトコを見せる。
『僕はその「ペトルーシュカ」が、ストラヴィンスキーの作品の中では、一番好ましいと思っているのです。恐ろしい原罪哲学じゃありませんか。人形にさえ、口を空いている墳墓(はかあな)が待っているのですからね』(小栗虫太郎「黒死館殺人事件」, 第三篇の三)
とゆわれて想ったのだが、筆者はバレエ作品「ペトルーシュカ」の音楽にはけっこーなじみがあるけれど、ソレがどんなオハナシかは知らンかった。…とゆうか、『どんなオハナシなの?』とゆうギモンをいだいたコトさえもなかった。ソコでこのさい調べてみたらコレは、命を吹き込まれた人形らの物語なのだった。
カーニバルの見世物用に魔術師が、主人公のペトルーシュカ、美貌のバレリーナ、そして勇ましいムーア人…とゆう3体の人形に命を与える。≪心≫を手に入れたペトルーシュカはバレリーナに恋をするが、しかし彼女はムーア人になびき、主人公は相手にされない。さらにカレは、産みの親の魔術師からもナゼだかウトまれ気味だ。
そーしてしまいにペトルーシュカは、ムーア人に追いかけ廻されたアゲクに惨殺され、ハラワタ代わりのワラ束を引きずり出されてしまう。ソレが公衆の面前でなされたのだが、しかし人々は『タカが人形のコトだし』と気にも留めぬ…とゆった、こりゃ~またイヤなオハナシではある。音楽だけを聞いてたいままでは、『カーニバル的なフンイキはあるなァ』とゆう感じしか受けとってなかッた。
よって法水のゆってンのはまず、『人形とても、死ぬときは死ぬ』くれーのコトだろう。ンだがソコへと、『原罪哲学』とゆうムズぃコトバが付随してンのはナゼか?
ソレはペトルーシュカが≪心≫を持ったコトが、神にそむいたイヴとアダムがムダにチエをつけ『性欲』をも得るハメになった≪原罪≫と、同一視されてンのだ…と考えられる。そーしてヒトと同等になったモノはヒトらと同等の≪原罪≫をもしょい込むハメになり、そしてヒトらと同等の死すべき運命(さだめ)をもしょい込むのだ。
するとけっきょく≪ペトルーシュカ≫とは、他ならぬわれわれのコトではなかろーか…とゆうハナシになり気味だ。異なるとゆえば、ニンゲンであって人形でないところのわれわれは、『人形の死』などには気を留めない…とゆうコトだ。
(なお、「黒死館殺人事件」にての≪人形≫とゆうモチーフは、そンなには掘り下げられてもない、とは付記しとく。いまご紹介した場面は青年に向かって法水が、『アンタ、人形を使ってナニかやってない?』とゆう揺さぶりをカケてンのだ…的に見れる)
ところでココからはネタばらしのよーなハナシになるので…と、皆さまにごチューイを促しつつ。
まず発端に、愛玩用の少女型アンドロイドが暴走し、その持ち主を殺したアゲクに『タスケテ…』とうめき声を挙げながら自らをも破壊…とゆう事件の続発。とゆうトコから始まった「イノセンス」のヒーローたちの捜査はさいご、ナマ身の少女たちの救出で終わる。
したくないンだが『説明』すれば、悪のロボットメーカーが、単なる電子頭脳のアンドロイドでは出せないテイストを出すタメ、かつ顧客側の見かけ上の合法性を確保するタメに、ナマの少女らの魂をアンドロイドに吹き込んで販売してた。その気の毒な少女らが救けを求めて、アンドロイドに暴走事故を起こさしてた…のよーなオハナシらしーが、今作は。
とゆう≪真相≫を知った上でヒーローが、かわいそーな少女の1人に向かってゆったセリフが出色だ。いわく、『魂を吹き込まれた人形がどうなるかは、考えなかったのか?』。
その場でどーしてそーゆうセリフが出てクるのかを、まったくリカイできなかッた筆者は、大いなる自信を持って『アイ・アム・リッパな凡人でござる!』とゆえそーかも。けれど「ペトルーシュカ」のオハナシを見た上では、むげに人形に≪魂≫を吹き込むのも罪やも知れぬ…とまでは、思えなくもない。けれどそーゆうコトをしたいのが、ニンゲンとゆう生き物なのだ。ヒトの≪原罪≫とゆうモノがあるとすれば、ソレだろう。
ところでだが、「イノセンス」の原作の「攻殻機動隊」とゆう作品世界の中ではサイボーグ技術およびロボット工学がヒジョーにススンでるが、しかし作中で『ゴースト』と呼ばれるヒトの≪魂≫のよーなモノまでは製作デキないらしぃ。だからこそロリコンのオジ様らをマン足さすタメのアンドロイドにも、ナマ身の要素が必要だったワケだ。
そーして『作り物のボディに≪魂≫が入ってる』とゆうその状態は、おなじみこのシリーズのヒロイン≪少佐≫がまた同じ、かと想うのだが。
そーしてこのオハナシは、一方に肉体とカンケイなく≪魂≫があるとゆうリッパな観念論と、また一方の≪神人同形論≫とにブンレツしてて、マトモな焦点をなしえてない(…ただし『テーマ論的に破綻してれば駄作である』、ともゆってない)。
そーしてシリーズ第1作を反復し、『女体っぽぃ作りモノの崩壊=アンチ・ヌーディティとも呼べるヌーディティ』の提示に始まって、ナゼかさいごは再び≪ロリ少女≫の現出によって終わるこの作品が示してるコトは、少なくとも1つ…題名に言われた≪イノセンス(無垢)≫を求め、ソレをどーにかしたいとゆう≪欲望≫の遍在であるにはチガいない。イヤなコトを申すけど今作に描かれたよーに、ロリコンのオジ様も≪人形≫を欲し、小さな女の子たちもまた≪人形≫とたわむれ遊びたがるのだ。そーして≪無垢≫を求めるヒトビトは自分こそを無垢だと考えたくて、そしてその≪罪≫を重ねる。
【付記】:コレをカィてる最中にフと部屋のBGMを止めたら、遠くからチンドン屋のお囃子が聞こえてキた。想ったよりもすぐに止んでしまったが、タブン幻聴ではなさげ。
筆者にとっては、『押井守作品』を音楽的に特徴づけるのがチンドン屋の演奏とウットーしぃド演歌なので、こーゆう現象はトーゼンありうるかと考える。
黒死館の彼岸、でなくその手前に Pt.1 - イノセンス(1)
ヒトはカンジンなコトを言わないタメに、どーでもいいコトをペラペラとまくしたてる。分かッた上での所業だとしても、われらが押井守作品は、ソレの見本を示してるよーなトコはある…以下で話題になる「イノセンス」を、その傾向の筆頭として。
あるぃは。…柿を食べていて、予想外にタネを思いっきり噛ンでしまうと歯が痛い。柿なんて大して美味いモンでもねークセして、こンなふーにニンゲン様を苦しめるとはシッケイ千万だ。ヒトが、押井作品の一大特徴かとも見られる『無イミなウンチクのタレ流し』を喰らッた時の感じ方は、まぁだぃたぃそんなモノでもあるのかも。
で、はたしてソコでのモンダイは、その果肉が大して美味くもないコトにあるのか、またはそのタネがムダにカタすぎるコトにあるのだろーか?
ところでウンチクとゆうンなら、筆者はタマタマ先日、小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(1935)を読み返したトコで。コッチがコレまた、トホーもないウンチク小説なのだった。
しかも。われらが見ている押井守「イノセンス」劇中にタレ流されるウンチク…この場合だと名言・箴言の類は、そのフレーズら自体は“誰”も知らずとも、ソレをゆったのは相当マトモっぽぃ有名人たちだ(孔子、プラトン、ラ・メトリ、ミルトン…等々々)。
しかし一方の「黒死館」はヒドくって、むしろ中世史や近代史の忘れたい汚点に近いよーな、ヘンクツ学者とか魔術研究家とか異端の宗教家とか…そのテのヤカラの妄言に近いよーな奇説チン説らを、メイ探偵の≪法水麟太郎≫がご紹介なさりまくるッ。このヒーローの言うによれば、ソレらの奇説チン説らこそ、カレらが≪真相≫へ向かうタメのキーなのだ。
だぃたぃその作品、「黒死館殺人事件」とゆうモノ自体が全般テキには、ゲーテ「ファウスト」をネタとした≪見立て殺人≫のナゾを解く…のよーなオハナシになってるかと感じたが。そしてココでのゲーテもまた、啓蒙シュギ者としてのカレでなく、そのワリと神秘家テキなトコにスポットが当てられてンのだった。
で、現場での捜査中だッてぇのにそンなウンチクらをブツけられたお供の検事と刑事は『またか』とタメ息をつき、『ソレは分かったから、事件をマジメに検討しよう』のよーに受け流す。検事と刑事では少々応じ方がチガってて、検事はいちおう法水のウンチクを受けとめるが、豪腕派の刑事はそもそもまったくハナシにツィてけない。
と、そのワキ役ら2人が、筆者のよーな凡人の代理として作中で、法水のウンチク攻撃を喰らってくれるのだが。けれども大ビックリなのは、モンダイの≪黒死館≫に閉じ込められて陰ウツきわまる生活を送ってる住人たちは、何ンらビックリもせず法水のウンチク大会にヘーキでツキ合ってみせるとゆうコトだ。
とゆう彼岸の住人らがヘーゼンと魔術や神秘シュギを素で語り、そしてヨコ文字のポエムをスラスラと暗唱しあってるよーなダイアログが、オレのよーな凡人にはまったくツィてけないトコであり。そして同時に、筆者にはひじょうに笑える≪ギャグ≫のさくれつなのだ。ゆわれてる『内容』はどーでもイイのだがお芝居として、ヒトとヒトとの間に存在してるキョリを、ソレらウンチクの洪水がアバきたてるのだ。
ソレと筆者においてユカイなのは、その「黒死館殺人事件」においてメイ探偵・法水が2回にわたってフロイトの説を引き、カレのアッパレなメイ推理のウラ付けにしてるコトだ。法水がそのよーに扱うとゆうコトは逆に、筆者が大ソンケイするフロイト様が、オモシロ奇説やチン説をよくしたヘンクツ学者だ…と言われてるよーな気がするのだ。ただし法水はアインシュタインの学説をもチョー独断テキにに利用してて、ソレと同等くらいの扱いではあるのだが。
『だいたいが真理などと云うものは、往々に、牽強附会この上なしの滑稽劇(バーレスク)にすぎない場合がある。しかも、きまっていつも、それは平凡な形で足下に落ちているものではないか。』(小栗虫太郎「黒死館殺人事件」, 第五篇の一)
…とゆう見方のあるコトが、この作品「黒死館殺人事件」を、すぐれてフロイト的なシロモノにしてる。フロイトにしろ法水にしろ、牽強付会でコッケイかつ平凡すぎるよーなコトらを≪真理≫かと言い立ててわれわれを笑わせるのだが、けどソレを単なる善意のサービスとだけも言えない。
ソレコレによって「黒死館殺人事件」のヒーローたる法水のウンチク攻撃は、実はそンなに無イミにタレ流されてるモンでもなくて。ソレは≪真理≫の発見に向かっての必要な迂回かと見られ、かつそのウンチクに応酬してくるジンブツらに対し、心理テキなトラップをシカケてるのでもある。その≪発話内容≫には大したイミがないとしても、カレがあまりにも無イミそーなコトばっかゆってる≪発話行為≫は、最後にはリッパなイミをなすのだ。
(ただし筆者には、「黒死館殺人事件」が『ミステリー』作品として、全般テキにスジの通ったモンなのかどーか?…が、よく分かッてない)
と、ゆうモノを見た上だと。われらが押井カントクの作品「イノセンス」におけるウンチクのタレ流しは、どのよーに見えるだろーか?(『Pt.2』へ続く)
あるぃは。…柿を食べていて、予想外にタネを思いっきり噛ンでしまうと歯が痛い。柿なんて大して美味いモンでもねークセして、こンなふーにニンゲン様を苦しめるとはシッケイ千万だ。ヒトが、押井作品の一大特徴かとも見られる『無イミなウンチクのタレ流し』を喰らッた時の感じ方は、まぁだぃたぃそんなモノでもあるのかも。
で、はたしてソコでのモンダイは、その果肉が大して美味くもないコトにあるのか、またはそのタネがムダにカタすぎるコトにあるのだろーか?
ところでウンチクとゆうンなら、筆者はタマタマ先日、小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(1935)を読み返したトコで。コッチがコレまた、トホーもないウンチク小説なのだった。
しかも。われらが見ている押井守「イノセンス」劇中にタレ流されるウンチク…この場合だと名言・箴言の類は、そのフレーズら自体は“誰”も知らずとも、ソレをゆったのは相当マトモっぽぃ有名人たちだ(孔子、プラトン、ラ・メトリ、ミルトン…等々々)。
しかし一方の「黒死館」はヒドくって、むしろ中世史や近代史の忘れたい汚点に近いよーな、ヘンクツ学者とか魔術研究家とか異端の宗教家とか…そのテのヤカラの妄言に近いよーな奇説チン説らを、メイ探偵の≪法水麟太郎≫がご紹介なさりまくるッ。このヒーローの言うによれば、ソレらの奇説チン説らこそ、カレらが≪真相≫へ向かうタメのキーなのだ。
だぃたぃその作品、「黒死館殺人事件」とゆうモノ自体が全般テキには、ゲーテ「ファウスト」をネタとした≪見立て殺人≫のナゾを解く…のよーなオハナシになってるかと感じたが。そしてココでのゲーテもまた、啓蒙シュギ者としてのカレでなく、そのワリと神秘家テキなトコにスポットが当てられてンのだった。
で、現場での捜査中だッてぇのにそンなウンチクらをブツけられたお供の検事と刑事は『またか』とタメ息をつき、『ソレは分かったから、事件をマジメに検討しよう』のよーに受け流す。検事と刑事では少々応じ方がチガってて、検事はいちおう法水のウンチクを受けとめるが、豪腕派の刑事はそもそもまったくハナシにツィてけない。
と、そのワキ役ら2人が、筆者のよーな凡人の代理として作中で、法水のウンチク攻撃を喰らってくれるのだが。けれども大ビックリなのは、モンダイの≪黒死館≫に閉じ込められて陰ウツきわまる生活を送ってる住人たちは、何ンらビックリもせず法水のウンチク大会にヘーキでツキ合ってみせるとゆうコトだ。
とゆう彼岸の住人らがヘーゼンと魔術や神秘シュギを素で語り、そしてヨコ文字のポエムをスラスラと暗唱しあってるよーなダイアログが、オレのよーな凡人にはまったくツィてけないトコであり。そして同時に、筆者にはひじょうに笑える≪ギャグ≫のさくれつなのだ。ゆわれてる『内容』はどーでもイイのだがお芝居として、ヒトとヒトとの間に存在してるキョリを、ソレらウンチクの洪水がアバきたてるのだ。
ソレと筆者においてユカイなのは、その「黒死館殺人事件」においてメイ探偵・法水が2回にわたってフロイトの説を引き、カレのアッパレなメイ推理のウラ付けにしてるコトだ。法水がそのよーに扱うとゆうコトは逆に、筆者が大ソンケイするフロイト様が、オモシロ奇説やチン説をよくしたヘンクツ学者だ…と言われてるよーな気がするのだ。ただし法水はアインシュタインの学説をもチョー独断テキにに利用してて、ソレと同等くらいの扱いではあるのだが。
『だいたいが真理などと云うものは、往々に、牽強附会この上なしの滑稽劇(バーレスク)にすぎない場合がある。しかも、きまっていつも、それは平凡な形で足下に落ちているものではないか。』(小栗虫太郎「黒死館殺人事件」, 第五篇の一)
…とゆう見方のあるコトが、この作品「黒死館殺人事件」を、すぐれてフロイト的なシロモノにしてる。フロイトにしろ法水にしろ、牽強付会でコッケイかつ平凡すぎるよーなコトらを≪真理≫かと言い立ててわれわれを笑わせるのだが、けどソレを単なる善意のサービスとだけも言えない。
ソレコレによって「黒死館殺人事件」のヒーローたる法水のウンチク攻撃は、実はそンなに無イミにタレ流されてるモンでもなくて。ソレは≪真理≫の発見に向かっての必要な迂回かと見られ、かつそのウンチクに応酬してくるジンブツらに対し、心理テキなトラップをシカケてるのでもある。その≪発話内容≫には大したイミがないとしても、カレがあまりにも無イミそーなコトばっかゆってる≪発話行為≫は、最後にはリッパなイミをなすのだ。
(ただし筆者には、「黒死館殺人事件」が『ミステリー』作品として、全般テキにスジの通ったモンなのかどーか?…が、よく分かッてない)
と、ゆうモノを見た上だと。われらが押井カントクの作品「イノセンス」におけるウンチクのタレ流しは、どのよーに見えるだろーか?(『Pt.2』へ続く)
2009/09/16
不ケンコー全裸系! - 攻殻機動隊(1)
この作品、「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」を初めて見たのはLate 1990's、いまはない池袋文芸座地下の押井守特集、とゆう機会にてだった。細かいコトをイロイロ記録されてる方々がおられるので、調べるとソレは何年何月の第何週、とゆうくらぃは判明するかも知れぬ。
で、その時の印象だが…。『アッケにとられたまま、池袋から家までの夜道を戻った』とゆうのがショージキなトコだ。とゆうのは、決してホメてない。『押井は、もぉイイや』とゆう想いをいたしたコトも憶えてる。
(…あと1コふしぎなのは、文芸座だからタブン2本立てだったろーに、併映作品をまったく憶えてない。ソレはすでに見た作品だったので、その場では見なかったのかも?)
ソレがまー、ご覧のブログを始めてしまったとゆうキッカケで、今作こと「攻殻機動隊」を再見してみたが…。
押井ファンの方々におかれてはご存じなさそーなコトから申すと、少年マガジンに載ってた「ケンコー全裸系水泳部ウミショー」とゆうまんが作品がある(作・はっとりみつる, 2006, KC少年マガジン, 全9巻)。コレは『スポ根系ラヴコメギャグショート』とゆうチャレンジングなスタイルの創作で、そのヒロインたる沖縄の離島生まれのド天然少女は、羞恥心がひじょうに足りない。
その子が江ノ島っぽぃ神奈川の高校に転入してキて、そして入部した水泳部のキャプテンがアッパレな変質者であり、カレは羞恥心がない。で、コイツら2ヒキの相乗作用によって、オハナシはスポ根要素をカラめてのハレンチなドタバタギャグになる。別にオススメしないけど、ギャグ要素の濃い初期はけっこー面白い(…しかし同作のTVアニメ版は、最初の2回しか見なかったが、単なるラブコメなのではと)。
『ソレをふまえて』…とゆうツモリなどまったくあるワケもなかったが、けれどもこのたび「攻殻機動隊」を再見してみたら、『不ケンコー全裸系サイバーアクション』とゆうフレーズが脳裡に浮かんでキたのだった。「攻殻機動隊」とゆう作品の描くところを『不健康』と言い切れるかどーかは知らンが、少なくともケンコーでなさそーなコトだけは確かでは?
「ウミショー」のヒロインもコッチのヒロインもちゅうちょなく全裸になるが、≪羞恥≫がないところでの全裸ごときには、フツーの意味でのイロケがない。特に『コッチのヒロイン』とゆわれた≪少佐≫のカラダは、無イミにキン肉をツケ足されたマネキン人形かのよーで…。しかもじっさいに作り物の『義体』だとゆう設定がツィてンだから、いまの語でゆうなら『萌え』よーがない。と、言い切りたいトコではあるが…。
今作「攻殻機動隊」が描いてるテカテカの作り物の≪裸(ら)≫、エロスとゆうか性的な機能性を剥ぎ取られたマネキン的な≪裸≫、解体されたり崩壊したりしてそのグロテスクな内部をムキだしにする≪裸≫。『萌え』ではなくして、『萎え』をもたらすよーな≪裸≫。
ソレらを称して、『アンチ・ヌーディティ』とでも呼びたいよーには想うンだけど。しかしその『アンチ・ヌーディティ』もまた、『ヌーディティ』の一種に他ならぬコトは明らかだ。
だから、この…。ハッキリゆうならタイクツきわまる作品の冒頭に少佐の過剰な≪裸≫が、その“内部”までも超ムキ出しになってるコトは、『プロダクションの勝利』とでも形容しとくべき快挙なのでは? そーして少佐の義体のホーカイ気味な≪裸≫の提示は、かの大メイ作、フリッツ・ラング「メトロポリス」の大ヤマ場…アンドロイド≪マリア≫の肉体が焼け崩れるシーンを反復しつつ、あわせて見る者らの≪享楽≫をアオり立てる。さきに筆者の脳裡に浮かんだコトバ…『不ケンコー全裸系』とは、あるいはコレらのコトか。
しかもオハナシのケツ末で、終盤のドサクサにズタボロになってしまった少佐の義体は、≪ロリ少女≫とゆうカタチのモノに換えられている。とゆう眺めを見て、かって池袋のオレは呆れるばかりだったが、いまの自分は『大した≪ギャグ≫だ!』と感心してる。
無イミにゴツぃマネキン人形かのよーだったモノから≪ロリ少女≫へ、記号は記号へと変換される。「攻殻機動隊」と呼ばれるこの作品は、表面上のオハナシとはまったくカンケイなさそーなトコで、1つの問いを提出してるのだ。すなーち、『性的な機能のないモノが、性的な記号として機能する、とはコレいかに?』、と。
スマンが筆者が正しい答をゆっちゃえば、ソレはニンゲンらの性的活動が、『本能』とやらとは無カンケイな≪記号活動≫だから…てぇコトになる。オーガズムとゆう現象は生理テキなモノではあるが、ソレにいたるべくしてニンゲンらはあらゆる記号操作をヤる。
(逆のトコも見とくと、「ウミショー」のヒロインの≪裸≫は単なる裸であって記号性に乏しいので『イロケ』がない)
で、コレをはじめに押井作品らのモンダイ設定には、カンタンなコトでもわざーざミスリードするよーに構成してる…とゆうトコが見うけられるが、まぁソレはよい。
かつまた。ニンゲンの性が記号活動である一方で、記号(シニフィアン)とゆうモノの根源に性的な≪イミ≫があると考えてるわれわれは、また別のニンゲンについての問い…『服を着たから体毛がなくなったのか、体毛がなくなったから服を着たのか?』を、反復してる感じもなくない。で、その、『ナゼにニンゲンには体毛がないのか?』とゆう問いに対し、『その方が、性的にキモチいいから。』とゆう説をマジで提唱してる学者サンもいてなはるとか(!)。
一方、今作の劇中で少佐が示してる『“特殊化”は、意外とよろしくない』とゆう見方に従えば、その問いへの答は、『状況に応じて、イロんな服に着替えデキる方がベンリだから』となるだろう。コレもまた一定の正しさを有する答かとは考えられ、ゆえに人類はアレコレと≪コスプレ≫を愉しむコトがデキるワケだ。
ところで、「ウミショー」のアニメ版を2回だけ見て想ったンだが。原作まんがのワリと下手クソで未整理にゴチャゴチャと描かれたモノを、集団制作のアニメでスッキリ整理して描き直してしまうと、『何ンかイヤらしいばかりだなァ』…とゆう感じになり下がってる。と申した、『ヘタに整理すると、逆にイヤらしくなる』…とゆうテーゼは憶えといた方がよさげ。
さァて、しまいに。ココまでの堕文をご覧の賢明なる諸姉兄におかれては、トーゼンお気づきの方もおられよーけれど。今作「攻殻機動隊」の続編かと目される「イノセンス」は、いままでわれわれが見てキたポイントを…明示テキにはゆわれてなかった問いかけを、ややハッキリと提示したモノに他ならない。つまりこの連作を真に連結してるのは、≪機械の花嫁≫とゆうテーマ性…とゆうか、そのよーな性格をそなえた記号であり…。とゆうワケだが、今回の堕文はこのへんで。
で、その時の印象だが…。『アッケにとられたまま、池袋から家までの夜道を戻った』とゆうのがショージキなトコだ。とゆうのは、決してホメてない。『押井は、もぉイイや』とゆう想いをいたしたコトも憶えてる。
(…あと1コふしぎなのは、文芸座だからタブン2本立てだったろーに、併映作品をまったく憶えてない。ソレはすでに見た作品だったので、その場では見なかったのかも?)
ソレがまー、ご覧のブログを始めてしまったとゆうキッカケで、今作こと「攻殻機動隊」を再見してみたが…。
押井ファンの方々におかれてはご存じなさそーなコトから申すと、少年マガジンに載ってた「ケンコー全裸系水泳部ウミショー」とゆうまんが作品がある(作・はっとりみつる, 2006, KC少年マガジン, 全9巻)。コレは『スポ根系ラヴコメギャグショート』とゆうチャレンジングなスタイルの創作で、そのヒロインたる沖縄の離島生まれのド天然少女は、羞恥心がひじょうに足りない。
その子が江ノ島っぽぃ神奈川の高校に転入してキて、そして入部した水泳部のキャプテンがアッパレな変質者であり、カレは羞恥心がない。で、コイツら2ヒキの相乗作用によって、オハナシはスポ根要素をカラめてのハレンチなドタバタギャグになる。別にオススメしないけど、ギャグ要素の濃い初期はけっこー面白い(…しかし同作のTVアニメ版は、最初の2回しか見なかったが、単なるラブコメなのではと)。
『ソレをふまえて』…とゆうツモリなどまったくあるワケもなかったが、けれどもこのたび「攻殻機動隊」を再見してみたら、『不ケンコー全裸系サイバーアクション』とゆうフレーズが脳裡に浮かんでキたのだった。「攻殻機動隊」とゆう作品の描くところを『不健康』と言い切れるかどーかは知らンが、少なくともケンコーでなさそーなコトだけは確かでは?
「ウミショー」のヒロインもコッチのヒロインもちゅうちょなく全裸になるが、≪羞恥≫がないところでの全裸ごときには、フツーの意味でのイロケがない。特に『コッチのヒロイン』とゆわれた≪少佐≫のカラダは、無イミにキン肉をツケ足されたマネキン人形かのよーで…。しかもじっさいに作り物の『義体』だとゆう設定がツィてンだから、いまの語でゆうなら『萌え』よーがない。と、言い切りたいトコではあるが…。
今作「攻殻機動隊」が描いてるテカテカの作り物の≪裸(ら)≫、エロスとゆうか性的な機能性を剥ぎ取られたマネキン的な≪裸≫、解体されたり崩壊したりしてそのグロテスクな内部をムキだしにする≪裸≫。『萌え』ではなくして、『萎え』をもたらすよーな≪裸≫。
ソレらを称して、『アンチ・ヌーディティ』とでも呼びたいよーには想うンだけど。しかしその『アンチ・ヌーディティ』もまた、『ヌーディティ』の一種に他ならぬコトは明らかだ。
だから、この…。ハッキリゆうならタイクツきわまる作品の冒頭に少佐の過剰な≪裸≫が、その“内部”までも超ムキ出しになってるコトは、『プロダクションの勝利』とでも形容しとくべき快挙なのでは? そーして少佐の義体のホーカイ気味な≪裸≫の提示は、かの大メイ作、フリッツ・ラング「メトロポリス」の大ヤマ場…アンドロイド≪マリア≫の肉体が焼け崩れるシーンを反復しつつ、あわせて見る者らの≪享楽≫をアオり立てる。さきに筆者の脳裡に浮かんだコトバ…『不ケンコー全裸系』とは、あるいはコレらのコトか。
しかもオハナシのケツ末で、終盤のドサクサにズタボロになってしまった少佐の義体は、≪ロリ少女≫とゆうカタチのモノに換えられている。とゆう眺めを見て、かって池袋のオレは呆れるばかりだったが、いまの自分は『大した≪ギャグ≫だ!』と感心してる。
無イミにゴツぃマネキン人形かのよーだったモノから≪ロリ少女≫へ、記号は記号へと変換される。「攻殻機動隊」と呼ばれるこの作品は、表面上のオハナシとはまったくカンケイなさそーなトコで、1つの問いを提出してるのだ。すなーち、『性的な機能のないモノが、性的な記号として機能する、とはコレいかに?』、と。
スマンが筆者が正しい答をゆっちゃえば、ソレはニンゲンらの性的活動が、『本能』とやらとは無カンケイな≪記号活動≫だから…てぇコトになる。オーガズムとゆう現象は生理テキなモノではあるが、ソレにいたるべくしてニンゲンらはあらゆる記号操作をヤる。
(逆のトコも見とくと、「ウミショー」のヒロインの≪裸≫は単なる裸であって記号性に乏しいので『イロケ』がない)
で、コレをはじめに押井作品らのモンダイ設定には、カンタンなコトでもわざーざミスリードするよーに構成してる…とゆうトコが見うけられるが、まぁソレはよい。
かつまた。ニンゲンの性が記号活動である一方で、記号(シニフィアン)とゆうモノの根源に性的な≪イミ≫があると考えてるわれわれは、また別のニンゲンについての問い…『服を着たから体毛がなくなったのか、体毛がなくなったから服を着たのか?』を、反復してる感じもなくない。で、その、『ナゼにニンゲンには体毛がないのか?』とゆう問いに対し、『その方が、性的にキモチいいから。』とゆう説をマジで提唱してる学者サンもいてなはるとか(!)。
一方、今作の劇中で少佐が示してる『“特殊化”は、意外とよろしくない』とゆう見方に従えば、その問いへの答は、『状況に応じて、イロんな服に着替えデキる方がベンリだから』となるだろう。コレもまた一定の正しさを有する答かとは考えられ、ゆえに人類はアレコレと≪コスプレ≫を愉しむコトがデキるワケだ。
ところで、「ウミショー」のアニメ版を2回だけ見て想ったンだが。原作まんがのワリと下手クソで未整理にゴチャゴチャと描かれたモノを、集団制作のアニメでスッキリ整理して描き直してしまうと、『何ンかイヤらしいばかりだなァ』…とゆう感じになり下がってる。と申した、『ヘタに整理すると、逆にイヤらしくなる』…とゆうテーゼは憶えといた方がよさげ。
さァて、しまいに。ココまでの堕文をご覧の賢明なる諸姉兄におかれては、トーゼンお気づきの方もおられよーけれど。今作「攻殻機動隊」の続編かと目される「イノセンス」は、いままでわれわれが見てキたポイントを…明示テキにはゆわれてなかった問いかけを、ややハッキリと提示したモノに他ならない。つまりこの連作を真に連結してるのは、≪機械の花嫁≫とゆうテーマ性…とゆうか、そのよーな性格をそなえた記号であり…。とゆうワケだが、今回の堕文はこのへんで。
2009/09/15
Infrared Riding Hood, または 「人狼」vs.「もののけ姫」 - 人狼(1)
"Infrared Riding Hood"(赤外ずきんチャン)とは、T.A.D.とゆう1990'sのロックバンドのアルバム名だが。…もち聞いたコトはあるンだがしかし、『マズくもないけど、まぁモロにニルヴァーナもどきの“オルタナ”サウンドでやンすなァ…』とゆうヒドぃ感想しかない。またチャンと検討すれば、もチョッとマシなモノとして言えそーにも想いつつ。
で、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」とゆう映画に対しての感想もまた、そのレベル…とは言わンのだが! いまこの堕文には、そもそも今作が属する「ケルベロス・サーガ」てモンをどー見るか?…なンてコトを離れて、ただ1コのコトをカィておく。
すなーち。誰がどー見ても今作「人狼 JIN-ROH」の重要そーなモチーフとして、“誰も”がよく知る「赤ずきん」のメルヒェンはある。ところが作中で紹介される「赤ずきん」のオハナシの展開が、ミョーに耳なれないモノだ…とゆう感じをいだかれた方々がおられるのでは? ソコで語られるオハナシには、狼にダマされた赤ずきんチャンが自分の母の肉を喰いその血を呑む…なンてショッキングなシーンがあるが、『ソレはそーゆうストーリーだ』と想ってた方々が、どれだけおられるや?
さてタマタマだが、筆者は一時期『メルヒェンの研究』とゆうカイもなさそーなヒマごとに熱中してたので、多少はこのテの話題に明るいやも知れない。まず「赤ずきん」のオハナシのベースはもともとフランスから出たモノで、ソレをシャルル・ペローがかの超メイ著「過ぎし昔の物語」(1697, いわゆるペロー童話集)にカィたさいに、≪赤ずきん≫とゆうアイテムが初めてヒロインにそうびされたのだとゆう。
単なるアイテムとゆうよりか、あえてゆうならソコにて≪フェティッシュ≫がそうびされたのだ。ともあれ、ペロー以前の『野生の“赤ずきんチャン”たち』は、そンなハデなモノは身にツケてなかったらしぃ(!)。で、ソコでそのオハナシのヒロインに≪赤ずきん≫とゆうそうびがツィたコトに、イミがないワケは決してない。だが、ソレは後述するとして…。
その後にグリム兄弟が「子どもと家庭のメルヒェン集」(いわゆるグリム童話集, KHM)にカィた「赤ずきん」のオハナシは、ペローの創作が再び口承化されたモノが採取されたモノかのよーに言われる。で、ココはご存じの方も多いだろーが、ヒロインらが狩人によって救われてハッピーエンド…とゆうおなじみのケツ末は、バッドエンドのペロー版にはなかったモノだ。
またこのグリム童話集とゆうのが、1812年の初版から1857年の第7版までに、イロイロとカキ換えられてるモノで。いまはその詳細を調べよーかとゆう善意もないが、しかしグリム童話集の改版ごとのカキ換えの方向性は、ヒジョーにハッキリと一貫してる。ソレは主として、『1.女性蔑視、2.性(的)表現の抑圧、3.暴力描写のエスカレート』、とゆう三拍子だ。『グリム童話が、実は超コワぃ』とゆう説(?)を聞くコトがあるが、改版ごとにコワくなってるとゆう事実もまたある。
がしかし、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ』…なンてショッキングなエピソードは、ペローとグリムの両メジャー版にはない。ではありつつ、筆者が何ンかの研究書で読んだ『ペロー以前の、野生の“赤ずきんチャン”』には、ソレがある。
ソレはだぃたぃ、こーゆうオハナシだったかと記憶してる。前半部を超かいつまんで、映画の中で語られるよーにヒロインは狼にダマされ、“祖母”の肉を喰いその血を呑む。すると森のどうぶつたちが、『おやまぁこの子は、祖母の肉を食い血を呑んだよ!』と言う。
だがその後がズイブン違ってて、ナゼだかソレからミョーにアタマがサエてキたヒロインは、狼の目論見を見破る。ただしカンタンには逃げられないと見て、『おしっこしに行く』とウソを言い、ベッドを抜け出して小屋を出る。
そのさいに狼の側も『ダマしてンのかも?』とは疑って、確かヒロインのカラダに縄をツケるのだが。しかし女の子はソコでまたチエを使い、その縄を家畜の脚に縛り直すかナニかして(ココらは死ぬホドのウロ憶え)、ともかくも自分だけは生還に成功するのだった。
とは、どーゆうオハナシかと見るべきか? われらが『野生の“赤ずきん”』のストーリーにおいてはむしろ、ヒロインが祖母の肉を喰いその血を呑む…とゆうトコにオハナシの一大ポイントがある。彼女がソコから急にチエが廻り始めるのは、その行為を介して祖母の蓄えてた≪知恵≫が、彼女に伝わったのだ…と考えられる。
だぃたぃこのオハナシの登場ジンブツは、少女たるヒロインとその母および祖母…とゆう3世代の女性らと、ソレに敵対するモノとしての≪狼≫だけ…。とゆうワケでオハナシの骨子は、『世代をわたる女性らの、生きるタメの抵抗』と見れるのでは?
で、オハナシの帰結として、老いて肉体の弱った祖母は狼に喰い殺されてしまうが、しかし祖母のチエを受け継いだ孫娘は生き残り、そしてまた生命の再生産に向かう。彼女らはけっして≪狼≫には勝てないが、しかし生き残るタメに、チエを用いて抵抗し続けるのだ。
しかもその『女性から女性への、世代をわたるチエの伝達』とゆう作中の実践が、『炉辺の女性たちの物語り』とゆうその伝承の形式とイコールであるコト(!)。その、アンマリな美しさをも見ておこう。
とゆうこの『野生の“赤ずきん”』のストーリーが、まずあったとしてだ。追ってソレを、まずはペローが『お嬢さま方、≪狼≫テキな男子にご用心!』とゆう教訓バナシにカキ換えやがり。さらにグリム兄弟はハジ知らずにも、ソレを勧善懲悪ストーリーにカキ換えたのだ。ペローもグリムもトーゼン超偉大な≪メルヒェナー≫だが、何ンかこのポイントを考えるとイヤな感じがしなくはない。
なお、ハナシの本題をハズれるが。ペロー版「赤ずきん」は確かに表面上は教訓バナシだケド、しかしソレを一種の≪凄惨美≫の表現かのよーにウケとってみるのも一興やも知れぬ。ワリといまでも広く好まれるよーな、『美少女受難』の物語…と見るのもアリかも知れぬ。ひじょうにリッパな≪フェティッシュ≫であり、無垢と挑撥、純潔と≪享楽≫、等々らを同時にイミしまくるところの≪赤ずきん≫とゆうアイテムの創案がその≪凄惨美≫とやらを大いに盛り上げてるワケで。
一方、ペローに先立った『野生版』には、その後もこの説話パターンに継承される性的なニュアンスはじゅうぶんすでにあるが、しかしそーゆうイミでの≪美≫はない。だぃたぃペロー童話集の特徴として全般に、森の中のオハナシでも『土クサさ』なンてモノはなくて、まるでロココ美術かのよーにひたすら≪優美≫が実現されている。その罪なきヒロインの気の毒すぎる運命にはカンケイなく、ペロー作「赤ずきん」は何ンせまず優美な作品である…とは知らねばならない。
そして、『無垢なる(美しき)ヒロインの、モロモロの受難』…とゆうオハナシには明らかに、ウケる要素がある。イヤむしろ、イヤになるホドありすぎる。
われらの課題たる押井作品群だと、今作こと「人狼」をはじめ「イノセンス」にもソレが大フィーチャーされており(…何ンせ、題名がいきなり「イノセンス」=“無垢”、とキて)。また、「天使のたまご」もその系列に入りそう。いまはあんまし追わないが、『無垢であること』を≪挑撥≫かのよーに受けとる感性もある、とゆう事実は憶えとくべきではある。
かつまた、ただいまお伝えした『野生の“赤ずきん”』のストーリーを見て、『そーだとすると、押井とゆうより宮崎(駿)テキなオハナシかもなァ』…と感じたお方が、おられないとも限らぬ。と申す筆者は、つぃ先日「もののけ姫」を初めて見て(…イヤだなァ、世紀をまたいじゃッての初見?)、『このおセンセのお作品のフェミニストぶったポーズには、超まったくウンザリだッ』…と感じたばかりだがッ。
とまでを見てから、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」なる作品と「赤ずきん」、とゆうハナシに戻れば…ッ!?
まずその作中の「赤ずきん」の話型の出ドコが、チと分からない。作中に映される絵本の表紙にはドイツ語の題名が書かれてるが、グリム童話とはまったくオハナシが異なる。だぃたぃ最初から「人狼 JIN-ROH」における「赤ずきん」のオハナシは、フツー祖母とある人物が生き別れの実母になってるトコがミョーだ。広く『メルヒェン』のイントロとしてみれば、どっかにありそーなモノではありつつも。
けれどオハナシの中盤は、われわれが見てキた『野生の“赤ずきん”』とほぼ同様に運ぶ。ところがケツ末までイクと、ペロー版と同然の大バッドエンドになってるよーだ。ソコがハッキリとは語られてない感じだが、映画のケツ末がソレを示唆してる。
で、そーとするとッ? その中盤の、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ!』とゆうエピソードが『野生版』にてのイミを失い、単なる猟奇趣味になり下がッてしまぃ気味では? てゆうかもっとハッキリゆえば、娯楽としての『猟奇趣味』に応じるだけのモンにもなってねェ、とゆう気がいたすがッ?
だぃたぃ筆者は今作こと「人狼 JIN-ROH」に出てクるオトコらが、『オレらはヒトならぬ狼だから!』ナドとありえぬコトを真顔で言い張ってンのが、実にコッケイにしか見えない。『コッケイに見える』と申したその表現が、実はずいぶんエンリョしたモノだ…ともまた言い添えて。
で、ソイツらの『狼として生きるゾ!』とゆう宣言がいちおうカッコよさそーにも聞こえるのだが、しかし実はソレが、≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からの逃避でしかないのでは? そーして「赤ずきん」とゆうオハナシが出てる文脈で『オレらは狼だ』と宣言すれば、ソレはレイプ魔ではべる…とゆう宣言とゼンゼン等価だ。で、この「人狼 JIN-ROH」とゆう作品が実質テキにレイプ賛美とゆう性格を持つコトもまた、ヒジョーに明らかなコトとして。
とまでを見てしまえば、筆者がつぃつぃ『この野郎!』ナドと見た「もののけ姫」が、少なくともいくつかの正しいコトを描いてやがる…とも知れる。その作中、森の山犬らに育てられてニンゲンを敵視するヒロインは、『あたしはニンゲンじゃない!』的なコトを言い張るが、しかしヒーローは何ンのためらいもナシにソレを打消して、『イヤ、キミはニンゲンだ。』と彼女に宣告する。
≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からは、“誰”も逃れえないとゆうコトだ。…そのツトメを果たしおおすコトがデキるかは別として、何ンせソレを引き受けなければならないのだ。ソレを拒んで自分が山犬だとか狼だとか言い張ってやがっては、ただ単によくゆう≪畜生道≫に堕ちてるコトでもありつつ。かつまた、ニンゲン以外でありえぬものとして真に『生きる』…とゆうコトを拒もうとゆうジェスチャーでも、ソレはあるだろう。
ゆえに「もののけ姫」なる作品のキャッチフレーズは、“誰も”が知るよーに『生きろ。』であってまったくマチガイないッ! 「もののけ姫」のヒーローはスカしたイヤなヤツだとオレは見たが、その≪言≫の正しさもまた見とかねばならないッ!
とゆったトコらを見れば、≪「もののけ姫」-と-「人狼」≫との2コが、一方が他方へのまっこうアンチテーゼであるところのペア作品…かのよーにも見れてクる。別に“誰も”がおっしゃるよーな『押井守 vs 宮崎駿』の対立軸ごときをいまさら申したくもないが、しかしそンな気がしちゃッたのでしょーがない。
そーしてそのネガティブなつながりを仮構した上でゆうなら、「もののけ姫」のヒーローが逆に赤い頭巾を愛用してるコトまでが、イミあるかのよーにも見えてクる。無法で無頼の山犬だか狼だかを自称するヒロインに対してヒーローが逆に、無垢なる≪赤ずきん≫とゆう役廻りを演じながら(喰い殺されるやも…とゆうリスクをかえりみず!)近づくのだ。
(…ただし「もののけ姫」では敵味方、かなり多くのジンブツらが赤いモノをカブッて活躍するので、あましその記号性は言い張らない)。
とゆうトコでこの堕文はオシマイで、「人狼 JIN-ROH」のハナシはまたいつかに続く。と、このよーにトートツ気味な≪切断≫がヘーキでヤレるのは、『押井守作品』とゆうわれわれの題材のもたらすオイシぃトコだ。もしも≪批評≫なンてモノがこの世にあるとしたら、ソレが題材に似てるコトが罪であるワケがない。
で、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」とゆう映画に対しての感想もまた、そのレベル…とは言わンのだが! いまこの堕文には、そもそも今作が属する「ケルベロス・サーガ」てモンをどー見るか?…なンてコトを離れて、ただ1コのコトをカィておく。
すなーち。誰がどー見ても今作「人狼 JIN-ROH」の重要そーなモチーフとして、“誰も”がよく知る「赤ずきん」のメルヒェンはある。ところが作中で紹介される「赤ずきん」のオハナシの展開が、ミョーに耳なれないモノだ…とゆう感じをいだかれた方々がおられるのでは? ソコで語られるオハナシには、狼にダマされた赤ずきんチャンが自分の母の肉を喰いその血を呑む…なンてショッキングなシーンがあるが、『ソレはそーゆうストーリーだ』と想ってた方々が、どれだけおられるや?
さてタマタマだが、筆者は一時期『メルヒェンの研究』とゆうカイもなさそーなヒマごとに熱中してたので、多少はこのテの話題に明るいやも知れない。まず「赤ずきん」のオハナシのベースはもともとフランスから出たモノで、ソレをシャルル・ペローがかの超メイ著「過ぎし昔の物語」(1697, いわゆるペロー童話集)にカィたさいに、≪赤ずきん≫とゆうアイテムが初めてヒロインにそうびされたのだとゆう。
単なるアイテムとゆうよりか、あえてゆうならソコにて≪フェティッシュ≫がそうびされたのだ。ともあれ、ペロー以前の『野生の“赤ずきんチャン”たち』は、そンなハデなモノは身にツケてなかったらしぃ(!)。で、ソコでそのオハナシのヒロインに≪赤ずきん≫とゆうそうびがツィたコトに、イミがないワケは決してない。だが、ソレは後述するとして…。
その後にグリム兄弟が「子どもと家庭のメルヒェン集」(いわゆるグリム童話集, KHM)にカィた「赤ずきん」のオハナシは、ペローの創作が再び口承化されたモノが採取されたモノかのよーに言われる。で、ココはご存じの方も多いだろーが、ヒロインらが狩人によって救われてハッピーエンド…とゆうおなじみのケツ末は、バッドエンドのペロー版にはなかったモノだ。
またこのグリム童話集とゆうのが、1812年の初版から1857年の第7版までに、イロイロとカキ換えられてるモノで。いまはその詳細を調べよーかとゆう善意もないが、しかしグリム童話集の改版ごとのカキ換えの方向性は、ヒジョーにハッキリと一貫してる。ソレは主として、『1.女性蔑視、2.性(的)表現の抑圧、3.暴力描写のエスカレート』、とゆう三拍子だ。『グリム童話が、実は超コワぃ』とゆう説(?)を聞くコトがあるが、改版ごとにコワくなってるとゆう事実もまたある。
がしかし、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ』…なンてショッキングなエピソードは、ペローとグリムの両メジャー版にはない。ではありつつ、筆者が何ンかの研究書で読んだ『ペロー以前の、野生の“赤ずきんチャン”』には、ソレがある。
ソレはだぃたぃ、こーゆうオハナシだったかと記憶してる。前半部を超かいつまんで、映画の中で語られるよーにヒロインは狼にダマされ、“祖母”の肉を喰いその血を呑む。すると森のどうぶつたちが、『おやまぁこの子は、祖母の肉を食い血を呑んだよ!』と言う。
だがその後がズイブン違ってて、ナゼだかソレからミョーにアタマがサエてキたヒロインは、狼の目論見を見破る。ただしカンタンには逃げられないと見て、『おしっこしに行く』とウソを言い、ベッドを抜け出して小屋を出る。
そのさいに狼の側も『ダマしてンのかも?』とは疑って、確かヒロインのカラダに縄をツケるのだが。しかし女の子はソコでまたチエを使い、その縄を家畜の脚に縛り直すかナニかして(ココらは死ぬホドのウロ憶え)、ともかくも自分だけは生還に成功するのだった。
とは、どーゆうオハナシかと見るべきか? われらが『野生の“赤ずきん”』のストーリーにおいてはむしろ、ヒロインが祖母の肉を喰いその血を呑む…とゆうトコにオハナシの一大ポイントがある。彼女がソコから急にチエが廻り始めるのは、その行為を介して祖母の蓄えてた≪知恵≫が、彼女に伝わったのだ…と考えられる。
だぃたぃこのオハナシの登場ジンブツは、少女たるヒロインとその母および祖母…とゆう3世代の女性らと、ソレに敵対するモノとしての≪狼≫だけ…。とゆうワケでオハナシの骨子は、『世代をわたる女性らの、生きるタメの抵抗』と見れるのでは?
で、オハナシの帰結として、老いて肉体の弱った祖母は狼に喰い殺されてしまうが、しかし祖母のチエを受け継いだ孫娘は生き残り、そしてまた生命の再生産に向かう。彼女らはけっして≪狼≫には勝てないが、しかし生き残るタメに、チエを用いて抵抗し続けるのだ。
しかもその『女性から女性への、世代をわたるチエの伝達』とゆう作中の実践が、『炉辺の女性たちの物語り』とゆうその伝承の形式とイコールであるコト(!)。その、アンマリな美しさをも見ておこう。
とゆうこの『野生の“赤ずきん”』のストーリーが、まずあったとしてだ。追ってソレを、まずはペローが『お嬢さま方、≪狼≫テキな男子にご用心!』とゆう教訓バナシにカキ換えやがり。さらにグリム兄弟はハジ知らずにも、ソレを勧善懲悪ストーリーにカキ換えたのだ。ペローもグリムもトーゼン超偉大な≪メルヒェナー≫だが、何ンかこのポイントを考えるとイヤな感じがしなくはない。
なお、ハナシの本題をハズれるが。ペロー版「赤ずきん」は確かに表面上は教訓バナシだケド、しかしソレを一種の≪凄惨美≫の表現かのよーにウケとってみるのも一興やも知れぬ。ワリといまでも広く好まれるよーな、『美少女受難』の物語…と見るのもアリかも知れぬ。ひじょうにリッパな≪フェティッシュ≫であり、無垢と挑撥、純潔と≪享楽≫、等々らを同時にイミしまくるところの≪赤ずきん≫とゆうアイテムの創案がその≪凄惨美≫とやらを大いに盛り上げてるワケで。
一方、ペローに先立った『野生版』には、その後もこの説話パターンに継承される性的なニュアンスはじゅうぶんすでにあるが、しかしそーゆうイミでの≪美≫はない。だぃたぃペロー童話集の特徴として全般に、森の中のオハナシでも『土クサさ』なンてモノはなくて、まるでロココ美術かのよーにひたすら≪優美≫が実現されている。その罪なきヒロインの気の毒すぎる運命にはカンケイなく、ペロー作「赤ずきん」は何ンせまず優美な作品である…とは知らねばならない。
そして、『無垢なる(美しき)ヒロインの、モロモロの受難』…とゆうオハナシには明らかに、ウケる要素がある。イヤむしろ、イヤになるホドありすぎる。
われらの課題たる押井作品群だと、今作こと「人狼」をはじめ「イノセンス」にもソレが大フィーチャーされており(…何ンせ、題名がいきなり「イノセンス」=“無垢”、とキて)。また、「天使のたまご」もその系列に入りそう。いまはあんまし追わないが、『無垢であること』を≪挑撥≫かのよーに受けとる感性もある、とゆう事実は憶えとくべきではある。
かつまた、ただいまお伝えした『野生の“赤ずきん”』のストーリーを見て、『そーだとすると、押井とゆうより宮崎(駿)テキなオハナシかもなァ』…と感じたお方が、おられないとも限らぬ。と申す筆者は、つぃ先日「もののけ姫」を初めて見て(…イヤだなァ、世紀をまたいじゃッての初見?)、『このおセンセのお作品のフェミニストぶったポーズには、超まったくウンザリだッ』…と感じたばかりだがッ。
とまでを見てから、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」なる作品と「赤ずきん」、とゆうハナシに戻れば…ッ!?
まずその作中の「赤ずきん」の話型の出ドコが、チと分からない。作中に映される絵本の表紙にはドイツ語の題名が書かれてるが、グリム童話とはまったくオハナシが異なる。だぃたぃ最初から「人狼 JIN-ROH」における「赤ずきん」のオハナシは、フツー祖母とある人物が生き別れの実母になってるトコがミョーだ。広く『メルヒェン』のイントロとしてみれば、どっかにありそーなモノではありつつも。
けれどオハナシの中盤は、われわれが見てキた『野生の“赤ずきん”』とほぼ同様に運ぶ。ところがケツ末までイクと、ペロー版と同然の大バッドエンドになってるよーだ。ソコがハッキリとは語られてない感じだが、映画のケツ末がソレを示唆してる。
で、そーとするとッ? その中盤の、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ!』とゆうエピソードが『野生版』にてのイミを失い、単なる猟奇趣味になり下がッてしまぃ気味では? てゆうかもっとハッキリゆえば、娯楽としての『猟奇趣味』に応じるだけのモンにもなってねェ、とゆう気がいたすがッ?
だぃたぃ筆者は今作こと「人狼 JIN-ROH」に出てクるオトコらが、『オレらはヒトならぬ狼だから!』ナドとありえぬコトを真顔で言い張ってンのが、実にコッケイにしか見えない。『コッケイに見える』と申したその表現が、実はずいぶんエンリョしたモノだ…ともまた言い添えて。
で、ソイツらの『狼として生きるゾ!』とゆう宣言がいちおうカッコよさそーにも聞こえるのだが、しかし実はソレが、≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からの逃避でしかないのでは? そーして「赤ずきん」とゆうオハナシが出てる文脈で『オレらは狼だ』と宣言すれば、ソレはレイプ魔ではべる…とゆう宣言とゼンゼン等価だ。で、この「人狼 JIN-ROH」とゆう作品が実質テキにレイプ賛美とゆう性格を持つコトもまた、ヒジョーに明らかなコトとして。
とまでを見てしまえば、筆者がつぃつぃ『この野郎!』ナドと見た「もののけ姫」が、少なくともいくつかの正しいコトを描いてやがる…とも知れる。その作中、森の山犬らに育てられてニンゲンを敵視するヒロインは、『あたしはニンゲンじゃない!』的なコトを言い張るが、しかしヒーローは何ンのためらいもナシにソレを打消して、『イヤ、キミはニンゲンだ。』と彼女に宣告する。
≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からは、“誰”も逃れえないとゆうコトだ。…そのツトメを果たしおおすコトがデキるかは別として、何ンせソレを引き受けなければならないのだ。ソレを拒んで自分が山犬だとか狼だとか言い張ってやがっては、ただ単によくゆう≪畜生道≫に堕ちてるコトでもありつつ。かつまた、ニンゲン以外でありえぬものとして真に『生きる』…とゆうコトを拒もうとゆうジェスチャーでも、ソレはあるだろう。
ゆえに「もののけ姫」なる作品のキャッチフレーズは、“誰も”が知るよーに『生きろ。』であってまったくマチガイないッ! 「もののけ姫」のヒーローはスカしたイヤなヤツだとオレは見たが、その≪言≫の正しさもまた見とかねばならないッ!
とゆったトコらを見れば、≪「もののけ姫」-と-「人狼」≫との2コが、一方が他方へのまっこうアンチテーゼであるところのペア作品…かのよーにも見れてクる。別に“誰も”がおっしゃるよーな『押井守 vs 宮崎駿』の対立軸ごときをいまさら申したくもないが、しかしそンな気がしちゃッたのでしょーがない。
そーしてそのネガティブなつながりを仮構した上でゆうなら、「もののけ姫」のヒーローが逆に赤い頭巾を愛用してるコトまでが、イミあるかのよーにも見えてクる。無法で無頼の山犬だか狼だかを自称するヒロインに対してヒーローが逆に、無垢なる≪赤ずきん≫とゆう役廻りを演じながら(喰い殺されるやも…とゆうリスクをかえりみず!)近づくのだ。
(…ただし「もののけ姫」では敵味方、かなり多くのジンブツらが赤いモノをカブッて活躍するので、あましその記号性は言い張らない)。
とゆうトコでこの堕文はオシマイで、「人狼 JIN-ROH」のハナシはまたいつかに続く。と、このよーにトートツ気味な≪切断≫がヘーキでヤレるのは、『押井守作品』とゆうわれわれの題材のもたらすオイシぃトコだ。もしも≪批評≫なンてモノがこの世にあるとしたら、ソレが題材に似てるコトが罪であるワケがない。
ツボの中ミは何ンじゃろなッ!? - スカイ・クロラ (1)
『前セツ』に続いての1パツめの記事がコレだが、ネタがどーして「スカイ・クロラ」なのか? もっと古く、「うる星やつら オンリー・ユー」の頃から(ボツボツとだが)見てンだから、そっから始めてもよくはないか?
しかし1パツめが、「スカイ・クロラ」である理由。ソレはいちばんさいきんに見たさいきんの押井作品だから…とゆうカンタンなコトでもありつつ、そして『ソレを見た』からこそ、こんなコトをオレがヤッておりまする…とゆう、≪この場に対しての起源≫だから。とゆうワケで。
で。ただいまのこの項目で筆者は、まったくカンタンなコトしか申すツモリがない。この「スカイ・クロラ」とゆう作品を見ての印象の1コとして、エロスっぽぃコトがややストレートに描写されてるコトが、押井作品としては珍しい。…珍しいンじゃないだろーか? オレのかってにいだいてる『押井作品』のイメージに対しては、大いに珍しぃンだが…ッ!
具体的にゆって「スカイ・クロラ」には、そのヒーローが≪性交≫をするらしき場面が2回ある。1度めは娼家を訪れたとき、2度めはカレが、女性の上司である≪水素≫に連れられて会社の保養所(?)へ行ったときだ。
そして、面白いコトに…。ドッチの場面にても、コトの前後にその場の装飾品の中華チックな壷が、ワザとらしく映る。
さらに具体テキに申せば。1度めにては、ヒーローが娼婦の部屋に入ったかと想ったらシーンの≪切断≫が生じ、そして次のカットで、うす暗がりの中のピンク色の壷が、ドカン!と大写しになる。音はしないが、この≪切断≫のトートツ感はかなり『ドカン!』的なモンがある。やがてカメラが引くと、ベッドの上の≪女-男≫はコトの後のようすだ。そーして部屋の全景を見ると、壷はベッドの両脇に同じモノが1コずつ飾られているのだった。にしても、桜のもようの“ピンク色の壷”、しかも中華風…とゆうのが、ズイブンと珍しいブツを見せられた感じだがッ!?
そして2度めにては、水素に連れられて初めて訪れた≪ゲストルーム≫とやらにて、ヒーローが部屋の様子を見ると、サイドボードの上とゆうのかそんなトコに、たくさんの絵皿などをはさんで、また中華風の壷が両サイドにドン!と1コずつ飾られている。ただしこんどのはよく見るよーな青磁の壷で、さきのヤツに比べたら出し方もさりげない。ではあるが、さきのに続いてこのショットを見たら、『ああ、この≪女-男≫はコレからココでコトに及ぶンだな』と、気づかなければウソだろう。
かくてどーゆうワケなのか、「スカイ・クロラ」とゆう映画の中で≪壷≫は、≪性交≫にともなうシグナル(信号)ではある。そのつど使い捨ての『映画の文法』として、そのよーに使われている(…『映画の文法』なるモノは、キホン的には使い捨てでなければなるまい)。かつシグナルであるばかりか、≪何か≫をさし示すシニフィアン(記号)でもあろう。
で、『ソコを分からねば困る』…とゆうコトがゼンゼンないにしても。しかし≪壷-と-性交≫とゆう喰い合わせにおける違和感のアンマリななさが、筆者を笑わせるのだ。ココを筆者は、アッパレな≪下ネタギャグ≫かと受けとってるワケだ。ゆうまでもなくわれらのカントク=押井守サマは、さいしょまず≪ギャグ≫の名手としてギョーカイをのし上がってキたお方でありつつ。
あんましゆってっと、イヤらしくなるが…イヤ、すでに十分だが…。しかしも少しゆえば、多少ハデっぽぃ娼婦はピンクの壷、イロケのまったくない水素は紺の壷…とゆう表現の異なり方は、ヒョッとしたら“誰か”にとっての≪ツボ≫なのやも知れぬ。かつまた、娼婦の胸もとの≪フクロウ≫のタトゥーにも何ンらかの≪イミ≫があると見るべきで。
ソレはフツーに『知恵』…ソレも、『後知恵』の象徴なのだろーけれど。『ミネルヴァのふくろうは日暮れて飛び立つ』とゆわれるよーに、≪夜の女≫はケッテー的なコトの後に役立ちもせぬ『いいコト』を言うのかと想ったが。しかしそのよーな場面が実作になかったよーなのは、ややザンネンなコトだった。…とまでをゆって、「スカイ・クロラ」のハナシはまた続くだろう。
しかし1パツめが、「スカイ・クロラ」である理由。ソレはいちばんさいきんに見たさいきんの押井作品だから…とゆうカンタンなコトでもありつつ、そして『ソレを見た』からこそ、こんなコトをオレがヤッておりまする…とゆう、≪この場に対しての起源≫だから。とゆうワケで。
で。ただいまのこの項目で筆者は、まったくカンタンなコトしか申すツモリがない。この「スカイ・クロラ」とゆう作品を見ての印象の1コとして、エロスっぽぃコトがややストレートに描写されてるコトが、押井作品としては珍しい。…珍しいンじゃないだろーか? オレのかってにいだいてる『押井作品』のイメージに対しては、大いに珍しぃンだが…ッ!
具体的にゆって「スカイ・クロラ」には、そのヒーローが≪性交≫をするらしき場面が2回ある。1度めは娼家を訪れたとき、2度めはカレが、女性の上司である≪水素≫に連れられて会社の保養所(?)へ行ったときだ。
そして、面白いコトに…。ドッチの場面にても、コトの前後にその場の装飾品の中華チックな壷が、ワザとらしく映る。
さらに具体テキに申せば。1度めにては、ヒーローが娼婦の部屋に入ったかと想ったらシーンの≪切断≫が生じ、そして次のカットで、うす暗がりの中のピンク色の壷が、ドカン!と大写しになる。音はしないが、この≪切断≫のトートツ感はかなり『ドカン!』的なモンがある。やがてカメラが引くと、ベッドの上の≪女-男≫はコトの後のようすだ。そーして部屋の全景を見ると、壷はベッドの両脇に同じモノが1コずつ飾られているのだった。にしても、桜のもようの“ピンク色の壷”、しかも中華風…とゆうのが、ズイブンと珍しいブツを見せられた感じだがッ!?
そして2度めにては、水素に連れられて初めて訪れた≪ゲストルーム≫とやらにて、ヒーローが部屋の様子を見ると、サイドボードの上とゆうのかそんなトコに、たくさんの絵皿などをはさんで、また中華風の壷が両サイドにドン!と1コずつ飾られている。ただしこんどのはよく見るよーな青磁の壷で、さきのヤツに比べたら出し方もさりげない。ではあるが、さきのに続いてこのショットを見たら、『ああ、この≪女-男≫はコレからココでコトに及ぶンだな』と、気づかなければウソだろう。
かくてどーゆうワケなのか、「スカイ・クロラ」とゆう映画の中で≪壷≫は、≪性交≫にともなうシグナル(信号)ではある。そのつど使い捨ての『映画の文法』として、そのよーに使われている(…『映画の文法』なるモノは、キホン的には使い捨てでなければなるまい)。かつシグナルであるばかりか、≪何か≫をさし示すシニフィアン(記号)でもあろう。
で、『ソコを分からねば困る』…とゆうコトがゼンゼンないにしても。しかし≪壷-と-性交≫とゆう喰い合わせにおける違和感のアンマリななさが、筆者を笑わせるのだ。ココを筆者は、アッパレな≪下ネタギャグ≫かと受けとってるワケだ。ゆうまでもなくわれらのカントク=押井守サマは、さいしょまず≪ギャグ≫の名手としてギョーカイをのし上がってキたお方でありつつ。
あんましゆってっと、イヤらしくなるが…イヤ、すでに十分だが…。しかしも少しゆえば、多少ハデっぽぃ娼婦はピンクの壷、イロケのまったくない水素は紺の壷…とゆう表現の異なり方は、ヒョッとしたら“誰か”にとっての≪ツボ≫なのやも知れぬ。かつまた、娼婦の胸もとの≪フクロウ≫のタトゥーにも何ンらかの≪イミ≫があると見るべきで。
ソレはフツーに『知恵』…ソレも、『後知恵』の象徴なのだろーけれど。『ミネルヴァのふくろうは日暮れて飛び立つ』とゆわれるよーに、≪夜の女≫はケッテー的なコトの後に役立ちもせぬ『いいコト』を言うのかと想ったが。しかしそのよーな場面が実作になかったよーなのは、ややザンネンなコトだった。…とまでをゆって、「スカイ・クロラ」のハナシはまた続くだろう。
前セツ: 終わらせるために?
『コトを終わらせるタメには、何ンせまずソレを始めなければならない』。とゆう説を、押井作品のアチコチで聞くよーな気がするので。少なくとも、「トーキング・ヘッド」の作中のカントクがゆってたので…。
ゆえに筆者がコレを始めることもまた、≪何か≫を終わらせるタメでない、とも限らない。
さてココは、皆さまご存じ押井守カントクのお作らのファンブログとしてヤッてこーかと想ってンのだが。しかしいきなりスマンことを申し上げると、実は筆者が大した押井ファンでない。マニアじゃない。どころか、ほとんど知らンと言いたいくらぃでもあるホドだが…。
そーとはゆっても、「うる星やつら」で押井カントクがブレイクされた時にちょーど見てたので…。オレが当時のありきたりなアニメっ仔だったので、かれこれ30年近くのおつき合いではあるワケだ。なンて、オレの事情はともかくも。
ココで再び「トーキング・ヘッド」からコトバを借りれば、いまからわれわれは、『ルールを作りながら』遊ぶ。…または『遊んでからルールを考える』とゆうのもテではあろーケド、チョッといま自分側を律するルールを考えた。
【1】 大上段なコトはヤろーとせず、『断章の集積』で大いにヨシとする。
………そーじゃないと進まないと想うし、かつまたそんなヤリ方こそ『押井的』って感じなのでは?
【2】 いわゆる『精神ヴンセキ的な解釈』は、アリとする。
………なンつてと、原則的にはソレがナシみてーだがッ!
【3】 作家らのおしゃべりは、キホン的には聞かない。
………ナゼならば作家らは、その作品らの≪意味≫を知らない。むしろイミを知らンからこそ、≪創作≫なンてヤバンなコトがデキる。現に、さきから名が出てる「トーキング・ヘッド」は、『映画論としての映画実践』ではあるワケだが、しかしその作品のイミを語ってるトコが何もない。だがソレでよく、『作品のイミ』を見出すのはわれわれ受け手側の専権事項に他ならぬ。
とまァ3つを並べてみたけれど、しかしこーゆうのを『ルール』とは言わねーな! 単に自分のヤリたぃコトをカィた、ソレのみでしたな! ま、その他のルールは追い追い『遊びながら』考えるコトとして…。
すでにこの前セツが十分に長すぎてイヤなので、始めましょーか。≪何か≫、を、終わらせるコトがデキるのかどーか…を、確かめようとして!
ゆえに筆者がコレを始めることもまた、≪何か≫を終わらせるタメでない、とも限らない。
さてココは、皆さまご存じ押井守カントクのお作らのファンブログとしてヤッてこーかと想ってンのだが。しかしいきなりスマンことを申し上げると、実は筆者が大した押井ファンでない。マニアじゃない。どころか、ほとんど知らンと言いたいくらぃでもあるホドだが…。
そーとはゆっても、「うる星やつら」で押井カントクがブレイクされた時にちょーど見てたので…。オレが当時のありきたりなアニメっ仔だったので、かれこれ30年近くのおつき合いではあるワケだ。なンて、オレの事情はともかくも。
ココで再び「トーキング・ヘッド」からコトバを借りれば、いまからわれわれは、『ルールを作りながら』遊ぶ。…または『遊んでからルールを考える』とゆうのもテではあろーケド、チョッといま自分側を律するルールを考えた。
【1】 大上段なコトはヤろーとせず、『断章の集積』で大いにヨシとする。
………そーじゃないと進まないと想うし、かつまたそんなヤリ方こそ『押井的』って感じなのでは?
【2】 いわゆる『精神ヴンセキ的な解釈』は、アリとする。
………なンつてと、原則的にはソレがナシみてーだがッ!
【3】 作家らのおしゃべりは、キホン的には聞かない。
………ナゼならば作家らは、その作品らの≪意味≫を知らない。むしろイミを知らンからこそ、≪創作≫なンてヤバンなコトがデキる。現に、さきから名が出てる「トーキング・ヘッド」は、『映画論としての映画実践』ではあるワケだが、しかしその作品のイミを語ってるトコが何もない。だがソレでよく、『作品のイミ』を見出すのはわれわれ受け手側の専権事項に他ならぬ。
とまァ3つを並べてみたけれど、しかしこーゆうのを『ルール』とは言わねーな! 単に自分のヤリたぃコトをカィた、ソレのみでしたな! ま、その他のルールは追い追い『遊びながら』考えるコトとして…。
すでにこの前セツが十分に長すぎてイヤなので、始めましょーか。≪何か≫、を、終わらせるコトがデキるのかどーか…を、確かめようとして!
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