"Infrared Riding Hood"(赤外ずきんチャン)とは、T.A.D.とゆう1990'sのロックバンドのアルバム名だが。…もち聞いたコトはあるンだがしかし、『マズくもないけど、まぁモロにニルヴァーナもどきの“オルタナ”サウンドでやンすなァ…』とゆうヒドぃ感想しかない。またチャンと検討すれば、もチョッとマシなモノとして言えそーにも想いつつ。
で、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」とゆう映画に対しての感想もまた、そのレベル…とは言わンのだが! いまこの堕文には、そもそも今作が属する「ケルベロス・サーガ」てモンをどー見るか?…なンてコトを離れて、ただ1コのコトをカィておく。
すなーち。誰がどー見ても今作「人狼 JIN-ROH」の重要そーなモチーフとして、“誰も”がよく知る「赤ずきん」のメルヒェンはある。ところが作中で紹介される「赤ずきん」のオハナシの展開が、ミョーに耳なれないモノだ…とゆう感じをいだかれた方々がおられるのでは? ソコで語られるオハナシには、狼にダマされた赤ずきんチャンが自分の母の肉を喰いその血を呑む…なンてショッキングなシーンがあるが、『ソレはそーゆうストーリーだ』と想ってた方々が、どれだけおられるや?
さてタマタマだが、筆者は一時期『メルヒェンの研究』とゆうカイもなさそーなヒマごとに熱中してたので、多少はこのテの話題に明るいやも知れない。まず「赤ずきん」のオハナシのベースはもともとフランスから出たモノで、ソレをシャルル・ペローがかの超メイ著「過ぎし昔の物語」(1697, いわゆるペロー童話集)にカィたさいに、≪赤ずきん≫とゆうアイテムが初めてヒロインにそうびされたのだとゆう。
単なるアイテムとゆうよりか、あえてゆうならソコにて≪フェティッシュ≫がそうびされたのだ。ともあれ、ペロー以前の『野生の“赤ずきんチャン”たち』は、そンなハデなモノは身にツケてなかったらしぃ(!)。で、ソコでそのオハナシのヒロインに≪赤ずきん≫とゆうそうびがツィたコトに、イミがないワケは決してない。だが、ソレは後述するとして…。
その後にグリム兄弟が「子どもと家庭のメルヒェン集」(いわゆるグリム童話集, KHM)にカィた「赤ずきん」のオハナシは、ペローの創作が再び口承化されたモノが採取されたモノかのよーに言われる。で、ココはご存じの方も多いだろーが、ヒロインらが狩人によって救われてハッピーエンド…とゆうおなじみのケツ末は、バッドエンドのペロー版にはなかったモノだ。
またこのグリム童話集とゆうのが、1812年の初版から1857年の第7版までに、イロイロとカキ換えられてるモノで。いまはその詳細を調べよーかとゆう善意もないが、しかしグリム童話集の改版ごとのカキ換えの方向性は、ヒジョーにハッキリと一貫してる。ソレは主として、『1.女性蔑視、2.性(的)表現の抑圧、3.暴力描写のエスカレート』、とゆう三拍子だ。『グリム童話が、実は超コワぃ』とゆう説(?)を聞くコトがあるが、改版ごとにコワくなってるとゆう事実もまたある。
がしかし、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ』…なンてショッキングなエピソードは、ペローとグリムの両メジャー版にはない。ではありつつ、筆者が何ンかの研究書で読んだ『ペロー以前の、野生の“赤ずきんチャン”』には、ソレがある。
ソレはだぃたぃ、こーゆうオハナシだったかと記憶してる。前半部を超かいつまんで、映画の中で語られるよーにヒロインは狼にダマされ、“祖母”の肉を喰いその血を呑む。すると森のどうぶつたちが、『おやまぁこの子は、祖母の肉を食い血を呑んだよ!』と言う。
だがその後がズイブン違ってて、ナゼだかソレからミョーにアタマがサエてキたヒロインは、狼の目論見を見破る。ただしカンタンには逃げられないと見て、『おしっこしに行く』とウソを言い、ベッドを抜け出して小屋を出る。
そのさいに狼の側も『ダマしてンのかも?』とは疑って、確かヒロインのカラダに縄をツケるのだが。しかし女の子はソコでまたチエを使い、その縄を家畜の脚に縛り直すかナニかして(ココらは死ぬホドのウロ憶え)、ともかくも自分だけは生還に成功するのだった。
とは、どーゆうオハナシかと見るべきか? われらが『野生の“赤ずきん”』のストーリーにおいてはむしろ、ヒロインが祖母の肉を喰いその血を呑む…とゆうトコにオハナシの一大ポイントがある。彼女がソコから急にチエが廻り始めるのは、その行為を介して祖母の蓄えてた≪知恵≫が、彼女に伝わったのだ…と考えられる。
だぃたぃこのオハナシの登場ジンブツは、少女たるヒロインとその母および祖母…とゆう3世代の女性らと、ソレに敵対するモノとしての≪狼≫だけ…。とゆうワケでオハナシの骨子は、『世代をわたる女性らの、生きるタメの抵抗』と見れるのでは?
で、オハナシの帰結として、老いて肉体の弱った祖母は狼に喰い殺されてしまうが、しかし祖母のチエを受け継いだ孫娘は生き残り、そしてまた生命の再生産に向かう。彼女らはけっして≪狼≫には勝てないが、しかし生き残るタメに、チエを用いて抵抗し続けるのだ。
しかもその『女性から女性への、世代をわたるチエの伝達』とゆう作中の実践が、『炉辺の女性たちの物語り』とゆうその伝承の形式とイコールであるコト(!)。その、アンマリな美しさをも見ておこう。
とゆうこの『野生の“赤ずきん”』のストーリーが、まずあったとしてだ。追ってソレを、まずはペローが『お嬢さま方、≪狼≫テキな男子にご用心!』とゆう教訓バナシにカキ換えやがり。さらにグリム兄弟はハジ知らずにも、ソレを勧善懲悪ストーリーにカキ換えたのだ。ペローもグリムもトーゼン超偉大な≪メルヒェナー≫だが、何ンかこのポイントを考えるとイヤな感じがしなくはない。
なお、ハナシの本題をハズれるが。ペロー版「赤ずきん」は確かに表面上は教訓バナシだケド、しかしソレを一種の≪凄惨美≫の表現かのよーにウケとってみるのも一興やも知れぬ。ワリといまでも広く好まれるよーな、『美少女受難』の物語…と見るのもアリかも知れぬ。ひじょうにリッパな≪フェティッシュ≫であり、無垢と挑撥、純潔と≪享楽≫、等々らを同時にイミしまくるところの≪赤ずきん≫とゆうアイテムの創案がその≪凄惨美≫とやらを大いに盛り上げてるワケで。
一方、ペローに先立った『野生版』には、その後もこの説話パターンに継承される性的なニュアンスはじゅうぶんすでにあるが、しかしそーゆうイミでの≪美≫はない。だぃたぃペロー童話集の特徴として全般に、森の中のオハナシでも『土クサさ』なンてモノはなくて、まるでロココ美術かのよーにひたすら≪優美≫が実現されている。その罪なきヒロインの気の毒すぎる運命にはカンケイなく、ペロー作「赤ずきん」は何ンせまず優美な作品である…とは知らねばならない。
そして、『無垢なる(美しき)ヒロインの、モロモロの受難』…とゆうオハナシには明らかに、ウケる要素がある。イヤむしろ、イヤになるホドありすぎる。
われらの課題たる押井作品群だと、今作こと「人狼」をはじめ「イノセンス」にもソレが大フィーチャーされており(…何ンせ、題名がいきなり「イノセンス」=“無垢”、とキて)。また、「天使のたまご」もその系列に入りそう。いまはあんまし追わないが、『無垢であること』を≪挑撥≫かのよーに受けとる感性もある、とゆう事実は憶えとくべきではある。
かつまた、ただいまお伝えした『野生の“赤ずきん”』のストーリーを見て、『そーだとすると、押井とゆうより宮崎(駿)テキなオハナシかもなァ』…と感じたお方が、おられないとも限らぬ。と申す筆者は、つぃ先日「もののけ姫」を初めて見て(…イヤだなァ、世紀をまたいじゃッての初見?)、『このおセンセのお作品のフェミニストぶったポーズには、超まったくウンザリだッ』…と感じたばかりだがッ。
とまでを見てから、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」なる作品と「赤ずきん」、とゆうハナシに戻れば…ッ!?
まずその作中の「赤ずきん」の話型の出ドコが、チと分からない。作中に映される絵本の表紙にはドイツ語の題名が書かれてるが、グリム童話とはまったくオハナシが異なる。だぃたぃ最初から「人狼 JIN-ROH」における「赤ずきん」のオハナシは、フツー祖母とある人物が生き別れの実母になってるトコがミョーだ。広く『メルヒェン』のイントロとしてみれば、どっかにありそーなモノではありつつも。
けれどオハナシの中盤は、われわれが見てキた『野生の“赤ずきん”』とほぼ同様に運ぶ。ところがケツ末までイクと、ペロー版と同然の大バッドエンドになってるよーだ。ソコがハッキリとは語られてない感じだが、映画のケツ末がソレを示唆してる。
で、そーとするとッ? その中盤の、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ!』とゆうエピソードが『野生版』にてのイミを失い、単なる猟奇趣味になり下がッてしまぃ気味では? てゆうかもっとハッキリゆえば、娯楽としての『猟奇趣味』に応じるだけのモンにもなってねェ、とゆう気がいたすがッ?
だぃたぃ筆者は今作こと「人狼 JIN-ROH」に出てクるオトコらが、『オレらはヒトならぬ狼だから!』ナドとありえぬコトを真顔で言い張ってンのが、実にコッケイにしか見えない。『コッケイに見える』と申したその表現が、実はずいぶんエンリョしたモノだ…ともまた言い添えて。
で、ソイツらの『狼として生きるゾ!』とゆう宣言がいちおうカッコよさそーにも聞こえるのだが、しかし実はソレが、≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からの逃避でしかないのでは? そーして「赤ずきん」とゆうオハナシが出てる文脈で『オレらは狼だ』と宣言すれば、ソレはレイプ魔ではべる…とゆう宣言とゼンゼン等価だ。で、この「人狼 JIN-ROH」とゆう作品が実質テキにレイプ賛美とゆう性格を持つコトもまた、ヒジョーに明らかなコトとして。
とまでを見てしまえば、筆者がつぃつぃ『この野郎!』ナドと見た「もののけ姫」が、少なくともいくつかの正しいコトを描いてやがる…とも知れる。その作中、森の山犬らに育てられてニンゲンを敵視するヒロインは、『あたしはニンゲンじゃない!』的なコトを言い張るが、しかしヒーローは何ンのためらいもナシにソレを打消して、『イヤ、キミはニンゲンだ。』と彼女に宣告する。
≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からは、“誰”も逃れえないとゆうコトだ。…そのツトメを果たしおおすコトがデキるかは別として、何ンせソレを引き受けなければならないのだ。ソレを拒んで自分が山犬だとか狼だとか言い張ってやがっては、ただ単によくゆう≪畜生道≫に堕ちてるコトでもありつつ。かつまた、ニンゲン以外でありえぬものとして真に『生きる』…とゆうコトを拒もうとゆうジェスチャーでも、ソレはあるだろう。
ゆえに「もののけ姫」なる作品のキャッチフレーズは、“誰も”が知るよーに『生きろ。』であってまったくマチガイないッ! 「もののけ姫」のヒーローはスカしたイヤなヤツだとオレは見たが、その≪言≫の正しさもまた見とかねばならないッ!
とゆったトコらを見れば、≪「もののけ姫」-と-「人狼」≫との2コが、一方が他方へのまっこうアンチテーゼであるところのペア作品…かのよーにも見れてクる。別に“誰も”がおっしゃるよーな『押井守 vs 宮崎駿』の対立軸ごときをいまさら申したくもないが、しかしそンな気がしちゃッたのでしょーがない。
そーしてそのネガティブなつながりを仮構した上でゆうなら、「もののけ姫」のヒーローが逆に赤い頭巾を愛用してるコトまでが、イミあるかのよーにも見えてクる。無法で無頼の山犬だか狼だかを自称するヒロインに対してヒーローが逆に、無垢なる≪赤ずきん≫とゆう役廻りを演じながら(喰い殺されるやも…とゆうリスクをかえりみず!)近づくのだ。
(…ただし「もののけ姫」では敵味方、かなり多くのジンブツらが赤いモノをカブッて活躍するので、あましその記号性は言い張らない)。
とゆうトコでこの堕文はオシマイで、「人狼 JIN-ROH」のハナシはまたいつかに続く。と、このよーにトートツ気味な≪切断≫がヘーキでヤレるのは、『押井守作品』とゆうわれわれの題材のもたらすオイシぃトコだ。もしも≪批評≫なンてモノがこの世にあるとしたら、ソレが題材に似てるコトが罪であるワケがない。
2009/09/15
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