2009/09/29

わたしは人形になりたくない - イノセンス(3)

そんなコトをしなきゃならない理由が、特にないが。けれどタマタマ機会があって、われらが押井守カントクの作品「イノセンス」の原作まんが(士郎正宗「攻殻機動隊」第1巻, 『Robot Rondo』の巻)に目を通した。以下、ソコから感じたコトをなるべく手短に。

あまり熟読もしてないが、当該の本をザッと眺めての印象をまず。筆者が大学生だったころ…とゆうのもズイブンとムカシなンだけど(汗)、ガッコの漫研の機関誌とゆうのを見ると、まんがではなく設定画だけを載せてるヒトがいてビックリしたモンだ。『コイツは、ナニを考えてやがンだッ!』と。
筆者のよーなトーシローから見ると、『まんが』とはヒト(登場人物)が動きオハナシが動くモンだが、しかしそーゆうトコからは入らないヒトもいる。で、ヒトを動かしオハナシを動かす前に設定画ばっかしを念入りにカィてて、まんが家になるどころか1本のまんが作品を完成するコトさえもデキんかったとゆう連中は、そーとーにいた(いる)と見るベキだろう。
そしてわれらが見てる士郎正宗センセは、そのよーなヤカラの中から立ち上がって、ともかくも『まんが作品』ぽぃモノを世に提出されている…とゆうお方に見えるのだッた。だからその作品の中では、ヒトが動かずオハナシが動かない。ハッキリ申せば、設定画に毛が生えたばかりのモンが見かけ上の『作品』になってるノミ…とゆう気がするが。

よって。「イノセンス」ではなく「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」につぃて、『何ンとゆう中ミのない、ドラマのない作品だろう! いわばモードだけ、風景だけ、ファッションだけの映画じゃねーかッ!』…とゆう感じ方をするのはワリとフツーだと想うが、ソレのそのよーな特徴は別にアニメ版のスタッフが作ったモノではない…とまでは、ココにて知れる。
(かつ、モードだけ・風景だけ・ファッションだけの映画ごときはよろしくない…ともまた、いちがいには言い切れぬ。もし仮に『やたら長いプロモビデオ』のよーな作品でしかなかったとしても、しかし≪誰か≫がソレを愉しンでンだったら大いにアリでは…とまでは想う。どーであれ、駄作・凡作の発生は世の必然なので、いちーち『駄作はケシカラン』とゆっても始まらない)

とゆうトコで想い出すと、確か5年くらぃ前、筆者はわれらが押井守・原作のまんが作品「犬狼伝説」についてチョッと堕文をカィたコトがあり。その中で『上手いけど面白くないまんが』の描き手の双璧として、「犬狼」の作画担当・藤原カムイセンセと、コチラの士郎正宗センセを並べたのだッた。
で、その東西の両ヨコヅナがともに、われらの押井守カントクと浅くもないご縁を持ってるとはまた、どーゆうワケなのだろーかッ?

さらにその士郎正宗センセのお作につぃて、あるイミでリッパに正統テキなる『メカ-と-美少女』の喰い合わせ、コンベンショナルでオーセンティックなおたく美学のアッパレな貫徹…とかゆうシテキもデキよーけど、まぁソレはよい。筆者が述べたいのは、われらが見てる押井守作品「イノセンス」と、その原作との異同について、1つ。
で、以後またネタばらしのよーなハナシになるので、皆さまにはごチューイをお願いしつつ。

押井作品「イノセンス」とその原作との間の異同は、イロイロとある。が、筆者がカンジンだと見るのは1コのポイントだけだ。
われわれは「イノセンス」にかかわる前回の堕文にて、その作品のヒーローが、命カラガラ救出された気の毒な少女に向かって、想わずビックリするよーなコトをゆうのを見た。いわく、『魂を吹き込まれた人形がどうなるかは、考えなかったのか?』
で、原作の方はってと、オハナシの骨子はだぃたぃ同じで――『同じ』、と言い切ってもヤバンだが――。しかし相当する場面でヒーローは、『被害者が 出るとは 考えなかった のか?』、とまずゆって、次に暴走したロボットによる『被害』の数々を伝えて少女(ら)を責める。確かにその『被害』をこーむった者らの多くはソレに値するホドの大悪人でもなく、ただ巻き込まれたばかりでもあろーけど。

すると。われわれのよーな凡人から見たら気の毒きわまる少女に向けて、その『ヒーロー』が心なさもきわまったコトをぬかしやがる…とゆう点は両作で同じだが。
けれど押井作品においては、その言表の非ジョーシキさがひと廻りランクアップしてる。われらが見てる「イノセンス」のヒーローは、わざーざ原作のセリフを打ち消して『人間の(こーむった被害の)コトじゃねェ』とゆった上で、そしてさきに見たメイ文句を繰り出すのだった。

とまでを見て筆者は、この散漫さもきわまり気味なオハナシに対し、逆にチョッと感心するよーなトコが生じてクるのだった。ダマって見てれば、ロリコンのおじさまたちはロリコンとしての≪欲望≫を追求し、悪徳企業は手段を選ばず利益を追求し、少女たちはひたすらに自らへの救けを求め、そしてケーサツのヒトらはただ単に職ムを執行してるばかり。かくてこの方々には、それぞれに触れ合ってるトコが、まったくない
この物語はケーサツの動きを追うとゆうモノではありつつ、しかし「はぐれ刑事何ンとか系」みてーのとはまったく異なり、何ンらかの『理解』や『共感』で終わる…とゆうのがまったくないワケだ。ソコが逆に、≪存在する事実≫とゆうイミでの『正しいこと』を描いてるのかなァ…とゆう気もしてクるのだった。
(映画としての「イノセンス」を、そのシリーズ前作「攻殻機動隊」よりは印象深いモノにしてンのは、その『ともかくも事実を描いてる』とゆうポイントなのやも知れぬ)

ただあるのは、原作では特に強調されてなくて「イノセンス」にツケ足された、『人形愛』とゆう奇妙な要素だが。ソレは、ヒトとヒトとの『理解』も『共感』もない…とゆうコトを前提として浮上してクる要素だと考えられる。われらが見てる「イノセンス」のヒーローにとっては、ニンゲンの苦しみよりも人形の苦しみの方が、まだしも『理解』したり『共感』したりデキそーなモノらしぃ。
『魂を吹き込まれた人形』こそを哀れだと考えてるらしきこのヒーローは、今シリーズ作にて『魂を吹き込まれた人形』として活躍するおなじみのヒロイン≪少佐≫の存在をグロテスクだとは想わず。逆にモンダイの大詰めシーンで『わたしは人形になりたくなかったんだもの!』と訴えるフツーの少女を、奇妙なモノとして眺めるのだ。
そして、もしも少佐をよしとするなら、この『フツーの少女』とやらの方が、よっぽどグロテスクな生き物である…とゆう見方は成り立つにチガイない。

ところでオリジナルの「ガンダム」シリーズ(初代・Z・ZZ・逆シャア)を見てて想ったンだが、ソッチの世界にも≪ニュータイプ≫とゆうキテレツな設定はありつつ、しかしサイボーグ技術とゆうモノがまったく登場しない。むしろ不自然なまでに(?)、ソレがない。ソレがまた、1つの考え方なのだろう。

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