2009/10/02

≪性的関係≫は存在しない Pt.1 - Zガンダム(3)

前のハナシの続き、「機動戦士Zガンダム」のTVシリーズを最終回まで見直したイキオイで、この堕文をひとまずの〆くくりにしよーとしつつ。
さてだがガンダムシリーズの続編や姉妹編らを語ろーとするコトは、逆にオリジナルの初代ガンダムがどーゆうシロモノであったか…をも語るコトになり気味なンではなかろーか? 筆者は「Z」の直前にその初代のTVシリーズをまた見てたンだが、1つ気づいたコトがある。

まず、初代ガンダムのストーリーの流れを、1.宇宙編(上)、2.地球編、3.宇宙編(下)、と、だいたい3つのパートに分けて考えるコトがデキそーだとして…(ご存じの劇場版『3部作』の構成と、ほぼ同様に)。
そして筆者が見て意外だと感じたのは、かの≪ニュータイプ≫とゆう話題がワリと大々的に出てクるのは、やっと第3パートになってから、とゆうコトに対してだ。自分のイメージの中の「ガンダム」シリーズだと、その≪ニュータイプ≫とゆう話題はもっともっと大きく全般テキに支配テキなモノだったのに!
(細かく申すと、第1と第2のパートでヒトビトは、アムロ君のコトを『何か特別だ』とか『エスパーかも知れない』とかゆっている。がしかし、『ニュータイプなのでは?』とハッキリは、言わない)

ソレを見た上で視点を大ロングにすれば、SFやファンタジーの世界で『とんでも設定』の利用は大いにアリだとしても、ソレをケツ末のトコで提示するよーな構成は上品ではなさげ。つまりフツーは、『もしも超能力があったら?』のよーな≪設定≫が早めに提示され、ソレを前提としてお芝居が展開される。
ソレがその逆に、フシギな事件が次々と起こった上でのケツ末で、『実は超能力によるシワザでした~』と、≪設定≫がさいごに提示されるよーなモノ…すなーち『とんでも設定=オハナシのケツ論』になってるよーな構成は、品格に欠けるンではなかろーか? そして作品のスケールの大きさに比例して、そのはしたなさはより目につくよーになる。ムカシのコトバで『ショート・ショート』とゆったよーな極小規模の作品だったなら、『設定=ケツ論』はモンダイだ、ナドとゆってるヒマもないし。

ところがだ、逆に初代ガンダムは、その≪ニュータイプ≫とゆう『とんでも設定』の提示をさいごの方にもってクることによって、大きな効果をあげている。フツーなら好まれないよーな『設定=ケツ論』とゆう構成が、ココにおいては大成功してる、と見れる。

とゆうのは…。初代ガンダムの実作を見ておれば、さいしょ『敵ジオン軍が追ってキやがるので、主人公らのホワイトベースは必死で逃げる』とゆう分かりやすさで始まったストーリーは、やがてホワイトベースが地球連邦軍に組み込まれ、わざーざ遠くからオデッサの決戦場に向かうよーなトコらで、その様相を変えている。
ソコいらで『追われるので抵抗しつつ逃げる』とゆうサスペンスの直接性が薄れてキて、やや引いた目で見ての戦争のヒサンさが描かれるよーになっている。さいしょ『自分は死にたくない!』とゆうキモチだけで≪戦闘≫をしてた作中ジンブツらはソコらで≪戦争≫を眺め、『なぜこのよーな、死の大量生産がなければならないのか?』…とゆうキモチをいだき始める。
で、そのパートをやや過ぎたあたりで、つぃに≪ニュータイプ≫とゆうとんでも設定がイキ始めるのだ。つまりそのよーな大戦争のヒサンさに、『人類がニュータイプへと覚醒するため』とゆう理由がツキ始めるのだ。

この堕文は『初代ガンダム論』ではないので、超ハショッて申すが。かくて≪ニュータイプ≫とはナニかとゆうと、その作中で人類が『宇宙世紀』とゆう時代に開けてしまったパンドラの箱…数々のヒサンすぎる悲惨がソコから飛び出てキた箱の、いちばん奥に見出された≪希望≫に他ならない。
ナドと筆者がカィてると、≪ニュータイプ≫ごときはゼンゼンそらぞらしぃ作りバナシかのよーだが。じっさいそーではあるのだが、しかし実作を見ておれば『そうだな。』とゆう気になりがちなのが、その作劇のスゴぃトコだ。何ンせ≪メシアニズム≫とゆうのは全般に、追い込まれたヒトらがさいごに喰ぃつくモノであり。そして初代ガンダムは、そのさいしょの2/3を使って見る者らを心理テキにぞんぶんに追い込んだ上で、さいごその『感動のラスト』に向けて≪ニュータイプ≫とゆうメシアニズムを提示してるのだ。

そして、『ヒトは、分かりあえる』とゆうニュータイプ主義の一大スローガンが、『ヒトビトが聞きたがってるコトバ』に他ならないとゆうコトもまた、いちおうは強調しとくべきだろう。アタリマエだが商業的にヒットするよーな作品らとは必ず、『ヒトビトが聞きたがってるコトバ』を提示するよーなシロモノではある。そしてニュータイプ主義の導くところにより、ナニがあっても『いずれは分かりあえる』ハズなので、目の前のアンマリなヒサンさごときは気にしなくともイイらしぃ。そーしてヒトはいつか、時間をも超越デキるらしぃ。
ただし賢明なる皆さまに対しては言うもさらなりだが、時間を超越デキないからこそヒトはヒトなのであって、ゆえにチッとは必死になって、≪現在≫を生きなければならない。

で、そンなよーなコトらを、初代ガンダムとゆう作品が提示してたとして。…やっと本題(!)、われらが見てる「Zガンダム」とゆう作品は、初代の提示した物語のケツ論(らしきもの)を、『否定してるが否定してない』、『否定してないが否定してる』、と、まったくありえざるアイマイなタイドで継承してるのだった。
コレはつまり、『設定=ケツ論』とゆう初代のアクロバット的な作劇でひじょうに有効だった≪ニュータイプ≫とゆう設定が、続いた「Z」におけるオハナシの『前提』としたら、まったくマトモには機能しなかった(!)…とゆうコトを示してるかと見ゆる。(『Pt.2』へ続く)

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