2009/10/02

≪性的関係≫は存在しない Pt.3 - Zガンダム(5)

(『Pt.2』からの続き…)とゆう、ほとんどが映像で描かれたシーンを正しくコトバにデキてるのかどーか、少々ギモンはありつつも。ともあれココで、ハマーンはシャアを幻視しカミーユ君は自分の母を幻視してるよーなのに、カミーユ君はカレらが『同じものを見た!』と言い張るのだ。そしてハマーンはおそらくは、シャアに対する彼女のキモチをカミーユ君に見られちまッたかと想ってそーだが、しかしカミーユ君はそんなモノを見てなさげ。
ソレコレでよーするにコイツらは、向かい合ってもお互いを見てないのだ。自分の見たモノは相手にも見えてる(ハズ)、と考えるだけなのだ。
『出遭い(そこね)』とゆう語で形容するにもコレはズイブンなモノがあるが、しかしわれわれが実人生で演ずる『出遭い(そこね)』は、だぃたぃこのよーに運ぶ。かとゆってもこのお芝居とは異なり、やたら殺し合いや感情のブツけ合いをヤるワケではないが、しかしコレを『おおむね正確な描写』だと、オレは見る。

もー少しハッキリ言うと、カミーユ君はハマーンに対しても『性的関係』を求めてイッてるのだ。そしてカレが求める『性的関係』とは、一体のモノとしての≪母-と-自分≫、とゆうイメージで表象されるモノなのだ。
そしてこのさいの『出遭い(そこね)』が片方の死によって終わるよーなコトにならンのは、一方のハマーンがチラリとは見た『性的関係がありうる』を、幻想としてしりぞけるからだ。その対応はあるイミ正しいが、しかしそんなコトがデキるのは「Z」の主要な女性キャラクターたちの中で、ハマーン1ピキだけだ。ソコらで彼女は、ユニ~クだ。何ンせ本命のラヴであるシャア本人をも殺そーとすンだから、その代理として目の前に出てキたカミーユ君ごときはッ。

で、ワリとそのよーにあしらわれがちだとゆうコトは、われわれが≪宇宙世紀のあたる君≫と呼ぶカミーユ君の、ナンパ師としていまだいたらざるトコだが。しかしそのカミーユ君は、追って『ニュータイプ同士の究極の交感』チックなコトをヤリすぎたせいで、カレの悲劇を演ずるハメになる。…ソコらはいちおう、ボカシた表現にしとく。

とまで、何ンのハナシをしてンのかとゆうと! ガンダムシリーズ中の『設定』である≪ニュータイプ≫とは、初代のラストでは未来の人類の希望かのよーに描かれたモンだが、追っての「Z」はまずソコを否定してる(…社会テキには、ソレは役立たない)。その否定が、この物語の出発点ではある。
しかしそのニュータイプ能力とやらが、ただ戦場で役に立つばかりか、初代にて『ララァ×アムロ』がチラリ示した『性的関係が存在し現前しうる』とゆう奇跡を、かいま見せるモノではあろう…と、「Z」は描いてる。ソコの機能は、必ずしも否定してないワケだ。
『ヒトは分かりあえる』がヒトビトの聞きたがってるコトバであるならば、『性的関係が存在する』も、またソレだ(…実質テキに両者は同じコト、ともゆえる)。ところがウソのないコトに『性的関係が存在する』はチラ見えくれーにしか現れず、「Z」作中にてもヒトビトは、フツーに『出遭い(そこね)』を演じるか、またはフィクションならではのとくべつに劇的かつ悲劇的なカタチでソレを演じるか…しか、デキないのだ。

そしてソレに付随し、作中ジンブツらの演じてるドタバタが乱脈すぎだ…とゆうコトを前回の堕文でシテキしたが、さいごまで見てソコらへの訂正の必要を、特に筆者は感じない。がしかし、もしも「Z」の最大のテーマが『性的関係がゼヒ存在すべき』とゆうヒトビトの想い…だとゆうンなら、前にシテキした今作全般のヘンにイヤらしぃフンイキにも、いちおうの理由がつくとはゆえる。

ところでココまでにさんざんゆってきた『性的関係は存在しない』とは、ジャック・ラカン様とゆうフランスの精神分析家の主張だが。ソレを聞いて筆者は以前にも、『ソレでか!』と、さとったコトがある。
「新世紀エヴァンゲリオン」とゆう作品について筆者は、その作中のカンジンそーな要素たる『人類補完計画』てのが、どーゆうコトだかさっぱし分かンなかったのだ。そして、つぃにその計画の発動が描かれた劇場版「The End of Evangelion」を見てもよく分かンなかったので、大いにムクれて『まったくアニメ屋とゆう連中はッ!』と、クチをとがらせながら新宿の上映館を出た夏の終わり、in 1997…とゆうコトは憶えてる。

何ンだか筆者が『アニメの想い出』を語ると、≪失望≫とゆうコトばかりが出てクるよーな感じだが、ソレはともかく! ワカってしまえばカンタンなコトで(?)、モンダイのエヴァンゲリオンにおける『人類補完計画』とは、この世には存在してない『性的関係』を、ムリにでも存在させよーとゆうモノに他ならない。
だからその計画に巻き込まれたヒトビトは、それぞれの望むパートナーとの(想像上の?)一体化を悦びながら、『性的関係の現前』を悦びながら、そしてシアワセに『この世』を去ってゆく。…ソレが『死んだ』とゆうコトなのかどーかはよく分からンが、ココまでを見てキたわれわれにとって『ありえざる性的関係のまたき現前⇒個体の死』とゆう流れは、あるコトだと考えられる。ところが取り残されたアスカとシンジ君の2人には、あいも変わらず『性的関係は存在しない』
だからその最終作のラストに、『キモチ悪い』とゆうアスカのセリフはある。…あの作の終わり、誰がどー見てもだんぜんキモチ悪い場面でそのよーなセリフを聞いて、『ホントにキモチわりーぜ!』とオレは想ったが…。『何ンだ、この不ユカイさは!』とも、言いたくはなるトコだが…。
しかし一定の正しさありげな発言として、ソレはソコにある。『性的関係は存在しない』世界において、他者は確かに『キモチ悪い』。コレはさきに見た「Z」でハマーンがカミーユ君に対し、『よくもズケズケと!』と感じたコトが、≪反復≫されてンのでもある。
(『最終作』とゆったが、ただいま劇場版「21世紀版EVA」とゆうのが順次公開されてる最中なので、『20世紀版EVAの最終作』とゆう言い方にすべきかも?)

ハナシをじゃっかん戻しつつ、「Zガンダム」のドコかにてシャアいわく、『人の心に踏み込むには、それ相応の資格がいる』。とは、「Z」をダイヒョーするメイ文句(?)かのよーにゆわれるが。
しかしその≪資格≫とやらがドコでどー得られるか…が、ゼンゼン分からない(ご存じの方は、ゼヒ筆者にもお教え願いたい)。ゆったシャアにも、そンな資格はないらしぃし。
とすればコレは、『ヒトのココロには踏み込めない、つか踏み込むな』とゆってンのと、ドコが異なるのだろーか? すなーち、「EVA」で言われる『絶対領域』とゆうモノは存在するのだ。…と、この部位にても「Z」と「EVA」とゆう作品2コが出遭(いそこな)ってる。
もしも『性的関係』の存在する世界があるとすれば、その『絶対領域』の向こう側のコトだろう。そして「Z」でも「EVA」でも正しく描かれてるよーに、『絶対領域』を突破してその世界に達するコトは、≪主体≫を死か狂気に導く(…少なくとも、ドッチかの≪主体≫を)。ヒトとヒトとの間をさえぎる『絶対領域』の存在は、ヒトをヒトにしてる条件だ。

そーゆえば一時期のフロイト様は、≪テレパシー≫の存在をワリとマジで考えておられた。追ってラカン様は、世界一のフロイト信奉者でありながら例外テキに、そのコトを強~くヒハンなされた。
テレパシーの存在は、われわれの知ってる≪人格≫を否定するからだ。ヒトがヒトである以上、テレパシーはありえない…実に夢のないハナシだが、でもそーなのだ。そしてオリジナル・ガンダムシリーズにおける≪ニュータイプ≫たちの末路は、その事実と『設定』との間の整合性を、ムリにとってるモノかと考えられる。

けれど「Zガンダム」にしろ「EVA」にしろ一定の『正しいコト』を描いてはいつつ、しかし欲の深い筆者(?)の自分かってなガッカリを誘ってるのは。事実として『性的関係は存在しない』世界で生きなければならないわれわれに対し、ソレらの教えるところがあまりにも多くない…とゆうコトであるらしぃ。
とゆう、『押井守専門』を名のるブログにてのガンダム話(…やべぇッ)。ココまでの皆さまのご清聴、まことにありがとござました~ッ!

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