そんなコトをしなきゃならない理由が、特にないが。けれどタマタマ機会があって、われらが押井守カントクの作品「イノセンス」の原作まんが(士郎正宗「攻殻機動隊」第1巻, 『Robot Rondo』の巻)に目を通した。以下、ソコから感じたコトをなるべく手短に。
あまり熟読もしてないが、当該の本をザッと眺めての印象をまず。筆者が大学生だったころ…とゆうのもズイブンとムカシなンだけど(汗)、ガッコの漫研の機関誌とゆうのを見ると、まんがではなく設定画だけを載せてるヒトがいてビックリしたモンだ。『コイツは、ナニを考えてやがンだッ!』と。
筆者のよーなトーシローから見ると、『まんが』とはヒト(登場人物)が動きオハナシが動くモンだが、しかしそーゆうトコからは入らないヒトもいる。で、ヒトを動かしオハナシを動かす前に設定画ばっかしを念入りにカィてて、まんが家になるどころか1本のまんが作品を完成するコトさえもデキんかったとゆう連中は、そーとーにいた(いる)と見るベキだろう。
そしてわれらが見てる士郎正宗センセは、そのよーなヤカラの中から立ち上がって、ともかくも『まんが作品』ぽぃモノを世に提出されている…とゆうお方に見えるのだッた。だからその作品の中では、ヒトが動かずオハナシが動かない。ハッキリ申せば、設定画に毛が生えたばかりのモンが見かけ上の『作品』になってるノミ…とゆう気がするが。
よって。「イノセンス」ではなく「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」につぃて、『何ンとゆう中ミのない、ドラマのない作品だろう! いわばモードだけ、風景だけ、ファッションだけの映画じゃねーかッ!』…とゆう感じ方をするのはワリとフツーだと想うが、ソレのそのよーな特徴は別にアニメ版のスタッフが作ったモノではない…とまでは、ココにて知れる。
(かつ、モードだけ・風景だけ・ファッションだけの映画ごときはよろしくない…ともまた、いちがいには言い切れぬ。もし仮に『やたら長いプロモビデオ』のよーな作品でしかなかったとしても、しかし≪誰か≫がソレを愉しンでンだったら大いにアリでは…とまでは想う。どーであれ、駄作・凡作の発生は世の必然なので、いちーち『駄作はケシカラン』とゆっても始まらない)
とゆうトコで想い出すと、確か5年くらぃ前、筆者はわれらが押井守・原作のまんが作品「犬狼伝説」についてチョッと堕文をカィたコトがあり。その中で『上手いけど面白くないまんが』の描き手の双璧として、「犬狼」の作画担当・藤原カムイセンセと、コチラの士郎正宗センセを並べたのだッた。
で、その東西の両ヨコヅナがともに、われらの押井守カントクと浅くもないご縁を持ってるとはまた、どーゆうワケなのだろーかッ?
さらにその士郎正宗センセのお作につぃて、あるイミでリッパに正統テキなる『メカ-と-美少女』の喰い合わせ、コンベンショナルでオーセンティックなおたく美学のアッパレな貫徹…とかゆうシテキもデキよーけど、まぁソレはよい。筆者が述べたいのは、われらが見てる押井守作品「イノセンス」と、その原作との異同について、1つ。
で、以後またネタばらしのよーなハナシになるので、皆さまにはごチューイをお願いしつつ。
押井作品「イノセンス」とその原作との間の異同は、イロイロとある。が、筆者がカンジンだと見るのは1コのポイントだけだ。
われわれは「イノセンス」にかかわる前回の堕文にて、その作品のヒーローが、命カラガラ救出された気の毒な少女に向かって、想わずビックリするよーなコトをゆうのを見た。いわく、『魂を吹き込まれた人形がどうなるかは、考えなかったのか?』。
で、原作の方はってと、オハナシの骨子はだぃたぃ同じで――『同じ』、と言い切ってもヤバンだが――。しかし相当する場面でヒーローは、『被害者が 出るとは 考えなかった のか?』、とまずゆって、次に暴走したロボットによる『被害』の数々を伝えて少女(ら)を責める。確かにその『被害』をこーむった者らの多くはソレに値するホドの大悪人でもなく、ただ巻き込まれたばかりでもあろーけど。
すると。われわれのよーな凡人から見たら気の毒きわまる少女に向けて、その『ヒーロー』が心なさもきわまったコトをぬかしやがる…とゆう点は両作で同じだが。
けれど押井作品においては、その言表の非ジョーシキさがひと廻りランクアップしてる。われらが見てる「イノセンス」のヒーローは、わざーざ原作のセリフを打ち消して『人間の(こーむった被害の)コトじゃねェ』とゆった上で、そしてさきに見たメイ文句を繰り出すのだった。
とまでを見て筆者は、この散漫さもきわまり気味なオハナシに対し、逆にチョッと感心するよーなトコが生じてクるのだった。ダマって見てれば、ロリコンのおじさまたちはロリコンとしての≪欲望≫を追求し、悪徳企業は手段を選ばず利益を追求し、少女たちはひたすらに自らへの救けを求め、そしてケーサツのヒトらはただ単に職ムを執行してるばかり。かくてこの方々には、それぞれに触れ合ってるトコが、まったくない。
この物語はケーサツの動きを追うとゆうモノではありつつ、しかし「はぐれ刑事何ンとか系」みてーのとはまったく異なり、何ンらかの『理解』や『共感』で終わる…とゆうのがまったくないワケだ。ソコが逆に、≪存在する事実≫とゆうイミでの『正しいこと』を描いてるのかなァ…とゆう気もしてクるのだった。
(映画としての「イノセンス」を、そのシリーズ前作「攻殻機動隊」よりは印象深いモノにしてンのは、その『ともかくも事実を描いてる』とゆうポイントなのやも知れぬ)
ただあるのは、原作では特に強調されてなくて「イノセンス」にツケ足された、『人形愛』とゆう奇妙な要素だが。ソレは、ヒトとヒトとの『理解』も『共感』もない…とゆうコトを前提として浮上してクる要素だと考えられる。われらが見てる「イノセンス」のヒーローにとっては、ニンゲンの苦しみよりも人形の苦しみの方が、まだしも『理解』したり『共感』したりデキそーなモノらしぃ。
『魂を吹き込まれた人形』こそを哀れだと考えてるらしきこのヒーローは、今シリーズ作にて『魂を吹き込まれた人形』として活躍するおなじみのヒロイン≪少佐≫の存在をグロテスクだとは想わず。逆にモンダイの大詰めシーンで『わたしは人形になりたくなかったんだもの!』と訴えるフツーの少女を、奇妙なモノとして眺めるのだ。
そして、もしも少佐をよしとするなら、この『フツーの少女』とやらの方が、よっぽどグロテスクな生き物である…とゆう見方は成り立つにチガイない。
ところでオリジナルの「ガンダム」シリーズ(初代・Z・ZZ・逆シャア)を見てて想ったンだが、ソッチの世界にも≪ニュータイプ≫とゆうキテレツな設定はありつつ、しかしサイボーグ技術とゆうモノがまったく登場しない。むしろ不自然なまでに(?)、ソレがない。ソレがまた、1つの考え方なのだろう。
2009/09/29
2009/09/25
アニメと呼ばれるイヤらしぃ夢 Pt.2 - Zガンダム(2)
(『Pt.1』からの続き…)ところで筆者は想うンだが、見た目はキレイなおねー様たちといえども、相手は百戦錬磨の≪職業軍人≫なンだから。そンなオトコが考えるよーなやさしさを、彼女らに期待するのはムリなンではないかと? このおねー様らと、初代で活躍したセイラ、ミライ、マチルダらとは、根本テキに違うし。
コトを上から見て言えるコトだが、もっとずっと『やさしい』ミライでさえも、かってアムロ君に対して、あまり『やさしく』接してもいれなかったのだ。しかしわれらのカミーユ君は、カレが想うよーなコトはないと(いちおう)さとった上でも、おねー様たちに対して職業テキに接する…とゆうふーにはならンのだった。
印象深いシーンは、何かの都合でおねー様の1人のレコアが、単身で地球に降下するコトになる。すると、特に用事もないのにカミーユ君は、ロケットを準備中のレコアに声をかけながら、その胸から腰のあたりをジロジロと舐め廻すよーに眺めるのだった(!)。よく分からぬよーで実によく分かる場面であり、筆者はつぃつぃ爆笑を禁じえなかったがッ!
(…そしてそのシーンを見た上では、カミーユ君が入浴の途中のファの半裸をまったくエンリョなく拝見しまくるとゆう場面に意外性みたぃのが、コレっぽっちもないッ)
またチョッとビックリいたすのはカレが、敵軍の女性パイロットのライラおねー様に対してさえも、何ンとなく甘えたタイドに出るコトだ。他に女性があまりいないッてのもありつつ、しかしコレじゃ、カレはどーにも他ならぬ≪女性兵士≫てモノがスキなのでは…とゆう気がしてクる。そーゆう趣向があるコトをわれわれは知っており、かつそンな趣向の存在理由も知っている。そしてそのよーな≪カミーユ君≫たちに向けて、この作品が作られてるよーな気がせぬコトもない。
かつ因果なコトに、カレがその素性を知らずにひかれた≪フォウ≫も実は敵軍のパイロットだったし、そして幼なじみのファもまた、追ってエウーゴのパイロットになるのだ。そーしてさすがのカミーユ君もしまいには、どーしてこんなにも軍隊のパイロットが女性ばっかなのか…とゆうギモンをいだく。そして『時代が変わってるのか』と、特にイミをなさないよーなコトをゆう(…初代ガンダムに描かれた『一年戦争』のころ、女性パイロットはきわめて例外テキな存在だった)。
けど、オレの見るに。あまりシテキしたくもないコトだが、カレのゆう『時代が変わった』とは、まずは作中の時代の変化をゆってるにせよ。だがむしろ作品の外側にて、7年間とゆう刻(とき)の間に、時代も変わりヒトらも変わった…とゆうコトではなかろーか? あえてゆうなら、カスである…じゃなく。いまのコトバでゆって、勇ましく闘う女性キャラクターが≪萌え≫だと。がしかし、いまは作品外のハナシはさておいて。
ところでどーにもウットーしぃのは、ツゴウに応じて『軍隊だから』、『軍人だから』、『戦争中だから』、と言い張っておられるこの女性戦士たちが、そンなには職業に徹しておらずワリと感情まかせに動いており、しかもいちように情緒不安定気味だとゆうコトだ。ソレが特に若いベルトーチカ、フォウ、ファ、サラらにおいてひじょうにヒドく、また、もっと筋金入りなハズのおねー様らにおいても相当ある。
ココらに≪神経症≫っぽぃ徴候を見るのはワリとふつーの診立てかと考えられ、「Z」作中の女性らがミョーに勇ましぃのは逆に、いろンなイミでフガイなきオトコどもへ向けてのプロテストに他ならない。だからカミーユ君ごときヒヨッコじゃーハナシにならンにせよ(涙)、しかし敵ボスのシロッコがそそり立つオトコぶりを見せると、歴戦のレコアおねー様がたわいなくキュ~ンとなっちまう。
むしろそのよーな展開を大いに期待して、彼女らは戦場とゆう舞台にいるのだ。ゆってる自分もビックリなよーなコトを申すが、武器を振り廻すコトは彼女らなりの媚態であり挑撥なのだ。
とゆうふーに考えると、よせばイイのにファが戦闘用ロボットのパイロットなどに志願した理由がよく分かるだろう。ソレはトーゼン、おねー様たちのお尻ばっか見てるカミーユ君に向けての媚態であり挑撥に他ならぬ。
ソレコレによって、さきからゆってるイヤらしさ、ソレも場チガイ気味でトートツなイヤらしさこそ、「Z」のエッセンスに他ならぬ。トートツな暴力とゆうのもそーだが、少女や少年らはもとよりトシ喰った連中にてもオトナげがひじょうになく、衝動を抑えるとゆうコトがデキかねている。
けれどもハタから見てて筆者が想うのは、『ヤるならば戦争かメロドラマか、ドッチかだけにしたらイイんでは?』…と。戦場とゆうステージ上でその≪神経症≫チックな女性らは、死と愛欲とが裏オモテに抱き合わされた≪ロンド≫を踊る(…ちょーどレコアのフルネームが、レコア・『ロンド』で)。その眺めこそが真のみどころかのよーにも見え、ソレに対して『スペースノイドがどうこう』とゆう見かけ上のテーマ性(?)…作中のオトコらがいちおう追求してるコトが、あまりにもカンケイない。
だから「Z」に対してフツーは誰もが感じるよーな、オハナシの中心のなさ、ドラマ性が四分五裂、心理の展開がトッピで飛躍あり、とゆった印象のモトは、ソコらにあるのかと。われわれは「Z」につぃて、『コレは戦争のオハナシかなァ』と想って見てればメロドラマを見るハメになり、メロドラマだと想って見てれば戦争を見せられるハメになる。
しかもその両サイドがそれぞれに、『成り立ってる』モンなのかどーなのか? むしろ「Z」とゆう作品は、そのストーリーもテーマ性もぞんぶんにブンレツしてる超ドサクサにおぃて、かろーじて『成り立ってる』かのよーに見えるシロモノかと想うのだ。ホメてないけど、そのムヤミと迷宮テキな構成はソコにおぃて確かに機能してやがる。面白いとは言いがたくも、ゼンゼン見るにたえざるシロモノでもない…とゆう水準をキープしてるのはソコが機能してるからだ。
自ら称して≪ガンダムおじさん≫とゆう、このシリーズの産みの親テキなヒトがいるけれど、カレの作品群はいちようにあらゆるイミで分かりニクい。ソレらを見て受け手らは、ナニかをチョッピリ分かッただけでも、『エレぇコトをヤッた』かのよーな錯覚に陥る。
(≪ガンダムおじさん≫とゆう異名は富野カントクが、「Z」サントラ盤のライナー中でゆってた語。『ゼッタイにヤラぬと断言してたガンダムの続編をヤるハメになッちまッた以上、自分はヒトから≪ガンダムおじさん≫とゆわれてもしょーがない』、とか何ンとか。とはつまり、『ガンダムおじさんと呼ばれたい』とゆうイミに受けとるべきかと)
そしてこの「Z」とゆうお芝居の全般テキなドサクサぶりは、作中人物らが戦争のドサクサまぎれにそれぞれの≪欲望≫を追求しよーとゆうそれぞれの身ぶりとは、キレイに対応してる。だからわれらのカミーユ君が、戦争のドサクサまぎれにナンパ的な行動を行き当たりばったりに繰り返し、まるでかの≪諸星あたる君≫を反復してるよーなのも、この作中では特にヘンなコトとも言えない。上から下まで、そして最初から最後までを貫徹して、≪公私混同≫こそが、「Z」の作劇の最大原理なのだ。
さらにそのブンレツを基礎づける「Z」とゆう作品の全般テキなフンイキを、筆者のコトバでゆえば、『幻滅してるが、幻想は棄てきれない』。まず前提に、かの『一年戦争』とゆう大きすぎなギセイを払った上でも人類は、まったく何ンら向上するトコがなかったとゆう大幻滅があり。
ソコらを何ンとか取り返そうとゆうのが、オトコらがタテマエとして追求してるコトのよーだが(…しかし、その実質はイカに?)。かつ初代ガンダムとの異同とゆえば「Z」には、リュウやランバ・ラルのよーな大らかでゴーケツっぽぃ男子たちがまったく登場せず、オトコらがみなコセコセして女々しい。
で、ソレに沿うよーな沿わぬよーなカタチで勇ましく奮い立ってる女性たちは、世に言う『平凡な幸せ』のベースさえをも作れぬオトコどもにハッキリと幻滅はしつつ、しかしオトコらに対する幻想を棄てきれない。だからこの女性たちの行動が勇ましくはありながら、ミョーにまっすぐでないのだ。とゆう奇妙な『まっすぐでなさ』が、『題材は重いが作劇が軽い』とゆう「Z」のフシギな特徴を形成しつつ。
(そしてそンなよーな女性像は、続いた1988年の作品「逆襲のシャア」劇場版にもやたら描かれる。ソッチの作品のヒロイン格っぽぃクェスのジンブツ像は、フロイト「あるヒステリー分析の断片」に描かれた≪症例ドーラ≫をチープに反復してるモノかと見ゆる)
ソレとわれらがカミーユ君においては、その両親に『幻滅』しつつも、2人への『幻想』を棄てきれず。またカツ君においては、『一年戦争』の後のアムロのフガイなさに幻滅しつつも、カレへの幻想を棄てきれず。さらにファは、チャンとしたナイトを演じてくれないカミーユ君に対して…。かつホワイトベースの元クルーらは、エウーゴの一兵士の立場に甘ンじてるシャアに対して…。等々々と、描かれた構図らは重なる。
ところで『オトコ(の支配)に対する幻滅』とゆう感じ方を、若めな男子のカミーユ君やカツ君もまた共有してるコト、ソレをも見とくべきだろう。だからカレらは歴戦のおねー様たちに対し、ヘンにふくらみある幻想をいだいて、そのお尻を追ッかけ廻し、そして≪何か≫を彼女らに大いに期待するのだが。
しかしおねー様たちには、カレらごときの期待に応じようとゆう気がゼンゼンない。かくてこのお芝居の中では、互いの幻想と幻想とが、ただただスレ違い続けるばっかしなのだ。とまでゆって、いったん終わる。
コトを上から見て言えるコトだが、もっとずっと『やさしい』ミライでさえも、かってアムロ君に対して、あまり『やさしく』接してもいれなかったのだ。しかしわれらのカミーユ君は、カレが想うよーなコトはないと(いちおう)さとった上でも、おねー様たちに対して職業テキに接する…とゆうふーにはならンのだった。
印象深いシーンは、何かの都合でおねー様の1人のレコアが、単身で地球に降下するコトになる。すると、特に用事もないのにカミーユ君は、ロケットを準備中のレコアに声をかけながら、その胸から腰のあたりをジロジロと舐め廻すよーに眺めるのだった(!)。よく分からぬよーで実によく分かる場面であり、筆者はつぃつぃ爆笑を禁じえなかったがッ!
(…そしてそのシーンを見た上では、カミーユ君が入浴の途中のファの半裸をまったくエンリョなく拝見しまくるとゆう場面に意外性みたぃのが、コレっぽっちもないッ)
またチョッとビックリいたすのはカレが、敵軍の女性パイロットのライラおねー様に対してさえも、何ンとなく甘えたタイドに出るコトだ。他に女性があまりいないッてのもありつつ、しかしコレじゃ、カレはどーにも他ならぬ≪女性兵士≫てモノがスキなのでは…とゆう気がしてクる。そーゆう趣向があるコトをわれわれは知っており、かつそンな趣向の存在理由も知っている。そしてそのよーな≪カミーユ君≫たちに向けて、この作品が作られてるよーな気がせぬコトもない。
かつ因果なコトに、カレがその素性を知らずにひかれた≪フォウ≫も実は敵軍のパイロットだったし、そして幼なじみのファもまた、追ってエウーゴのパイロットになるのだ。そーしてさすがのカミーユ君もしまいには、どーしてこんなにも軍隊のパイロットが女性ばっかなのか…とゆうギモンをいだく。そして『時代が変わってるのか』と、特にイミをなさないよーなコトをゆう(…初代ガンダムに描かれた『一年戦争』のころ、女性パイロットはきわめて例外テキな存在だった)。
けど、オレの見るに。あまりシテキしたくもないコトだが、カレのゆう『時代が変わった』とは、まずは作中の時代の変化をゆってるにせよ。だがむしろ作品の外側にて、7年間とゆう刻(とき)の間に、時代も変わりヒトらも変わった…とゆうコトではなかろーか? あえてゆうなら、カスである…じゃなく。いまのコトバでゆって、勇ましく闘う女性キャラクターが≪萌え≫だと。がしかし、いまは作品外のハナシはさておいて。
ところでどーにもウットーしぃのは、ツゴウに応じて『軍隊だから』、『軍人だから』、『戦争中だから』、と言い張っておられるこの女性戦士たちが、そンなには職業に徹しておらずワリと感情まかせに動いており、しかもいちように情緒不安定気味だとゆうコトだ。ソレが特に若いベルトーチカ、フォウ、ファ、サラらにおいてひじょうにヒドく、また、もっと筋金入りなハズのおねー様らにおいても相当ある。
ココらに≪神経症≫っぽぃ徴候を見るのはワリとふつーの診立てかと考えられ、「Z」作中の女性らがミョーに勇ましぃのは逆に、いろンなイミでフガイなきオトコどもへ向けてのプロテストに他ならない。だからカミーユ君ごときヒヨッコじゃーハナシにならンにせよ(涙)、しかし敵ボスのシロッコがそそり立つオトコぶりを見せると、歴戦のレコアおねー様がたわいなくキュ~ンとなっちまう。
むしろそのよーな展開を大いに期待して、彼女らは戦場とゆう舞台にいるのだ。ゆってる自分もビックリなよーなコトを申すが、武器を振り廻すコトは彼女らなりの媚態であり挑撥なのだ。
とゆうふーに考えると、よせばイイのにファが戦闘用ロボットのパイロットなどに志願した理由がよく分かるだろう。ソレはトーゼン、おねー様たちのお尻ばっか見てるカミーユ君に向けての媚態であり挑撥に他ならぬ。
ソレコレによって、さきからゆってるイヤらしさ、ソレも場チガイ気味でトートツなイヤらしさこそ、「Z」のエッセンスに他ならぬ。トートツな暴力とゆうのもそーだが、少女や少年らはもとよりトシ喰った連中にてもオトナげがひじょうになく、衝動を抑えるとゆうコトがデキかねている。
けれどもハタから見てて筆者が想うのは、『ヤるならば戦争かメロドラマか、ドッチかだけにしたらイイんでは?』…と。戦場とゆうステージ上でその≪神経症≫チックな女性らは、死と愛欲とが裏オモテに抱き合わされた≪ロンド≫を踊る(…ちょーどレコアのフルネームが、レコア・『ロンド』で)。その眺めこそが真のみどころかのよーにも見え、ソレに対して『スペースノイドがどうこう』とゆう見かけ上のテーマ性(?)…作中のオトコらがいちおう追求してるコトが、あまりにもカンケイない。
だから「Z」に対してフツーは誰もが感じるよーな、オハナシの中心のなさ、ドラマ性が四分五裂、心理の展開がトッピで飛躍あり、とゆった印象のモトは、ソコらにあるのかと。われわれは「Z」につぃて、『コレは戦争のオハナシかなァ』と想って見てればメロドラマを見るハメになり、メロドラマだと想って見てれば戦争を見せられるハメになる。
しかもその両サイドがそれぞれに、『成り立ってる』モンなのかどーなのか? むしろ「Z」とゆう作品は、そのストーリーもテーマ性もぞんぶんにブンレツしてる超ドサクサにおぃて、かろーじて『成り立ってる』かのよーに見えるシロモノかと想うのだ。ホメてないけど、そのムヤミと迷宮テキな構成はソコにおぃて確かに機能してやがる。面白いとは言いがたくも、ゼンゼン見るにたえざるシロモノでもない…とゆう水準をキープしてるのはソコが機能してるからだ。
自ら称して≪ガンダムおじさん≫とゆう、このシリーズの産みの親テキなヒトがいるけれど、カレの作品群はいちようにあらゆるイミで分かりニクい。ソレらを見て受け手らは、ナニかをチョッピリ分かッただけでも、『エレぇコトをヤッた』かのよーな錯覚に陥る。
(≪ガンダムおじさん≫とゆう異名は富野カントクが、「Z」サントラ盤のライナー中でゆってた語。『ゼッタイにヤラぬと断言してたガンダムの続編をヤるハメになッちまッた以上、自分はヒトから≪ガンダムおじさん≫とゆわれてもしょーがない』、とか何ンとか。とはつまり、『ガンダムおじさんと呼ばれたい』とゆうイミに受けとるべきかと)
そしてこの「Z」とゆうお芝居の全般テキなドサクサぶりは、作中人物らが戦争のドサクサまぎれにそれぞれの≪欲望≫を追求しよーとゆうそれぞれの身ぶりとは、キレイに対応してる。だからわれらのカミーユ君が、戦争のドサクサまぎれにナンパ的な行動を行き当たりばったりに繰り返し、まるでかの≪諸星あたる君≫を反復してるよーなのも、この作中では特にヘンなコトとも言えない。上から下まで、そして最初から最後までを貫徹して、≪公私混同≫こそが、「Z」の作劇の最大原理なのだ。
さらにそのブンレツを基礎づける「Z」とゆう作品の全般テキなフンイキを、筆者のコトバでゆえば、『幻滅してるが、幻想は棄てきれない』。まず前提に、かの『一年戦争』とゆう大きすぎなギセイを払った上でも人類は、まったく何ンら向上するトコがなかったとゆう大幻滅があり。
ソコらを何ンとか取り返そうとゆうのが、オトコらがタテマエとして追求してるコトのよーだが(…しかし、その実質はイカに?)。かつ初代ガンダムとの異同とゆえば「Z」には、リュウやランバ・ラルのよーな大らかでゴーケツっぽぃ男子たちがまったく登場せず、オトコらがみなコセコセして女々しい。
で、ソレに沿うよーな沿わぬよーなカタチで勇ましく奮い立ってる女性たちは、世に言う『平凡な幸せ』のベースさえをも作れぬオトコどもにハッキリと幻滅はしつつ、しかしオトコらに対する幻想を棄てきれない。だからこの女性たちの行動が勇ましくはありながら、ミョーにまっすぐでないのだ。とゆう奇妙な『まっすぐでなさ』が、『題材は重いが作劇が軽い』とゆう「Z」のフシギな特徴を形成しつつ。
(そしてそンなよーな女性像は、続いた1988年の作品「逆襲のシャア」劇場版にもやたら描かれる。ソッチの作品のヒロイン格っぽぃクェスのジンブツ像は、フロイト「あるヒステリー分析の断片」に描かれた≪症例ドーラ≫をチープに反復してるモノかと見ゆる)
ソレとわれらがカミーユ君においては、その両親に『幻滅』しつつも、2人への『幻想』を棄てきれず。またカツ君においては、『一年戦争』の後のアムロのフガイなさに幻滅しつつも、カレへの幻想を棄てきれず。さらにファは、チャンとしたナイトを演じてくれないカミーユ君に対して…。かつホワイトベースの元クルーらは、エウーゴの一兵士の立場に甘ンじてるシャアに対して…。等々々と、描かれた構図らは重なる。
ところで『オトコ(の支配)に対する幻滅』とゆう感じ方を、若めな男子のカミーユ君やカツ君もまた共有してるコト、ソレをも見とくべきだろう。だからカレらは歴戦のおねー様たちに対し、ヘンにふくらみある幻想をいだいて、そのお尻を追ッかけ廻し、そして≪何か≫を彼女らに大いに期待するのだが。
しかしおねー様たちには、カレらごときの期待に応じようとゆう気がゼンゼンない。かくてこのお芝居の中では、互いの幻想と幻想とが、ただただスレ違い続けるばっかしなのだ。とまでゆって、いったん終わる。
アニメと呼ばれるイヤらしぃ夢 Pt.1 - Zガンダム(1)
【釈明:1】 押井守センモンかのよーな看板があるッてのにガンダム話だが、あるぃは押井研究のタメに必要やも知れぬ…とゆう気がして、チョッとガンダムを見直してるトコで。
【釈明:2】 しかも、ナゼにまず「Zガンダム」なのか…とゆうのは、もっと釈明に苦しむところだが。しかしあるイミでいま、初代の「機動戦士ガンダム」(1979)と「機動戦士Zガンダム」(1986)とを並べると、自分にとっては後者の方に奇妙なインパクトがあるのだった。
で、ソレはどーゆうイミで…とゆうと。初代があまりにも≪現在≫に生きてる作品であるに対し、この21世紀に自分が眺める「Z」があまりにもアナクロなタイムカプセルからの出土品ッぽぃ。とゆうワケで、筆者が「Z」から受けつつあるインパクトを、そンなに前向きなモノとはゆえない。
そもそも「Z」は初放映のときに見てたハズなンだが、その内容につぃて憶えてたコトがあまりにも少ない。『エウーゴ』とゆう主人公側の組織の名前さえも憶えてなかった…とゆうダイタンな忘れっぷりには、自分でもビックリした。一方の敵側の組織の名『ティターンズ』は憶えてたが、ソレよかもっとハッキリ憶えてたのは、その最終回を見てモーレツな不ユカイを感じたコトだ。その不ユカイがあまりにキョーレツだったので、筆者はソレから数年間アニメとか見ない仔になった。
ココにてよくあるメイ文句の借用をいたせば、『何ンだ、この不ユカイさはッ!?』…とでもなりげ。がしかし、前置きはこのくれーにして…。ちなみにこの堕文は、「Z」を第29話まで再見した時点で書かれてる。どのよーに不ユカイなケツ末だったかは、いまだ想い出せてない。
(なお以下の文中では、「初代」にしろ「Z」にしろ、それぞれのTVシリーズのコトをゆっている)
さてだが、ご存じのよーに初代ガンダムの劇中でも、多くのヒトらが死ぬ。何ンせいきなし『人類の約半数が死亡した』…と、ド頭で語られるホドのシロモノではあるが、まぁソコは『劇中』とも言いがたいトコなので、チョッと別にして。
名前がツィてて印象に残ってるギセイ者らをザッと想い出してみると、リュウ、マチルダ、ランバ・ラル、ハモン、ミハル、スレッガー…等々々。そして自分はあんまし感情移入して見ない方なのだが、しかしソレらを見てて心が動く、とゆうコトは止めれない。するとそのテイドには、自分もマトモなニンゲンであったのかなァ…などと感じさせられるのだが。
ところが一方、「Z」を見てて感じるのは、『ヒト(登場人物)が多すぎてウットーしぃので、サッサと死なしてくれねーだろーか?』とゆうコトだ。そのイミでは、出てキてワリとすぐ死ぬ≪ライラ≫がエラぃとゆえる(!)。そしてさっき筆者は第29話の末尾の予告編を見て、次回(第30話)のサブタイトルが『ジェリド特攻』だと知り、思わず『ヤッた!』と心で叫んだ(…敵側に、≪ジェリド≫とゆう登場人物がいるのだ)。
タカがテレビのまんがとゆえどもデキの悪いシロモノは、このよーにヒトの情動に悪影響を与えるのではなかろーか? そもそも≪特攻≫はガンダムシリーズにはよく出てるコトバだが、こンな単語を見るコト自体がフツーに不ユカイだ、と、ふだんは想うのだがッ!
また。初代ガンダムから「Z」への異同としてどーにも目につくのは、暴力とエロスの描写のムヤミなエスカレートだ。『修正』だか何ンだかと称したりして、殴る殴られる、とゆう場面がヤケに多いのは見たまンま。だぃたぃのところ第1話で、主人公のカミーユ君がティターンズらにつッかかって逆に超ボコられる場面…ココの描写が、いっきなし過剰なモノかと見るが。
ソレに対する≪エロス≫の描写は多少もって廻ったモノだけど、しかしあからさまではある。だぃたぃのところ第1話の冒頭、カミーユ君が部活をサボってガッコを抜け出すのを、その幼なじみのファが追ッかける…このシーケンスからいきなし、ファをはじめ少女たちの描き方がミョーにイヤらしぃ。『コレから始まるアニメは、「くりいむレモン」シリーズの1編なのか?』と、素でチラリ考えたホドだ。
どーして「くりいむレモン」かって、ほぼ同じよーな時代のアニメ作品なンで感触が似てるワケだが。で、そンなコトをゆってるオレ自身のイヤらしさをも認めるよーなハメになるが、しかしそうだ。
さらに。追ってカミーユらが参加した戦いの双方の軍隊チックな組織には、どーゆうワケだか、パイロットとゆう部門に女性が多し。そしてこの方々が無イミに胸の目立つ服を着て(イヤ本当は大いにイミあるが)、しかもなかなか女クサく振るまうので、組織のフンイキが双方でヘンにイヤらしぃ。
とゆうトコで初代ガンダムを見直すと、コッチもまったくイヤらしくないオハナシだとは言えない。まず何ンせララァとシャアの関係がひじょうにイヤらしぃし、またサイド6を出航するさいにミライが3人のオトコらを巻き込んで大痴話ゲンカ…なンてゆうイヤらしぃメイ場面もあったが。
しかし全般テキにはそンなにイヤらしくないハズで、画面テキにも色気がほとんどない。たとぇば、ホワイトベースの少年兵たちがマチルダをマドンナのよーに慕う…とゆうくだりをご存じだろーけど、そのエピソードにイヤらしさを感じるとゆうお方は、ほぼおられぬのでは、と。
その一方、だぃたぃ主人公の父親が愛人を囲ッてて、妻を放ッとぃてソッチに入れあげてるコトをムスコは大いに知りまくり…とゆう初期設定からして「Z」はイヤらしぃ。そしてその父たるジンブツが、生きるか死ぬかのロボット戦の最中に、その愛人のHな姿を脳裡に浮かべて想わずニヤニヤ…とはまた、イヤらしぃにもホドがあるッ! あと確か敵側にもう1人、その死のまぎわにカレの愛人のエロ姿態を想い浮かべる(!)、とゆうヒトがいたよーだし。
ところで初代ガンダムで、ミライを囲んでオトコら3ビキが…とゆうハナシが出たけど、その場面でイヤらしぃ態度なのは意外とミライで、むしろオトコらのタイドはイヤらしくない。特に3ビキの中でもブライト艦長は、可能な限り自分を抑えててリッパだと感じられる(…付言して、ミライのよーな女性が地味顔のクセにオトコらを手玉に取るよーな展開になる…とは、逆にあるよーなコトでリアルだ。ソレに対し、誰がどー見ても美人サンのセイラには、逆に浮いたハナシがない…ソコもまたホントらしぃ)。
ところがその一方、「Z」のヘンケン艦長は自分が部下のエマ・シーンに岡惚れしてるコトをまったく隠せておらず、それでカレの艦内のフンイキをヘーキでイヤらしくしてやがるのだった。
そしてそのよーなアニメのヒーローであり、かつその実の父がそーゆうヒトであるからには、われらのカミーユ君がリッパなむっつりスケベであるコトには、何ンンもフシギがない。だがココはあんまし責めてなくて、筆者はカミーユ君にはかなり共感デキる部位がある。
オハナシの発端で両親を、ソレもタイヘンに無残なカタチで失ったカミーユ君は、カレがまぎれ込んだエウーゴのパイロットのおねー様たちに、やさし~くいたわってもらいたいのがヤマヤマだ。ソコらを大いに期待してるのだが、しかしアッサリと彼女らにツキ放され、ゼンゼンかまってもらえない…とゆうウキ目を見るのだった。(『Pt.2』へ続く)
【釈明:2】 しかも、ナゼにまず「Zガンダム」なのか…とゆうのは、もっと釈明に苦しむところだが。しかしあるイミでいま、初代の「機動戦士ガンダム」(1979)と「機動戦士Zガンダム」(1986)とを並べると、自分にとっては後者の方に奇妙なインパクトがあるのだった。
で、ソレはどーゆうイミで…とゆうと。初代があまりにも≪現在≫に生きてる作品であるに対し、この21世紀に自分が眺める「Z」があまりにもアナクロなタイムカプセルからの出土品ッぽぃ。とゆうワケで、筆者が「Z」から受けつつあるインパクトを、そンなに前向きなモノとはゆえない。
そもそも「Z」は初放映のときに見てたハズなンだが、その内容につぃて憶えてたコトがあまりにも少ない。『エウーゴ』とゆう主人公側の組織の名前さえも憶えてなかった…とゆうダイタンな忘れっぷりには、自分でもビックリした。一方の敵側の組織の名『ティターンズ』は憶えてたが、ソレよかもっとハッキリ憶えてたのは、その最終回を見てモーレツな不ユカイを感じたコトだ。その不ユカイがあまりにキョーレツだったので、筆者はソレから数年間アニメとか見ない仔になった。
ココにてよくあるメイ文句の借用をいたせば、『何ンだ、この不ユカイさはッ!?』…とでもなりげ。がしかし、前置きはこのくれーにして…。ちなみにこの堕文は、「Z」を第29話まで再見した時点で書かれてる。どのよーに不ユカイなケツ末だったかは、いまだ想い出せてない。
(なお以下の文中では、「初代」にしろ「Z」にしろ、それぞれのTVシリーズのコトをゆっている)
さてだが、ご存じのよーに初代ガンダムの劇中でも、多くのヒトらが死ぬ。何ンせいきなし『人類の約半数が死亡した』…と、ド頭で語られるホドのシロモノではあるが、まぁソコは『劇中』とも言いがたいトコなので、チョッと別にして。
名前がツィてて印象に残ってるギセイ者らをザッと想い出してみると、リュウ、マチルダ、ランバ・ラル、ハモン、ミハル、スレッガー…等々々。そして自分はあんまし感情移入して見ない方なのだが、しかしソレらを見てて心が動く、とゆうコトは止めれない。するとそのテイドには、自分もマトモなニンゲンであったのかなァ…などと感じさせられるのだが。
ところが一方、「Z」を見てて感じるのは、『ヒト(登場人物)が多すぎてウットーしぃので、サッサと死なしてくれねーだろーか?』とゆうコトだ。そのイミでは、出てキてワリとすぐ死ぬ≪ライラ≫がエラぃとゆえる(!)。そしてさっき筆者は第29話の末尾の予告編を見て、次回(第30話)のサブタイトルが『ジェリド特攻』だと知り、思わず『ヤッた!』と心で叫んだ(…敵側に、≪ジェリド≫とゆう登場人物がいるのだ)。
タカがテレビのまんがとゆえどもデキの悪いシロモノは、このよーにヒトの情動に悪影響を与えるのではなかろーか? そもそも≪特攻≫はガンダムシリーズにはよく出てるコトバだが、こンな単語を見るコト自体がフツーに不ユカイだ、と、ふだんは想うのだがッ!
また。初代ガンダムから「Z」への異同としてどーにも目につくのは、暴力とエロスの描写のムヤミなエスカレートだ。『修正』だか何ンだかと称したりして、殴る殴られる、とゆう場面がヤケに多いのは見たまンま。だぃたぃのところ第1話で、主人公のカミーユ君がティターンズらにつッかかって逆に超ボコられる場面…ココの描写が、いっきなし過剰なモノかと見るが。
ソレに対する≪エロス≫の描写は多少もって廻ったモノだけど、しかしあからさまではある。だぃたぃのところ第1話の冒頭、カミーユ君が部活をサボってガッコを抜け出すのを、その幼なじみのファが追ッかける…このシーケンスからいきなし、ファをはじめ少女たちの描き方がミョーにイヤらしぃ。『コレから始まるアニメは、「くりいむレモン」シリーズの1編なのか?』と、素でチラリ考えたホドだ。
どーして「くりいむレモン」かって、ほぼ同じよーな時代のアニメ作品なンで感触が似てるワケだが。で、そンなコトをゆってるオレ自身のイヤらしさをも認めるよーなハメになるが、しかしそうだ。
さらに。追ってカミーユらが参加した戦いの双方の軍隊チックな組織には、どーゆうワケだか、パイロットとゆう部門に女性が多し。そしてこの方々が無イミに胸の目立つ服を着て(イヤ本当は大いにイミあるが)、しかもなかなか女クサく振るまうので、組織のフンイキが双方でヘンにイヤらしぃ。
とゆうトコで初代ガンダムを見直すと、コッチもまったくイヤらしくないオハナシだとは言えない。まず何ンせララァとシャアの関係がひじょうにイヤらしぃし、またサイド6を出航するさいにミライが3人のオトコらを巻き込んで大痴話ゲンカ…なンてゆうイヤらしぃメイ場面もあったが。
しかし全般テキにはそンなにイヤらしくないハズで、画面テキにも色気がほとんどない。たとぇば、ホワイトベースの少年兵たちがマチルダをマドンナのよーに慕う…とゆうくだりをご存じだろーけど、そのエピソードにイヤらしさを感じるとゆうお方は、ほぼおられぬのでは、と。
その一方、だぃたぃ主人公の父親が愛人を囲ッてて、妻を放ッとぃてソッチに入れあげてるコトをムスコは大いに知りまくり…とゆう初期設定からして「Z」はイヤらしぃ。そしてその父たるジンブツが、生きるか死ぬかのロボット戦の最中に、その愛人のHな姿を脳裡に浮かべて想わずニヤニヤ…とはまた、イヤらしぃにもホドがあるッ! あと確か敵側にもう1人、その死のまぎわにカレの愛人のエロ姿態を想い浮かべる(!)、とゆうヒトがいたよーだし。
ところで初代ガンダムで、ミライを囲んでオトコら3ビキが…とゆうハナシが出たけど、その場面でイヤらしぃ態度なのは意外とミライで、むしろオトコらのタイドはイヤらしくない。特に3ビキの中でもブライト艦長は、可能な限り自分を抑えててリッパだと感じられる(…付言して、ミライのよーな女性が地味顔のクセにオトコらを手玉に取るよーな展開になる…とは、逆にあるよーなコトでリアルだ。ソレに対し、誰がどー見ても美人サンのセイラには、逆に浮いたハナシがない…ソコもまたホントらしぃ)。
ところがその一方、「Z」のヘンケン艦長は自分が部下のエマ・シーンに岡惚れしてるコトをまったく隠せておらず、それでカレの艦内のフンイキをヘーキでイヤらしくしてやがるのだった。
そしてそのよーなアニメのヒーローであり、かつその実の父がそーゆうヒトであるからには、われらのカミーユ君がリッパなむっつりスケベであるコトには、何ンンもフシギがない。だがココはあんまし責めてなくて、筆者はカミーユ君にはかなり共感デキる部位がある。
オハナシの発端で両親を、ソレもタイヘンに無残なカタチで失ったカミーユ君は、カレがまぎれ込んだエウーゴのパイロットのおねー様たちに、やさし~くいたわってもらいたいのがヤマヤマだ。ソコらを大いに期待してるのだが、しかしアッサリと彼女らにツキ放され、ゼンゼンかまってもらえない…とゆうウキ目を見るのだった。(『Pt.2』へ続く)
2009/09/21
黒死館の彼岸、でなくその手前に Pt.2 - イノセンス(2)
(『Pt.1』からの続き…)ところで筆者は、『押井守「イノセンス」-と-小栗虫太郎「黒死館殺人事件」』とゆう作品ら2コを、恣意的に並べてみてる…とゆう気がしない。ドッチも一種の謎解きミステリーである…などとゆう共通項だけでは大マカすぎだが、この2コにはさらに、『人形、自動人形、人形愛』…とゆうモチーフのカブリもある。
「黒死館」には、物語のスタート以前に死んだ先代当主が(カレの亡妻の生き写しとして)愛した≪自動人形テレーズ≫、とゆうモノが登場する。そして最初の殺人の後、メイ探偵の法水は、ホンキではなかったのかも知れないが、『犯人もしくは殺人の手段がテレーズだったのでは?』…のよーなコトを言う。
その一方のわれらが「イノセンス」はストレートにも、『人形がヒトを殺す』とゆうオハナシではある。少なくとも、直接の殺人の手段が人形(アンドロイド)によるモノであるコトはマチガイない。そしてその人形らは≪性交≫の機能をも有するシロモノで、ハッキリ申せばロリコンの金持ちオヤジらの愛玩用ロボメイドで…と、ココもまた設定がストレートになっている。
(ストレートな反復…とゆうなら大余談だが、竜騎士07「うみねこのなく頃に」とゆう多メディア作品が大きな注目の中で現在進行中で、筆者もそのコミック版の第1巻を読んだが。コレがまたストレートに「黒死館」のフンイキをいま風のモードで反復してるモノであり、ソレへの1コのオマージュであろうとしか見れない。そーすると意外にも、この21世紀初頭に「黒死館」を反復するコトは、大いにアリなのやも?)
また。「黒死館殺人事件」(1935)とゆう長ぁ~い小説のド中盤、その館の新たな主人になろーかと目されてる青年が、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」(1911)のメロディを口笛で吹きながら登場する。よりにもよってそんな曲を登場のテーマにするなンて、さすが≪黒死館≫の住人だ、と筆者のよーな凡人はビックリする場面だが…(ちなみに≪黒死館≫の主な住人らは、総じてクラシック音楽のすぐれた素養を有する)。
そーするとメイ探偵の法水はその青年をつかまえて、カレがカビ臭いウンチクのみならず、同時代の『前衛』芸術にも明るいトコを見せる。
『僕はその「ペトルーシュカ」が、ストラヴィンスキーの作品の中では、一番好ましいと思っているのです。恐ろしい原罪哲学じゃありませんか。人形にさえ、口を空いている墳墓(はかあな)が待っているのですからね』(小栗虫太郎「黒死館殺人事件」, 第三篇の三)
とゆわれて想ったのだが、筆者はバレエ作品「ペトルーシュカ」の音楽にはけっこーなじみがあるけれど、ソレがどんなオハナシかは知らンかった。…とゆうか、『どんなオハナシなの?』とゆうギモンをいだいたコトさえもなかった。ソコでこのさい調べてみたらコレは、命を吹き込まれた人形らの物語なのだった。
カーニバルの見世物用に魔術師が、主人公のペトルーシュカ、美貌のバレリーナ、そして勇ましいムーア人…とゆう3体の人形に命を与える。≪心≫を手に入れたペトルーシュカはバレリーナに恋をするが、しかし彼女はムーア人になびき、主人公は相手にされない。さらにカレは、産みの親の魔術師からもナゼだかウトまれ気味だ。
そーしてしまいにペトルーシュカは、ムーア人に追いかけ廻されたアゲクに惨殺され、ハラワタ代わりのワラ束を引きずり出されてしまう。ソレが公衆の面前でなされたのだが、しかし人々は『タカが人形のコトだし』と気にも留めぬ…とゆった、こりゃ~またイヤなオハナシではある。音楽だけを聞いてたいままでは、『カーニバル的なフンイキはあるなァ』とゆう感じしか受けとってなかッた。
よって法水のゆってンのはまず、『人形とても、死ぬときは死ぬ』くれーのコトだろう。ンだがソコへと、『原罪哲学』とゆうムズぃコトバが付随してンのはナゼか?
ソレはペトルーシュカが≪心≫を持ったコトが、神にそむいたイヴとアダムがムダにチエをつけ『性欲』をも得るハメになった≪原罪≫と、同一視されてンのだ…と考えられる。そーしてヒトと同等になったモノはヒトらと同等の≪原罪≫をもしょい込むハメになり、そしてヒトらと同等の死すべき運命(さだめ)をもしょい込むのだ。
するとけっきょく≪ペトルーシュカ≫とは、他ならぬわれわれのコトではなかろーか…とゆうハナシになり気味だ。異なるとゆえば、ニンゲンであって人形でないところのわれわれは、『人形の死』などには気を留めない…とゆうコトだ。
(なお、「黒死館殺人事件」にての≪人形≫とゆうモチーフは、そンなには掘り下げられてもない、とは付記しとく。いまご紹介した場面は青年に向かって法水が、『アンタ、人形を使ってナニかやってない?』とゆう揺さぶりをカケてンのだ…的に見れる)
ところでココからはネタばらしのよーなハナシになるので…と、皆さまにごチューイを促しつつ。
まず発端に、愛玩用の少女型アンドロイドが暴走し、その持ち主を殺したアゲクに『タスケテ…』とうめき声を挙げながら自らをも破壊…とゆう事件の続発。とゆうトコから始まった「イノセンス」のヒーローたちの捜査はさいご、ナマ身の少女たちの救出で終わる。
したくないンだが『説明』すれば、悪のロボットメーカーが、単なる電子頭脳のアンドロイドでは出せないテイストを出すタメ、かつ顧客側の見かけ上の合法性を確保するタメに、ナマの少女らの魂をアンドロイドに吹き込んで販売してた。その気の毒な少女らが救けを求めて、アンドロイドに暴走事故を起こさしてた…のよーなオハナシらしーが、今作は。
とゆう≪真相≫を知った上でヒーローが、かわいそーな少女の1人に向かってゆったセリフが出色だ。いわく、『魂を吹き込まれた人形がどうなるかは、考えなかったのか?』。
その場でどーしてそーゆうセリフが出てクるのかを、まったくリカイできなかッた筆者は、大いなる自信を持って『アイ・アム・リッパな凡人でござる!』とゆえそーかも。けれど「ペトルーシュカ」のオハナシを見た上では、むげに人形に≪魂≫を吹き込むのも罪やも知れぬ…とまでは、思えなくもない。けれどそーゆうコトをしたいのが、ニンゲンとゆう生き物なのだ。ヒトの≪原罪≫とゆうモノがあるとすれば、ソレだろう。
ところでだが、「イノセンス」の原作の「攻殻機動隊」とゆう作品世界の中ではサイボーグ技術およびロボット工学がヒジョーにススンでるが、しかし作中で『ゴースト』と呼ばれるヒトの≪魂≫のよーなモノまでは製作デキないらしぃ。だからこそロリコンのオジ様らをマン足さすタメのアンドロイドにも、ナマ身の要素が必要だったワケだ。
そーして『作り物のボディに≪魂≫が入ってる』とゆうその状態は、おなじみこのシリーズのヒロイン≪少佐≫がまた同じ、かと想うのだが。
そーしてこのオハナシは、一方に肉体とカンケイなく≪魂≫があるとゆうリッパな観念論と、また一方の≪神人同形論≫とにブンレツしてて、マトモな焦点をなしえてない(…ただし『テーマ論的に破綻してれば駄作である』、ともゆってない)。
そーしてシリーズ第1作を反復し、『女体っぽぃ作りモノの崩壊=アンチ・ヌーディティとも呼べるヌーディティ』の提示に始まって、ナゼかさいごは再び≪ロリ少女≫の現出によって終わるこの作品が示してるコトは、少なくとも1つ…題名に言われた≪イノセンス(無垢)≫を求め、ソレをどーにかしたいとゆう≪欲望≫の遍在であるにはチガいない。イヤなコトを申すけど今作に描かれたよーに、ロリコンのオジ様も≪人形≫を欲し、小さな女の子たちもまた≪人形≫とたわむれ遊びたがるのだ。そーして≪無垢≫を求めるヒトビトは自分こそを無垢だと考えたくて、そしてその≪罪≫を重ねる。
【付記】:コレをカィてる最中にフと部屋のBGMを止めたら、遠くからチンドン屋のお囃子が聞こえてキた。想ったよりもすぐに止んでしまったが、タブン幻聴ではなさげ。
筆者にとっては、『押井守作品』を音楽的に特徴づけるのがチンドン屋の演奏とウットーしぃド演歌なので、こーゆう現象はトーゼンありうるかと考える。
「黒死館」には、物語のスタート以前に死んだ先代当主が(カレの亡妻の生き写しとして)愛した≪自動人形テレーズ≫、とゆうモノが登場する。そして最初の殺人の後、メイ探偵の法水は、ホンキではなかったのかも知れないが、『犯人もしくは殺人の手段がテレーズだったのでは?』…のよーなコトを言う。
その一方のわれらが「イノセンス」はストレートにも、『人形がヒトを殺す』とゆうオハナシではある。少なくとも、直接の殺人の手段が人形(アンドロイド)によるモノであるコトはマチガイない。そしてその人形らは≪性交≫の機能をも有するシロモノで、ハッキリ申せばロリコンの金持ちオヤジらの愛玩用ロボメイドで…と、ココもまた設定がストレートになっている。
(ストレートな反復…とゆうなら大余談だが、竜騎士07「うみねこのなく頃に」とゆう多メディア作品が大きな注目の中で現在進行中で、筆者もそのコミック版の第1巻を読んだが。コレがまたストレートに「黒死館」のフンイキをいま風のモードで反復してるモノであり、ソレへの1コのオマージュであろうとしか見れない。そーすると意外にも、この21世紀初頭に「黒死館」を反復するコトは、大いにアリなのやも?)
また。「黒死館殺人事件」(1935)とゆう長ぁ~い小説のド中盤、その館の新たな主人になろーかと目されてる青年が、ストラヴィンスキー「ペトルーシュカ」(1911)のメロディを口笛で吹きながら登場する。よりにもよってそんな曲を登場のテーマにするなンて、さすが≪黒死館≫の住人だ、と筆者のよーな凡人はビックリする場面だが…(ちなみに≪黒死館≫の主な住人らは、総じてクラシック音楽のすぐれた素養を有する)。
そーするとメイ探偵の法水はその青年をつかまえて、カレがカビ臭いウンチクのみならず、同時代の『前衛』芸術にも明るいトコを見せる。
『僕はその「ペトルーシュカ」が、ストラヴィンスキーの作品の中では、一番好ましいと思っているのです。恐ろしい原罪哲学じゃありませんか。人形にさえ、口を空いている墳墓(はかあな)が待っているのですからね』(小栗虫太郎「黒死館殺人事件」, 第三篇の三)
とゆわれて想ったのだが、筆者はバレエ作品「ペトルーシュカ」の音楽にはけっこーなじみがあるけれど、ソレがどんなオハナシかは知らンかった。…とゆうか、『どんなオハナシなの?』とゆうギモンをいだいたコトさえもなかった。ソコでこのさい調べてみたらコレは、命を吹き込まれた人形らの物語なのだった。
カーニバルの見世物用に魔術師が、主人公のペトルーシュカ、美貌のバレリーナ、そして勇ましいムーア人…とゆう3体の人形に命を与える。≪心≫を手に入れたペトルーシュカはバレリーナに恋をするが、しかし彼女はムーア人になびき、主人公は相手にされない。さらにカレは、産みの親の魔術師からもナゼだかウトまれ気味だ。
そーしてしまいにペトルーシュカは、ムーア人に追いかけ廻されたアゲクに惨殺され、ハラワタ代わりのワラ束を引きずり出されてしまう。ソレが公衆の面前でなされたのだが、しかし人々は『タカが人形のコトだし』と気にも留めぬ…とゆった、こりゃ~またイヤなオハナシではある。音楽だけを聞いてたいままでは、『カーニバル的なフンイキはあるなァ』とゆう感じしか受けとってなかッた。
よって法水のゆってンのはまず、『人形とても、死ぬときは死ぬ』くれーのコトだろう。ンだがソコへと、『原罪哲学』とゆうムズぃコトバが付随してンのはナゼか?
ソレはペトルーシュカが≪心≫を持ったコトが、神にそむいたイヴとアダムがムダにチエをつけ『性欲』をも得るハメになった≪原罪≫と、同一視されてンのだ…と考えられる。そーしてヒトと同等になったモノはヒトらと同等の≪原罪≫をもしょい込むハメになり、そしてヒトらと同等の死すべき運命(さだめ)をもしょい込むのだ。
するとけっきょく≪ペトルーシュカ≫とは、他ならぬわれわれのコトではなかろーか…とゆうハナシになり気味だ。異なるとゆえば、ニンゲンであって人形でないところのわれわれは、『人形の死』などには気を留めない…とゆうコトだ。
(なお、「黒死館殺人事件」にての≪人形≫とゆうモチーフは、そンなには掘り下げられてもない、とは付記しとく。いまご紹介した場面は青年に向かって法水が、『アンタ、人形を使ってナニかやってない?』とゆう揺さぶりをカケてンのだ…的に見れる)
ところでココからはネタばらしのよーなハナシになるので…と、皆さまにごチューイを促しつつ。
まず発端に、愛玩用の少女型アンドロイドが暴走し、その持ち主を殺したアゲクに『タスケテ…』とうめき声を挙げながら自らをも破壊…とゆう事件の続発。とゆうトコから始まった「イノセンス」のヒーローたちの捜査はさいご、ナマ身の少女たちの救出で終わる。
したくないンだが『説明』すれば、悪のロボットメーカーが、単なる電子頭脳のアンドロイドでは出せないテイストを出すタメ、かつ顧客側の見かけ上の合法性を確保するタメに、ナマの少女らの魂をアンドロイドに吹き込んで販売してた。その気の毒な少女らが救けを求めて、アンドロイドに暴走事故を起こさしてた…のよーなオハナシらしーが、今作は。
とゆう≪真相≫を知った上でヒーローが、かわいそーな少女の1人に向かってゆったセリフが出色だ。いわく、『魂を吹き込まれた人形がどうなるかは、考えなかったのか?』。
その場でどーしてそーゆうセリフが出てクるのかを、まったくリカイできなかッた筆者は、大いなる自信を持って『アイ・アム・リッパな凡人でござる!』とゆえそーかも。けれど「ペトルーシュカ」のオハナシを見た上では、むげに人形に≪魂≫を吹き込むのも罪やも知れぬ…とまでは、思えなくもない。けれどそーゆうコトをしたいのが、ニンゲンとゆう生き物なのだ。ヒトの≪原罪≫とゆうモノがあるとすれば、ソレだろう。
ところでだが、「イノセンス」の原作の「攻殻機動隊」とゆう作品世界の中ではサイボーグ技術およびロボット工学がヒジョーにススンでるが、しかし作中で『ゴースト』と呼ばれるヒトの≪魂≫のよーなモノまでは製作デキないらしぃ。だからこそロリコンのオジ様らをマン足さすタメのアンドロイドにも、ナマ身の要素が必要だったワケだ。
そーして『作り物のボディに≪魂≫が入ってる』とゆうその状態は、おなじみこのシリーズのヒロイン≪少佐≫がまた同じ、かと想うのだが。
そーしてこのオハナシは、一方に肉体とカンケイなく≪魂≫があるとゆうリッパな観念論と、また一方の≪神人同形論≫とにブンレツしてて、マトモな焦点をなしえてない(…ただし『テーマ論的に破綻してれば駄作である』、ともゆってない)。
そーしてシリーズ第1作を反復し、『女体っぽぃ作りモノの崩壊=アンチ・ヌーディティとも呼べるヌーディティ』の提示に始まって、ナゼかさいごは再び≪ロリ少女≫の現出によって終わるこの作品が示してるコトは、少なくとも1つ…題名に言われた≪イノセンス(無垢)≫を求め、ソレをどーにかしたいとゆう≪欲望≫の遍在であるにはチガいない。イヤなコトを申すけど今作に描かれたよーに、ロリコンのオジ様も≪人形≫を欲し、小さな女の子たちもまた≪人形≫とたわむれ遊びたがるのだ。そーして≪無垢≫を求めるヒトビトは自分こそを無垢だと考えたくて、そしてその≪罪≫を重ねる。
【付記】:コレをカィてる最中にフと部屋のBGMを止めたら、遠くからチンドン屋のお囃子が聞こえてキた。想ったよりもすぐに止んでしまったが、タブン幻聴ではなさげ。
筆者にとっては、『押井守作品』を音楽的に特徴づけるのがチンドン屋の演奏とウットーしぃド演歌なので、こーゆう現象はトーゼンありうるかと考える。
黒死館の彼岸、でなくその手前に Pt.1 - イノセンス(1)
ヒトはカンジンなコトを言わないタメに、どーでもいいコトをペラペラとまくしたてる。分かッた上での所業だとしても、われらが押井守作品は、ソレの見本を示してるよーなトコはある…以下で話題になる「イノセンス」を、その傾向の筆頭として。
あるぃは。…柿を食べていて、予想外にタネを思いっきり噛ンでしまうと歯が痛い。柿なんて大して美味いモンでもねークセして、こンなふーにニンゲン様を苦しめるとはシッケイ千万だ。ヒトが、押井作品の一大特徴かとも見られる『無イミなウンチクのタレ流し』を喰らッた時の感じ方は、まぁだぃたぃそんなモノでもあるのかも。
で、はたしてソコでのモンダイは、その果肉が大して美味くもないコトにあるのか、またはそのタネがムダにカタすぎるコトにあるのだろーか?
ところでウンチクとゆうンなら、筆者はタマタマ先日、小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(1935)を読み返したトコで。コッチがコレまた、トホーもないウンチク小説なのだった。
しかも。われらが見ている押井守「イノセンス」劇中にタレ流されるウンチク…この場合だと名言・箴言の類は、そのフレーズら自体は“誰”も知らずとも、ソレをゆったのは相当マトモっぽぃ有名人たちだ(孔子、プラトン、ラ・メトリ、ミルトン…等々々)。
しかし一方の「黒死館」はヒドくって、むしろ中世史や近代史の忘れたい汚点に近いよーな、ヘンクツ学者とか魔術研究家とか異端の宗教家とか…そのテのヤカラの妄言に近いよーな奇説チン説らを、メイ探偵の≪法水麟太郎≫がご紹介なさりまくるッ。このヒーローの言うによれば、ソレらの奇説チン説らこそ、カレらが≪真相≫へ向かうタメのキーなのだ。
だぃたぃその作品、「黒死館殺人事件」とゆうモノ自体が全般テキには、ゲーテ「ファウスト」をネタとした≪見立て殺人≫のナゾを解く…のよーなオハナシになってるかと感じたが。そしてココでのゲーテもまた、啓蒙シュギ者としてのカレでなく、そのワリと神秘家テキなトコにスポットが当てられてンのだった。
で、現場での捜査中だッてぇのにそンなウンチクらをブツけられたお供の検事と刑事は『またか』とタメ息をつき、『ソレは分かったから、事件をマジメに検討しよう』のよーに受け流す。検事と刑事では少々応じ方がチガってて、検事はいちおう法水のウンチクを受けとめるが、豪腕派の刑事はそもそもまったくハナシにツィてけない。
と、そのワキ役ら2人が、筆者のよーな凡人の代理として作中で、法水のウンチク攻撃を喰らってくれるのだが。けれども大ビックリなのは、モンダイの≪黒死館≫に閉じ込められて陰ウツきわまる生活を送ってる住人たちは、何ンらビックリもせず法水のウンチク大会にヘーキでツキ合ってみせるとゆうコトだ。
とゆう彼岸の住人らがヘーゼンと魔術や神秘シュギを素で語り、そしてヨコ文字のポエムをスラスラと暗唱しあってるよーなダイアログが、オレのよーな凡人にはまったくツィてけないトコであり。そして同時に、筆者にはひじょうに笑える≪ギャグ≫のさくれつなのだ。ゆわれてる『内容』はどーでもイイのだがお芝居として、ヒトとヒトとの間に存在してるキョリを、ソレらウンチクの洪水がアバきたてるのだ。
ソレと筆者においてユカイなのは、その「黒死館殺人事件」においてメイ探偵・法水が2回にわたってフロイトの説を引き、カレのアッパレなメイ推理のウラ付けにしてるコトだ。法水がそのよーに扱うとゆうコトは逆に、筆者が大ソンケイするフロイト様が、オモシロ奇説やチン説をよくしたヘンクツ学者だ…と言われてるよーな気がするのだ。ただし法水はアインシュタインの学説をもチョー独断テキにに利用してて、ソレと同等くらいの扱いではあるのだが。
『だいたいが真理などと云うものは、往々に、牽強附会この上なしの滑稽劇(バーレスク)にすぎない場合がある。しかも、きまっていつも、それは平凡な形で足下に落ちているものではないか。』(小栗虫太郎「黒死館殺人事件」, 第五篇の一)
…とゆう見方のあるコトが、この作品「黒死館殺人事件」を、すぐれてフロイト的なシロモノにしてる。フロイトにしろ法水にしろ、牽強付会でコッケイかつ平凡すぎるよーなコトらを≪真理≫かと言い立ててわれわれを笑わせるのだが、けどソレを単なる善意のサービスとだけも言えない。
ソレコレによって「黒死館殺人事件」のヒーローたる法水のウンチク攻撃は、実はそンなに無イミにタレ流されてるモンでもなくて。ソレは≪真理≫の発見に向かっての必要な迂回かと見られ、かつそのウンチクに応酬してくるジンブツらに対し、心理テキなトラップをシカケてるのでもある。その≪発話内容≫には大したイミがないとしても、カレがあまりにも無イミそーなコトばっかゆってる≪発話行為≫は、最後にはリッパなイミをなすのだ。
(ただし筆者には、「黒死館殺人事件」が『ミステリー』作品として、全般テキにスジの通ったモンなのかどーか?…が、よく分かッてない)
と、ゆうモノを見た上だと。われらが押井カントクの作品「イノセンス」におけるウンチクのタレ流しは、どのよーに見えるだろーか?(『Pt.2』へ続く)
あるぃは。…柿を食べていて、予想外にタネを思いっきり噛ンでしまうと歯が痛い。柿なんて大して美味いモンでもねークセして、こンなふーにニンゲン様を苦しめるとはシッケイ千万だ。ヒトが、押井作品の一大特徴かとも見られる『無イミなウンチクのタレ流し』を喰らッた時の感じ方は、まぁだぃたぃそんなモノでもあるのかも。
で、はたしてソコでのモンダイは、その果肉が大して美味くもないコトにあるのか、またはそのタネがムダにカタすぎるコトにあるのだろーか?
ところでウンチクとゆうンなら、筆者はタマタマ先日、小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(1935)を読み返したトコで。コッチがコレまた、トホーもないウンチク小説なのだった。
しかも。われらが見ている押井守「イノセンス」劇中にタレ流されるウンチク…この場合だと名言・箴言の類は、そのフレーズら自体は“誰”も知らずとも、ソレをゆったのは相当マトモっぽぃ有名人たちだ(孔子、プラトン、ラ・メトリ、ミルトン…等々々)。
しかし一方の「黒死館」はヒドくって、むしろ中世史や近代史の忘れたい汚点に近いよーな、ヘンクツ学者とか魔術研究家とか異端の宗教家とか…そのテのヤカラの妄言に近いよーな奇説チン説らを、メイ探偵の≪法水麟太郎≫がご紹介なさりまくるッ。このヒーローの言うによれば、ソレらの奇説チン説らこそ、カレらが≪真相≫へ向かうタメのキーなのだ。
だぃたぃその作品、「黒死館殺人事件」とゆうモノ自体が全般テキには、ゲーテ「ファウスト」をネタとした≪見立て殺人≫のナゾを解く…のよーなオハナシになってるかと感じたが。そしてココでのゲーテもまた、啓蒙シュギ者としてのカレでなく、そのワリと神秘家テキなトコにスポットが当てられてンのだった。
で、現場での捜査中だッてぇのにそンなウンチクらをブツけられたお供の検事と刑事は『またか』とタメ息をつき、『ソレは分かったから、事件をマジメに検討しよう』のよーに受け流す。検事と刑事では少々応じ方がチガってて、検事はいちおう法水のウンチクを受けとめるが、豪腕派の刑事はそもそもまったくハナシにツィてけない。
と、そのワキ役ら2人が、筆者のよーな凡人の代理として作中で、法水のウンチク攻撃を喰らってくれるのだが。けれども大ビックリなのは、モンダイの≪黒死館≫に閉じ込められて陰ウツきわまる生活を送ってる住人たちは、何ンらビックリもせず法水のウンチク大会にヘーキでツキ合ってみせるとゆうコトだ。
とゆう彼岸の住人らがヘーゼンと魔術や神秘シュギを素で語り、そしてヨコ文字のポエムをスラスラと暗唱しあってるよーなダイアログが、オレのよーな凡人にはまったくツィてけないトコであり。そして同時に、筆者にはひじょうに笑える≪ギャグ≫のさくれつなのだ。ゆわれてる『内容』はどーでもイイのだがお芝居として、ヒトとヒトとの間に存在してるキョリを、ソレらウンチクの洪水がアバきたてるのだ。
ソレと筆者においてユカイなのは、その「黒死館殺人事件」においてメイ探偵・法水が2回にわたってフロイトの説を引き、カレのアッパレなメイ推理のウラ付けにしてるコトだ。法水がそのよーに扱うとゆうコトは逆に、筆者が大ソンケイするフロイト様が、オモシロ奇説やチン説をよくしたヘンクツ学者だ…と言われてるよーな気がするのだ。ただし法水はアインシュタインの学説をもチョー独断テキにに利用してて、ソレと同等くらいの扱いではあるのだが。
『だいたいが真理などと云うものは、往々に、牽強附会この上なしの滑稽劇(バーレスク)にすぎない場合がある。しかも、きまっていつも、それは平凡な形で足下に落ちているものではないか。』(小栗虫太郎「黒死館殺人事件」, 第五篇の一)
…とゆう見方のあるコトが、この作品「黒死館殺人事件」を、すぐれてフロイト的なシロモノにしてる。フロイトにしろ法水にしろ、牽強付会でコッケイかつ平凡すぎるよーなコトらを≪真理≫かと言い立ててわれわれを笑わせるのだが、けどソレを単なる善意のサービスとだけも言えない。
ソレコレによって「黒死館殺人事件」のヒーローたる法水のウンチク攻撃は、実はそンなに無イミにタレ流されてるモンでもなくて。ソレは≪真理≫の発見に向かっての必要な迂回かと見られ、かつそのウンチクに応酬してくるジンブツらに対し、心理テキなトラップをシカケてるのでもある。その≪発話内容≫には大したイミがないとしても、カレがあまりにも無イミそーなコトばっかゆってる≪発話行為≫は、最後にはリッパなイミをなすのだ。
(ただし筆者には、「黒死館殺人事件」が『ミステリー』作品として、全般テキにスジの通ったモンなのかどーか?…が、よく分かッてない)
と、ゆうモノを見た上だと。われらが押井カントクの作品「イノセンス」におけるウンチクのタレ流しは、どのよーに見えるだろーか?(『Pt.2』へ続く)
2009/09/16
不ケンコー全裸系! - 攻殻機動隊(1)
この作品、「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」を初めて見たのはLate 1990's、いまはない池袋文芸座地下の押井守特集、とゆう機会にてだった。細かいコトをイロイロ記録されてる方々がおられるので、調べるとソレは何年何月の第何週、とゆうくらぃは判明するかも知れぬ。
で、その時の印象だが…。『アッケにとられたまま、池袋から家までの夜道を戻った』とゆうのがショージキなトコだ。とゆうのは、決してホメてない。『押井は、もぉイイや』とゆう想いをいたしたコトも憶えてる。
(…あと1コふしぎなのは、文芸座だからタブン2本立てだったろーに、併映作品をまったく憶えてない。ソレはすでに見た作品だったので、その場では見なかったのかも?)
ソレがまー、ご覧のブログを始めてしまったとゆうキッカケで、今作こと「攻殻機動隊」を再見してみたが…。
押井ファンの方々におかれてはご存じなさそーなコトから申すと、少年マガジンに載ってた「ケンコー全裸系水泳部ウミショー」とゆうまんが作品がある(作・はっとりみつる, 2006, KC少年マガジン, 全9巻)。コレは『スポ根系ラヴコメギャグショート』とゆうチャレンジングなスタイルの創作で、そのヒロインたる沖縄の離島生まれのド天然少女は、羞恥心がひじょうに足りない。
その子が江ノ島っぽぃ神奈川の高校に転入してキて、そして入部した水泳部のキャプテンがアッパレな変質者であり、カレは羞恥心がない。で、コイツら2ヒキの相乗作用によって、オハナシはスポ根要素をカラめてのハレンチなドタバタギャグになる。別にオススメしないけど、ギャグ要素の濃い初期はけっこー面白い(…しかし同作のTVアニメ版は、最初の2回しか見なかったが、単なるラブコメなのではと)。
『ソレをふまえて』…とゆうツモリなどまったくあるワケもなかったが、けれどもこのたび「攻殻機動隊」を再見してみたら、『不ケンコー全裸系サイバーアクション』とゆうフレーズが脳裡に浮かんでキたのだった。「攻殻機動隊」とゆう作品の描くところを『不健康』と言い切れるかどーかは知らンが、少なくともケンコーでなさそーなコトだけは確かでは?
「ウミショー」のヒロインもコッチのヒロインもちゅうちょなく全裸になるが、≪羞恥≫がないところでの全裸ごときには、フツーの意味でのイロケがない。特に『コッチのヒロイン』とゆわれた≪少佐≫のカラダは、無イミにキン肉をツケ足されたマネキン人形かのよーで…。しかもじっさいに作り物の『義体』だとゆう設定がツィてンだから、いまの語でゆうなら『萌え』よーがない。と、言い切りたいトコではあるが…。
今作「攻殻機動隊」が描いてるテカテカの作り物の≪裸(ら)≫、エロスとゆうか性的な機能性を剥ぎ取られたマネキン的な≪裸≫、解体されたり崩壊したりしてそのグロテスクな内部をムキだしにする≪裸≫。『萌え』ではなくして、『萎え』をもたらすよーな≪裸≫。
ソレらを称して、『アンチ・ヌーディティ』とでも呼びたいよーには想うンだけど。しかしその『アンチ・ヌーディティ』もまた、『ヌーディティ』の一種に他ならぬコトは明らかだ。
だから、この…。ハッキリゆうならタイクツきわまる作品の冒頭に少佐の過剰な≪裸≫が、その“内部”までも超ムキ出しになってるコトは、『プロダクションの勝利』とでも形容しとくべき快挙なのでは? そーして少佐の義体のホーカイ気味な≪裸≫の提示は、かの大メイ作、フリッツ・ラング「メトロポリス」の大ヤマ場…アンドロイド≪マリア≫の肉体が焼け崩れるシーンを反復しつつ、あわせて見る者らの≪享楽≫をアオり立てる。さきに筆者の脳裡に浮かんだコトバ…『不ケンコー全裸系』とは、あるいはコレらのコトか。
しかもオハナシのケツ末で、終盤のドサクサにズタボロになってしまった少佐の義体は、≪ロリ少女≫とゆうカタチのモノに換えられている。とゆう眺めを見て、かって池袋のオレは呆れるばかりだったが、いまの自分は『大した≪ギャグ≫だ!』と感心してる。
無イミにゴツぃマネキン人形かのよーだったモノから≪ロリ少女≫へ、記号は記号へと変換される。「攻殻機動隊」と呼ばれるこの作品は、表面上のオハナシとはまったくカンケイなさそーなトコで、1つの問いを提出してるのだ。すなーち、『性的な機能のないモノが、性的な記号として機能する、とはコレいかに?』、と。
スマンが筆者が正しい答をゆっちゃえば、ソレはニンゲンらの性的活動が、『本能』とやらとは無カンケイな≪記号活動≫だから…てぇコトになる。オーガズムとゆう現象は生理テキなモノではあるが、ソレにいたるべくしてニンゲンらはあらゆる記号操作をヤる。
(逆のトコも見とくと、「ウミショー」のヒロインの≪裸≫は単なる裸であって記号性に乏しいので『イロケ』がない)
で、コレをはじめに押井作品らのモンダイ設定には、カンタンなコトでもわざーざミスリードするよーに構成してる…とゆうトコが見うけられるが、まぁソレはよい。
かつまた。ニンゲンの性が記号活動である一方で、記号(シニフィアン)とゆうモノの根源に性的な≪イミ≫があると考えてるわれわれは、また別のニンゲンについての問い…『服を着たから体毛がなくなったのか、体毛がなくなったから服を着たのか?』を、反復してる感じもなくない。で、その、『ナゼにニンゲンには体毛がないのか?』とゆう問いに対し、『その方が、性的にキモチいいから。』とゆう説をマジで提唱してる学者サンもいてなはるとか(!)。
一方、今作の劇中で少佐が示してる『“特殊化”は、意外とよろしくない』とゆう見方に従えば、その問いへの答は、『状況に応じて、イロんな服に着替えデキる方がベンリだから』となるだろう。コレもまた一定の正しさを有する答かとは考えられ、ゆえに人類はアレコレと≪コスプレ≫を愉しむコトがデキるワケだ。
ところで、「ウミショー」のアニメ版を2回だけ見て想ったンだが。原作まんがのワリと下手クソで未整理にゴチャゴチャと描かれたモノを、集団制作のアニメでスッキリ整理して描き直してしまうと、『何ンかイヤらしいばかりだなァ』…とゆう感じになり下がってる。と申した、『ヘタに整理すると、逆にイヤらしくなる』…とゆうテーゼは憶えといた方がよさげ。
さァて、しまいに。ココまでの堕文をご覧の賢明なる諸姉兄におかれては、トーゼンお気づきの方もおられよーけれど。今作「攻殻機動隊」の続編かと目される「イノセンス」は、いままでわれわれが見てキたポイントを…明示テキにはゆわれてなかった問いかけを、ややハッキリと提示したモノに他ならない。つまりこの連作を真に連結してるのは、≪機械の花嫁≫とゆうテーマ性…とゆうか、そのよーな性格をそなえた記号であり…。とゆうワケだが、今回の堕文はこのへんで。
で、その時の印象だが…。『アッケにとられたまま、池袋から家までの夜道を戻った』とゆうのがショージキなトコだ。とゆうのは、決してホメてない。『押井は、もぉイイや』とゆう想いをいたしたコトも憶えてる。
(…あと1コふしぎなのは、文芸座だからタブン2本立てだったろーに、併映作品をまったく憶えてない。ソレはすでに見た作品だったので、その場では見なかったのかも?)
ソレがまー、ご覧のブログを始めてしまったとゆうキッカケで、今作こと「攻殻機動隊」を再見してみたが…。
押井ファンの方々におかれてはご存じなさそーなコトから申すと、少年マガジンに載ってた「ケンコー全裸系水泳部ウミショー」とゆうまんが作品がある(作・はっとりみつる, 2006, KC少年マガジン, 全9巻)。コレは『スポ根系ラヴコメギャグショート』とゆうチャレンジングなスタイルの創作で、そのヒロインたる沖縄の離島生まれのド天然少女は、羞恥心がひじょうに足りない。
その子が江ノ島っぽぃ神奈川の高校に転入してキて、そして入部した水泳部のキャプテンがアッパレな変質者であり、カレは羞恥心がない。で、コイツら2ヒキの相乗作用によって、オハナシはスポ根要素をカラめてのハレンチなドタバタギャグになる。別にオススメしないけど、ギャグ要素の濃い初期はけっこー面白い(…しかし同作のTVアニメ版は、最初の2回しか見なかったが、単なるラブコメなのではと)。
『ソレをふまえて』…とゆうツモリなどまったくあるワケもなかったが、けれどもこのたび「攻殻機動隊」を再見してみたら、『不ケンコー全裸系サイバーアクション』とゆうフレーズが脳裡に浮かんでキたのだった。「攻殻機動隊」とゆう作品の描くところを『不健康』と言い切れるかどーかは知らンが、少なくともケンコーでなさそーなコトだけは確かでは?
「ウミショー」のヒロインもコッチのヒロインもちゅうちょなく全裸になるが、≪羞恥≫がないところでの全裸ごときには、フツーの意味でのイロケがない。特に『コッチのヒロイン』とゆわれた≪少佐≫のカラダは、無イミにキン肉をツケ足されたマネキン人形かのよーで…。しかもじっさいに作り物の『義体』だとゆう設定がツィてンだから、いまの語でゆうなら『萌え』よーがない。と、言い切りたいトコではあるが…。
今作「攻殻機動隊」が描いてるテカテカの作り物の≪裸(ら)≫、エロスとゆうか性的な機能性を剥ぎ取られたマネキン的な≪裸≫、解体されたり崩壊したりしてそのグロテスクな内部をムキだしにする≪裸≫。『萌え』ではなくして、『萎え』をもたらすよーな≪裸≫。
ソレらを称して、『アンチ・ヌーディティ』とでも呼びたいよーには想うンだけど。しかしその『アンチ・ヌーディティ』もまた、『ヌーディティ』の一種に他ならぬコトは明らかだ。
だから、この…。ハッキリゆうならタイクツきわまる作品の冒頭に少佐の過剰な≪裸≫が、その“内部”までも超ムキ出しになってるコトは、『プロダクションの勝利』とでも形容しとくべき快挙なのでは? そーして少佐の義体のホーカイ気味な≪裸≫の提示は、かの大メイ作、フリッツ・ラング「メトロポリス」の大ヤマ場…アンドロイド≪マリア≫の肉体が焼け崩れるシーンを反復しつつ、あわせて見る者らの≪享楽≫をアオり立てる。さきに筆者の脳裡に浮かんだコトバ…『不ケンコー全裸系』とは、あるいはコレらのコトか。
しかもオハナシのケツ末で、終盤のドサクサにズタボロになってしまった少佐の義体は、≪ロリ少女≫とゆうカタチのモノに換えられている。とゆう眺めを見て、かって池袋のオレは呆れるばかりだったが、いまの自分は『大した≪ギャグ≫だ!』と感心してる。
無イミにゴツぃマネキン人形かのよーだったモノから≪ロリ少女≫へ、記号は記号へと変換される。「攻殻機動隊」と呼ばれるこの作品は、表面上のオハナシとはまったくカンケイなさそーなトコで、1つの問いを提出してるのだ。すなーち、『性的な機能のないモノが、性的な記号として機能する、とはコレいかに?』、と。
スマンが筆者が正しい答をゆっちゃえば、ソレはニンゲンらの性的活動が、『本能』とやらとは無カンケイな≪記号活動≫だから…てぇコトになる。オーガズムとゆう現象は生理テキなモノではあるが、ソレにいたるべくしてニンゲンらはあらゆる記号操作をヤる。
(逆のトコも見とくと、「ウミショー」のヒロインの≪裸≫は単なる裸であって記号性に乏しいので『イロケ』がない)
で、コレをはじめに押井作品らのモンダイ設定には、カンタンなコトでもわざーざミスリードするよーに構成してる…とゆうトコが見うけられるが、まぁソレはよい。
かつまた。ニンゲンの性が記号活動である一方で、記号(シニフィアン)とゆうモノの根源に性的な≪イミ≫があると考えてるわれわれは、また別のニンゲンについての問い…『服を着たから体毛がなくなったのか、体毛がなくなったから服を着たのか?』を、反復してる感じもなくない。で、その、『ナゼにニンゲンには体毛がないのか?』とゆう問いに対し、『その方が、性的にキモチいいから。』とゆう説をマジで提唱してる学者サンもいてなはるとか(!)。
一方、今作の劇中で少佐が示してる『“特殊化”は、意外とよろしくない』とゆう見方に従えば、その問いへの答は、『状況に応じて、イロんな服に着替えデキる方がベンリだから』となるだろう。コレもまた一定の正しさを有する答かとは考えられ、ゆえに人類はアレコレと≪コスプレ≫を愉しむコトがデキるワケだ。
ところで、「ウミショー」のアニメ版を2回だけ見て想ったンだが。原作まんがのワリと下手クソで未整理にゴチャゴチャと描かれたモノを、集団制作のアニメでスッキリ整理して描き直してしまうと、『何ンかイヤらしいばかりだなァ』…とゆう感じになり下がってる。と申した、『ヘタに整理すると、逆にイヤらしくなる』…とゆうテーゼは憶えといた方がよさげ。
さァて、しまいに。ココまでの堕文をご覧の賢明なる諸姉兄におかれては、トーゼンお気づきの方もおられよーけれど。今作「攻殻機動隊」の続編かと目される「イノセンス」は、いままでわれわれが見てキたポイントを…明示テキにはゆわれてなかった問いかけを、ややハッキリと提示したモノに他ならない。つまりこの連作を真に連結してるのは、≪機械の花嫁≫とゆうテーマ性…とゆうか、そのよーな性格をそなえた記号であり…。とゆうワケだが、今回の堕文はこのへんで。
2009/09/15
Infrared Riding Hood, または 「人狼」vs.「もののけ姫」 - 人狼(1)
"Infrared Riding Hood"(赤外ずきんチャン)とは、T.A.D.とゆう1990'sのロックバンドのアルバム名だが。…もち聞いたコトはあるンだがしかし、『マズくもないけど、まぁモロにニルヴァーナもどきの“オルタナ”サウンドでやンすなァ…』とゆうヒドぃ感想しかない。またチャンと検討すれば、もチョッとマシなモノとして言えそーにも想いつつ。
で、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」とゆう映画に対しての感想もまた、そのレベル…とは言わンのだが! いまこの堕文には、そもそも今作が属する「ケルベロス・サーガ」てモンをどー見るか?…なンてコトを離れて、ただ1コのコトをカィておく。
すなーち。誰がどー見ても今作「人狼 JIN-ROH」の重要そーなモチーフとして、“誰も”がよく知る「赤ずきん」のメルヒェンはある。ところが作中で紹介される「赤ずきん」のオハナシの展開が、ミョーに耳なれないモノだ…とゆう感じをいだかれた方々がおられるのでは? ソコで語られるオハナシには、狼にダマされた赤ずきんチャンが自分の母の肉を喰いその血を呑む…なンてショッキングなシーンがあるが、『ソレはそーゆうストーリーだ』と想ってた方々が、どれだけおられるや?
さてタマタマだが、筆者は一時期『メルヒェンの研究』とゆうカイもなさそーなヒマごとに熱中してたので、多少はこのテの話題に明るいやも知れない。まず「赤ずきん」のオハナシのベースはもともとフランスから出たモノで、ソレをシャルル・ペローがかの超メイ著「過ぎし昔の物語」(1697, いわゆるペロー童話集)にカィたさいに、≪赤ずきん≫とゆうアイテムが初めてヒロインにそうびされたのだとゆう。
単なるアイテムとゆうよりか、あえてゆうならソコにて≪フェティッシュ≫がそうびされたのだ。ともあれ、ペロー以前の『野生の“赤ずきんチャン”たち』は、そンなハデなモノは身にツケてなかったらしぃ(!)。で、ソコでそのオハナシのヒロインに≪赤ずきん≫とゆうそうびがツィたコトに、イミがないワケは決してない。だが、ソレは後述するとして…。
その後にグリム兄弟が「子どもと家庭のメルヒェン集」(いわゆるグリム童話集, KHM)にカィた「赤ずきん」のオハナシは、ペローの創作が再び口承化されたモノが採取されたモノかのよーに言われる。で、ココはご存じの方も多いだろーが、ヒロインらが狩人によって救われてハッピーエンド…とゆうおなじみのケツ末は、バッドエンドのペロー版にはなかったモノだ。
またこのグリム童話集とゆうのが、1812年の初版から1857年の第7版までに、イロイロとカキ換えられてるモノで。いまはその詳細を調べよーかとゆう善意もないが、しかしグリム童話集の改版ごとのカキ換えの方向性は、ヒジョーにハッキリと一貫してる。ソレは主として、『1.女性蔑視、2.性(的)表現の抑圧、3.暴力描写のエスカレート』、とゆう三拍子だ。『グリム童話が、実は超コワぃ』とゆう説(?)を聞くコトがあるが、改版ごとにコワくなってるとゆう事実もまたある。
がしかし、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ』…なンてショッキングなエピソードは、ペローとグリムの両メジャー版にはない。ではありつつ、筆者が何ンかの研究書で読んだ『ペロー以前の、野生の“赤ずきんチャン”』には、ソレがある。
ソレはだぃたぃ、こーゆうオハナシだったかと記憶してる。前半部を超かいつまんで、映画の中で語られるよーにヒロインは狼にダマされ、“祖母”の肉を喰いその血を呑む。すると森のどうぶつたちが、『おやまぁこの子は、祖母の肉を食い血を呑んだよ!』と言う。
だがその後がズイブン違ってて、ナゼだかソレからミョーにアタマがサエてキたヒロインは、狼の目論見を見破る。ただしカンタンには逃げられないと見て、『おしっこしに行く』とウソを言い、ベッドを抜け出して小屋を出る。
そのさいに狼の側も『ダマしてンのかも?』とは疑って、確かヒロインのカラダに縄をツケるのだが。しかし女の子はソコでまたチエを使い、その縄を家畜の脚に縛り直すかナニかして(ココらは死ぬホドのウロ憶え)、ともかくも自分だけは生還に成功するのだった。
とは、どーゆうオハナシかと見るべきか? われらが『野生の“赤ずきん”』のストーリーにおいてはむしろ、ヒロインが祖母の肉を喰いその血を呑む…とゆうトコにオハナシの一大ポイントがある。彼女がソコから急にチエが廻り始めるのは、その行為を介して祖母の蓄えてた≪知恵≫が、彼女に伝わったのだ…と考えられる。
だぃたぃこのオハナシの登場ジンブツは、少女たるヒロインとその母および祖母…とゆう3世代の女性らと、ソレに敵対するモノとしての≪狼≫だけ…。とゆうワケでオハナシの骨子は、『世代をわたる女性らの、生きるタメの抵抗』と見れるのでは?
で、オハナシの帰結として、老いて肉体の弱った祖母は狼に喰い殺されてしまうが、しかし祖母のチエを受け継いだ孫娘は生き残り、そしてまた生命の再生産に向かう。彼女らはけっして≪狼≫には勝てないが、しかし生き残るタメに、チエを用いて抵抗し続けるのだ。
しかもその『女性から女性への、世代をわたるチエの伝達』とゆう作中の実践が、『炉辺の女性たちの物語り』とゆうその伝承の形式とイコールであるコト(!)。その、アンマリな美しさをも見ておこう。
とゆうこの『野生の“赤ずきん”』のストーリーが、まずあったとしてだ。追ってソレを、まずはペローが『お嬢さま方、≪狼≫テキな男子にご用心!』とゆう教訓バナシにカキ換えやがり。さらにグリム兄弟はハジ知らずにも、ソレを勧善懲悪ストーリーにカキ換えたのだ。ペローもグリムもトーゼン超偉大な≪メルヒェナー≫だが、何ンかこのポイントを考えるとイヤな感じがしなくはない。
なお、ハナシの本題をハズれるが。ペロー版「赤ずきん」は確かに表面上は教訓バナシだケド、しかしソレを一種の≪凄惨美≫の表現かのよーにウケとってみるのも一興やも知れぬ。ワリといまでも広く好まれるよーな、『美少女受難』の物語…と見るのもアリかも知れぬ。ひじょうにリッパな≪フェティッシュ≫であり、無垢と挑撥、純潔と≪享楽≫、等々らを同時にイミしまくるところの≪赤ずきん≫とゆうアイテムの創案がその≪凄惨美≫とやらを大いに盛り上げてるワケで。
一方、ペローに先立った『野生版』には、その後もこの説話パターンに継承される性的なニュアンスはじゅうぶんすでにあるが、しかしそーゆうイミでの≪美≫はない。だぃたぃペロー童話集の特徴として全般に、森の中のオハナシでも『土クサさ』なンてモノはなくて、まるでロココ美術かのよーにひたすら≪優美≫が実現されている。その罪なきヒロインの気の毒すぎる運命にはカンケイなく、ペロー作「赤ずきん」は何ンせまず優美な作品である…とは知らねばならない。
そして、『無垢なる(美しき)ヒロインの、モロモロの受難』…とゆうオハナシには明らかに、ウケる要素がある。イヤむしろ、イヤになるホドありすぎる。
われらの課題たる押井作品群だと、今作こと「人狼」をはじめ「イノセンス」にもソレが大フィーチャーされており(…何ンせ、題名がいきなり「イノセンス」=“無垢”、とキて)。また、「天使のたまご」もその系列に入りそう。いまはあんまし追わないが、『無垢であること』を≪挑撥≫かのよーに受けとる感性もある、とゆう事実は憶えとくべきではある。
かつまた、ただいまお伝えした『野生の“赤ずきん”』のストーリーを見て、『そーだとすると、押井とゆうより宮崎(駿)テキなオハナシかもなァ』…と感じたお方が、おられないとも限らぬ。と申す筆者は、つぃ先日「もののけ姫」を初めて見て(…イヤだなァ、世紀をまたいじゃッての初見?)、『このおセンセのお作品のフェミニストぶったポーズには、超まったくウンザリだッ』…と感じたばかりだがッ。
とまでを見てから、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」なる作品と「赤ずきん」、とゆうハナシに戻れば…ッ!?
まずその作中の「赤ずきん」の話型の出ドコが、チと分からない。作中に映される絵本の表紙にはドイツ語の題名が書かれてるが、グリム童話とはまったくオハナシが異なる。だぃたぃ最初から「人狼 JIN-ROH」における「赤ずきん」のオハナシは、フツー祖母とある人物が生き別れの実母になってるトコがミョーだ。広く『メルヒェン』のイントロとしてみれば、どっかにありそーなモノではありつつも。
けれどオハナシの中盤は、われわれが見てキた『野生の“赤ずきん”』とほぼ同様に運ぶ。ところがケツ末までイクと、ペロー版と同然の大バッドエンドになってるよーだ。ソコがハッキリとは語られてない感じだが、映画のケツ末がソレを示唆してる。
で、そーとするとッ? その中盤の、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ!』とゆうエピソードが『野生版』にてのイミを失い、単なる猟奇趣味になり下がッてしまぃ気味では? てゆうかもっとハッキリゆえば、娯楽としての『猟奇趣味』に応じるだけのモンにもなってねェ、とゆう気がいたすがッ?
だぃたぃ筆者は今作こと「人狼 JIN-ROH」に出てクるオトコらが、『オレらはヒトならぬ狼だから!』ナドとありえぬコトを真顔で言い張ってンのが、実にコッケイにしか見えない。『コッケイに見える』と申したその表現が、実はずいぶんエンリョしたモノだ…ともまた言い添えて。
で、ソイツらの『狼として生きるゾ!』とゆう宣言がいちおうカッコよさそーにも聞こえるのだが、しかし実はソレが、≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からの逃避でしかないのでは? そーして「赤ずきん」とゆうオハナシが出てる文脈で『オレらは狼だ』と宣言すれば、ソレはレイプ魔ではべる…とゆう宣言とゼンゼン等価だ。で、この「人狼 JIN-ROH」とゆう作品が実質テキにレイプ賛美とゆう性格を持つコトもまた、ヒジョーに明らかなコトとして。
とまでを見てしまえば、筆者がつぃつぃ『この野郎!』ナドと見た「もののけ姫」が、少なくともいくつかの正しいコトを描いてやがる…とも知れる。その作中、森の山犬らに育てられてニンゲンを敵視するヒロインは、『あたしはニンゲンじゃない!』的なコトを言い張るが、しかしヒーローは何ンのためらいもナシにソレを打消して、『イヤ、キミはニンゲンだ。』と彼女に宣告する。
≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からは、“誰”も逃れえないとゆうコトだ。…そのツトメを果たしおおすコトがデキるかは別として、何ンせソレを引き受けなければならないのだ。ソレを拒んで自分が山犬だとか狼だとか言い張ってやがっては、ただ単によくゆう≪畜生道≫に堕ちてるコトでもありつつ。かつまた、ニンゲン以外でありえぬものとして真に『生きる』…とゆうコトを拒もうとゆうジェスチャーでも、ソレはあるだろう。
ゆえに「もののけ姫」なる作品のキャッチフレーズは、“誰も”が知るよーに『生きろ。』であってまったくマチガイないッ! 「もののけ姫」のヒーローはスカしたイヤなヤツだとオレは見たが、その≪言≫の正しさもまた見とかねばならないッ!
とゆったトコらを見れば、≪「もののけ姫」-と-「人狼」≫との2コが、一方が他方へのまっこうアンチテーゼであるところのペア作品…かのよーにも見れてクる。別に“誰も”がおっしゃるよーな『押井守 vs 宮崎駿』の対立軸ごときをいまさら申したくもないが、しかしそンな気がしちゃッたのでしょーがない。
そーしてそのネガティブなつながりを仮構した上でゆうなら、「もののけ姫」のヒーローが逆に赤い頭巾を愛用してるコトまでが、イミあるかのよーにも見えてクる。無法で無頼の山犬だか狼だかを自称するヒロインに対してヒーローが逆に、無垢なる≪赤ずきん≫とゆう役廻りを演じながら(喰い殺されるやも…とゆうリスクをかえりみず!)近づくのだ。
(…ただし「もののけ姫」では敵味方、かなり多くのジンブツらが赤いモノをカブッて活躍するので、あましその記号性は言い張らない)。
とゆうトコでこの堕文はオシマイで、「人狼 JIN-ROH」のハナシはまたいつかに続く。と、このよーにトートツ気味な≪切断≫がヘーキでヤレるのは、『押井守作品』とゆうわれわれの題材のもたらすオイシぃトコだ。もしも≪批評≫なンてモノがこの世にあるとしたら、ソレが題材に似てるコトが罪であるワケがない。
で、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」とゆう映画に対しての感想もまた、そのレベル…とは言わンのだが! いまこの堕文には、そもそも今作が属する「ケルベロス・サーガ」てモンをどー見るか?…なンてコトを離れて、ただ1コのコトをカィておく。
すなーち。誰がどー見ても今作「人狼 JIN-ROH」の重要そーなモチーフとして、“誰も”がよく知る「赤ずきん」のメルヒェンはある。ところが作中で紹介される「赤ずきん」のオハナシの展開が、ミョーに耳なれないモノだ…とゆう感じをいだかれた方々がおられるのでは? ソコで語られるオハナシには、狼にダマされた赤ずきんチャンが自分の母の肉を喰いその血を呑む…なンてショッキングなシーンがあるが、『ソレはそーゆうストーリーだ』と想ってた方々が、どれだけおられるや?
さてタマタマだが、筆者は一時期『メルヒェンの研究』とゆうカイもなさそーなヒマごとに熱中してたので、多少はこのテの話題に明るいやも知れない。まず「赤ずきん」のオハナシのベースはもともとフランスから出たモノで、ソレをシャルル・ペローがかの超メイ著「過ぎし昔の物語」(1697, いわゆるペロー童話集)にカィたさいに、≪赤ずきん≫とゆうアイテムが初めてヒロインにそうびされたのだとゆう。
単なるアイテムとゆうよりか、あえてゆうならソコにて≪フェティッシュ≫がそうびされたのだ。ともあれ、ペロー以前の『野生の“赤ずきんチャン”たち』は、そンなハデなモノは身にツケてなかったらしぃ(!)。で、ソコでそのオハナシのヒロインに≪赤ずきん≫とゆうそうびがツィたコトに、イミがないワケは決してない。だが、ソレは後述するとして…。
その後にグリム兄弟が「子どもと家庭のメルヒェン集」(いわゆるグリム童話集, KHM)にカィた「赤ずきん」のオハナシは、ペローの創作が再び口承化されたモノが採取されたモノかのよーに言われる。で、ココはご存じの方も多いだろーが、ヒロインらが狩人によって救われてハッピーエンド…とゆうおなじみのケツ末は、バッドエンドのペロー版にはなかったモノだ。
またこのグリム童話集とゆうのが、1812年の初版から1857年の第7版までに、イロイロとカキ換えられてるモノで。いまはその詳細を調べよーかとゆう善意もないが、しかしグリム童話集の改版ごとのカキ換えの方向性は、ヒジョーにハッキリと一貫してる。ソレは主として、『1.女性蔑視、2.性(的)表現の抑圧、3.暴力描写のエスカレート』、とゆう三拍子だ。『グリム童話が、実は超コワぃ』とゆう説(?)を聞くコトがあるが、改版ごとにコワくなってるとゆう事実もまたある。
がしかし、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ』…なンてショッキングなエピソードは、ペローとグリムの両メジャー版にはない。ではありつつ、筆者が何ンかの研究書で読んだ『ペロー以前の、野生の“赤ずきんチャン”』には、ソレがある。
ソレはだぃたぃ、こーゆうオハナシだったかと記憶してる。前半部を超かいつまんで、映画の中で語られるよーにヒロインは狼にダマされ、“祖母”の肉を喰いその血を呑む。すると森のどうぶつたちが、『おやまぁこの子は、祖母の肉を食い血を呑んだよ!』と言う。
だがその後がズイブン違ってて、ナゼだかソレからミョーにアタマがサエてキたヒロインは、狼の目論見を見破る。ただしカンタンには逃げられないと見て、『おしっこしに行く』とウソを言い、ベッドを抜け出して小屋を出る。
そのさいに狼の側も『ダマしてンのかも?』とは疑って、確かヒロインのカラダに縄をツケるのだが。しかし女の子はソコでまたチエを使い、その縄を家畜の脚に縛り直すかナニかして(ココらは死ぬホドのウロ憶え)、ともかくも自分だけは生還に成功するのだった。
とは、どーゆうオハナシかと見るべきか? われらが『野生の“赤ずきん”』のストーリーにおいてはむしろ、ヒロインが祖母の肉を喰いその血を呑む…とゆうトコにオハナシの一大ポイントがある。彼女がソコから急にチエが廻り始めるのは、その行為を介して祖母の蓄えてた≪知恵≫が、彼女に伝わったのだ…と考えられる。
だぃたぃこのオハナシの登場ジンブツは、少女たるヒロインとその母および祖母…とゆう3世代の女性らと、ソレに敵対するモノとしての≪狼≫だけ…。とゆうワケでオハナシの骨子は、『世代をわたる女性らの、生きるタメの抵抗』と見れるのでは?
で、オハナシの帰結として、老いて肉体の弱った祖母は狼に喰い殺されてしまうが、しかし祖母のチエを受け継いだ孫娘は生き残り、そしてまた生命の再生産に向かう。彼女らはけっして≪狼≫には勝てないが、しかし生き残るタメに、チエを用いて抵抗し続けるのだ。
しかもその『女性から女性への、世代をわたるチエの伝達』とゆう作中の実践が、『炉辺の女性たちの物語り』とゆうその伝承の形式とイコールであるコト(!)。その、アンマリな美しさをも見ておこう。
とゆうこの『野生の“赤ずきん”』のストーリーが、まずあったとしてだ。追ってソレを、まずはペローが『お嬢さま方、≪狼≫テキな男子にご用心!』とゆう教訓バナシにカキ換えやがり。さらにグリム兄弟はハジ知らずにも、ソレを勧善懲悪ストーリーにカキ換えたのだ。ペローもグリムもトーゼン超偉大な≪メルヒェナー≫だが、何ンかこのポイントを考えるとイヤな感じがしなくはない。
なお、ハナシの本題をハズれるが。ペロー版「赤ずきん」は確かに表面上は教訓バナシだケド、しかしソレを一種の≪凄惨美≫の表現かのよーにウケとってみるのも一興やも知れぬ。ワリといまでも広く好まれるよーな、『美少女受難』の物語…と見るのもアリかも知れぬ。ひじょうにリッパな≪フェティッシュ≫であり、無垢と挑撥、純潔と≪享楽≫、等々らを同時にイミしまくるところの≪赤ずきん≫とゆうアイテムの創案がその≪凄惨美≫とやらを大いに盛り上げてるワケで。
一方、ペローに先立った『野生版』には、その後もこの説話パターンに継承される性的なニュアンスはじゅうぶんすでにあるが、しかしそーゆうイミでの≪美≫はない。だぃたぃペロー童話集の特徴として全般に、森の中のオハナシでも『土クサさ』なンてモノはなくて、まるでロココ美術かのよーにひたすら≪優美≫が実現されている。その罪なきヒロインの気の毒すぎる運命にはカンケイなく、ペロー作「赤ずきん」は何ンせまず優美な作品である…とは知らねばならない。
そして、『無垢なる(美しき)ヒロインの、モロモロの受難』…とゆうオハナシには明らかに、ウケる要素がある。イヤむしろ、イヤになるホドありすぎる。
われらの課題たる押井作品群だと、今作こと「人狼」をはじめ「イノセンス」にもソレが大フィーチャーされており(…何ンせ、題名がいきなり「イノセンス」=“無垢”、とキて)。また、「天使のたまご」もその系列に入りそう。いまはあんまし追わないが、『無垢であること』を≪挑撥≫かのよーに受けとる感性もある、とゆう事実は憶えとくべきではある。
かつまた、ただいまお伝えした『野生の“赤ずきん”』のストーリーを見て、『そーだとすると、押井とゆうより宮崎(駿)テキなオハナシかもなァ』…と感じたお方が、おられないとも限らぬ。と申す筆者は、つぃ先日「もののけ姫」を初めて見て(…イヤだなァ、世紀をまたいじゃッての初見?)、『このおセンセのお作品のフェミニストぶったポーズには、超まったくウンザリだッ』…と感じたばかりだがッ。
とまでを見てから、われらが押井守カントクの「人狼 JIN-ROH」なる作品と「赤ずきん」、とゆうハナシに戻れば…ッ!?
まずその作中の「赤ずきん」の話型の出ドコが、チと分からない。作中に映される絵本の表紙にはドイツ語の題名が書かれてるが、グリム童話とはまったくオハナシが異なる。だぃたぃ最初から「人狼 JIN-ROH」における「赤ずきん」のオハナシは、フツー祖母とある人物が生き別れの実母になってるトコがミョーだ。広く『メルヒェン』のイントロとしてみれば、どっかにありそーなモノではありつつも。
けれどオハナシの中盤は、われわれが見てキた『野生の“赤ずきん”』とほぼ同様に運ぶ。ところがケツ末までイクと、ペロー版と同然の大バッドエンドになってるよーだ。ソコがハッキリとは語られてない感じだが、映画のケツ末がソレを示唆してる。
で、そーとするとッ? その中盤の、『赤ずきんチャンが人肉嗜食に及ぶ!』とゆうエピソードが『野生版』にてのイミを失い、単なる猟奇趣味になり下がッてしまぃ気味では? てゆうかもっとハッキリゆえば、娯楽としての『猟奇趣味』に応じるだけのモンにもなってねェ、とゆう気がいたすがッ?
だぃたぃ筆者は今作こと「人狼 JIN-ROH」に出てクるオトコらが、『オレらはヒトならぬ狼だから!』ナドとありえぬコトを真顔で言い張ってンのが、実にコッケイにしか見えない。『コッケイに見える』と申したその表現が、実はずいぶんエンリョしたモノだ…ともまた言い添えて。
で、ソイツらの『狼として生きるゾ!』とゆう宣言がいちおうカッコよさそーにも聞こえるのだが、しかし実はソレが、≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からの逃避でしかないのでは? そーして「赤ずきん」とゆうオハナシが出てる文脈で『オレらは狼だ』と宣言すれば、ソレはレイプ魔ではべる…とゆう宣言とゼンゼン等価だ。で、この「人狼 JIN-ROH」とゆう作品が実質テキにレイプ賛美とゆう性格を持つコトもまた、ヒジョーに明らかなコトとして。
とまでを見てしまえば、筆者がつぃつぃ『この野郎!』ナドと見た「もののけ姫」が、少なくともいくつかの正しいコトを描いてやがる…とも知れる。その作中、森の山犬らに育てられてニンゲンを敵視するヒロインは、『あたしはニンゲンじゃない!』的なコトを言い張るが、しかしヒーローは何ンのためらいもナシにソレを打消して、『イヤ、キミはニンゲンだ。』と彼女に宣告する。
≪ニンゲンとしてのツトメ≫とゆうタイヘンな難題からは、“誰”も逃れえないとゆうコトだ。…そのツトメを果たしおおすコトがデキるかは別として、何ンせソレを引き受けなければならないのだ。ソレを拒んで自分が山犬だとか狼だとか言い張ってやがっては、ただ単によくゆう≪畜生道≫に堕ちてるコトでもありつつ。かつまた、ニンゲン以外でありえぬものとして真に『生きる』…とゆうコトを拒もうとゆうジェスチャーでも、ソレはあるだろう。
ゆえに「もののけ姫」なる作品のキャッチフレーズは、“誰も”が知るよーに『生きろ。』であってまったくマチガイないッ! 「もののけ姫」のヒーローはスカしたイヤなヤツだとオレは見たが、その≪言≫の正しさもまた見とかねばならないッ!
とゆったトコらを見れば、≪「もののけ姫」-と-「人狼」≫との2コが、一方が他方へのまっこうアンチテーゼであるところのペア作品…かのよーにも見れてクる。別に“誰も”がおっしゃるよーな『押井守 vs 宮崎駿』の対立軸ごときをいまさら申したくもないが、しかしそンな気がしちゃッたのでしょーがない。
そーしてそのネガティブなつながりを仮構した上でゆうなら、「もののけ姫」のヒーローが逆に赤い頭巾を愛用してるコトまでが、イミあるかのよーにも見えてクる。無法で無頼の山犬だか狼だかを自称するヒロインに対してヒーローが逆に、無垢なる≪赤ずきん≫とゆう役廻りを演じながら(喰い殺されるやも…とゆうリスクをかえりみず!)近づくのだ。
(…ただし「もののけ姫」では敵味方、かなり多くのジンブツらが赤いモノをカブッて活躍するので、あましその記号性は言い張らない)。
とゆうトコでこの堕文はオシマイで、「人狼 JIN-ROH」のハナシはまたいつかに続く。と、このよーにトートツ気味な≪切断≫がヘーキでヤレるのは、『押井守作品』とゆうわれわれの題材のもたらすオイシぃトコだ。もしも≪批評≫なンてモノがこの世にあるとしたら、ソレが題材に似てるコトが罪であるワケがない。
ツボの中ミは何ンじゃろなッ!? - スカイ・クロラ (1)
『前セツ』に続いての1パツめの記事がコレだが、ネタがどーして「スカイ・クロラ」なのか? もっと古く、「うる星やつら オンリー・ユー」の頃から(ボツボツとだが)見てンだから、そっから始めてもよくはないか?
しかし1パツめが、「スカイ・クロラ」である理由。ソレはいちばんさいきんに見たさいきんの押井作品だから…とゆうカンタンなコトでもありつつ、そして『ソレを見た』からこそ、こんなコトをオレがヤッておりまする…とゆう、≪この場に対しての起源≫だから。とゆうワケで。
で。ただいまのこの項目で筆者は、まったくカンタンなコトしか申すツモリがない。この「スカイ・クロラ」とゆう作品を見ての印象の1コとして、エロスっぽぃコトがややストレートに描写されてるコトが、押井作品としては珍しい。…珍しいンじゃないだろーか? オレのかってにいだいてる『押井作品』のイメージに対しては、大いに珍しぃンだが…ッ!
具体的にゆって「スカイ・クロラ」には、そのヒーローが≪性交≫をするらしき場面が2回ある。1度めは娼家を訪れたとき、2度めはカレが、女性の上司である≪水素≫に連れられて会社の保養所(?)へ行ったときだ。
そして、面白いコトに…。ドッチの場面にても、コトの前後にその場の装飾品の中華チックな壷が、ワザとらしく映る。
さらに具体テキに申せば。1度めにては、ヒーローが娼婦の部屋に入ったかと想ったらシーンの≪切断≫が生じ、そして次のカットで、うす暗がりの中のピンク色の壷が、ドカン!と大写しになる。音はしないが、この≪切断≫のトートツ感はかなり『ドカン!』的なモンがある。やがてカメラが引くと、ベッドの上の≪女-男≫はコトの後のようすだ。そーして部屋の全景を見ると、壷はベッドの両脇に同じモノが1コずつ飾られているのだった。にしても、桜のもようの“ピンク色の壷”、しかも中華風…とゆうのが、ズイブンと珍しいブツを見せられた感じだがッ!?
そして2度めにては、水素に連れられて初めて訪れた≪ゲストルーム≫とやらにて、ヒーローが部屋の様子を見ると、サイドボードの上とゆうのかそんなトコに、たくさんの絵皿などをはさんで、また中華風の壷が両サイドにドン!と1コずつ飾られている。ただしこんどのはよく見るよーな青磁の壷で、さきのヤツに比べたら出し方もさりげない。ではあるが、さきのに続いてこのショットを見たら、『ああ、この≪女-男≫はコレからココでコトに及ぶンだな』と、気づかなければウソだろう。
かくてどーゆうワケなのか、「スカイ・クロラ」とゆう映画の中で≪壷≫は、≪性交≫にともなうシグナル(信号)ではある。そのつど使い捨ての『映画の文法』として、そのよーに使われている(…『映画の文法』なるモノは、キホン的には使い捨てでなければなるまい)。かつシグナルであるばかりか、≪何か≫をさし示すシニフィアン(記号)でもあろう。
で、『ソコを分からねば困る』…とゆうコトがゼンゼンないにしても。しかし≪壷-と-性交≫とゆう喰い合わせにおける違和感のアンマリななさが、筆者を笑わせるのだ。ココを筆者は、アッパレな≪下ネタギャグ≫かと受けとってるワケだ。ゆうまでもなくわれらのカントク=押井守サマは、さいしょまず≪ギャグ≫の名手としてギョーカイをのし上がってキたお方でありつつ。
あんましゆってっと、イヤらしくなるが…イヤ、すでに十分だが…。しかしも少しゆえば、多少ハデっぽぃ娼婦はピンクの壷、イロケのまったくない水素は紺の壷…とゆう表現の異なり方は、ヒョッとしたら“誰か”にとっての≪ツボ≫なのやも知れぬ。かつまた、娼婦の胸もとの≪フクロウ≫のタトゥーにも何ンらかの≪イミ≫があると見るべきで。
ソレはフツーに『知恵』…ソレも、『後知恵』の象徴なのだろーけれど。『ミネルヴァのふくろうは日暮れて飛び立つ』とゆわれるよーに、≪夜の女≫はケッテー的なコトの後に役立ちもせぬ『いいコト』を言うのかと想ったが。しかしそのよーな場面が実作になかったよーなのは、ややザンネンなコトだった。…とまでをゆって、「スカイ・クロラ」のハナシはまた続くだろう。
しかし1パツめが、「スカイ・クロラ」である理由。ソレはいちばんさいきんに見たさいきんの押井作品だから…とゆうカンタンなコトでもありつつ、そして『ソレを見た』からこそ、こんなコトをオレがヤッておりまする…とゆう、≪この場に対しての起源≫だから。とゆうワケで。
で。ただいまのこの項目で筆者は、まったくカンタンなコトしか申すツモリがない。この「スカイ・クロラ」とゆう作品を見ての印象の1コとして、エロスっぽぃコトがややストレートに描写されてるコトが、押井作品としては珍しい。…珍しいンじゃないだろーか? オレのかってにいだいてる『押井作品』のイメージに対しては、大いに珍しぃンだが…ッ!
具体的にゆって「スカイ・クロラ」には、そのヒーローが≪性交≫をするらしき場面が2回ある。1度めは娼家を訪れたとき、2度めはカレが、女性の上司である≪水素≫に連れられて会社の保養所(?)へ行ったときだ。
そして、面白いコトに…。ドッチの場面にても、コトの前後にその場の装飾品の中華チックな壷が、ワザとらしく映る。
さらに具体テキに申せば。1度めにては、ヒーローが娼婦の部屋に入ったかと想ったらシーンの≪切断≫が生じ、そして次のカットで、うす暗がりの中のピンク色の壷が、ドカン!と大写しになる。音はしないが、この≪切断≫のトートツ感はかなり『ドカン!』的なモンがある。やがてカメラが引くと、ベッドの上の≪女-男≫はコトの後のようすだ。そーして部屋の全景を見ると、壷はベッドの両脇に同じモノが1コずつ飾られているのだった。にしても、桜のもようの“ピンク色の壷”、しかも中華風…とゆうのが、ズイブンと珍しいブツを見せられた感じだがッ!?
そして2度めにては、水素に連れられて初めて訪れた≪ゲストルーム≫とやらにて、ヒーローが部屋の様子を見ると、サイドボードの上とゆうのかそんなトコに、たくさんの絵皿などをはさんで、また中華風の壷が両サイドにドン!と1コずつ飾られている。ただしこんどのはよく見るよーな青磁の壷で、さきのヤツに比べたら出し方もさりげない。ではあるが、さきのに続いてこのショットを見たら、『ああ、この≪女-男≫はコレからココでコトに及ぶンだな』と、気づかなければウソだろう。
かくてどーゆうワケなのか、「スカイ・クロラ」とゆう映画の中で≪壷≫は、≪性交≫にともなうシグナル(信号)ではある。そのつど使い捨ての『映画の文法』として、そのよーに使われている(…『映画の文法』なるモノは、キホン的には使い捨てでなければなるまい)。かつシグナルであるばかりか、≪何か≫をさし示すシニフィアン(記号)でもあろう。
で、『ソコを分からねば困る』…とゆうコトがゼンゼンないにしても。しかし≪壷-と-性交≫とゆう喰い合わせにおける違和感のアンマリななさが、筆者を笑わせるのだ。ココを筆者は、アッパレな≪下ネタギャグ≫かと受けとってるワケだ。ゆうまでもなくわれらのカントク=押井守サマは、さいしょまず≪ギャグ≫の名手としてギョーカイをのし上がってキたお方でありつつ。
あんましゆってっと、イヤらしくなるが…イヤ、すでに十分だが…。しかしも少しゆえば、多少ハデっぽぃ娼婦はピンクの壷、イロケのまったくない水素は紺の壷…とゆう表現の異なり方は、ヒョッとしたら“誰か”にとっての≪ツボ≫なのやも知れぬ。かつまた、娼婦の胸もとの≪フクロウ≫のタトゥーにも何ンらかの≪イミ≫があると見るべきで。
ソレはフツーに『知恵』…ソレも、『後知恵』の象徴なのだろーけれど。『ミネルヴァのふくろうは日暮れて飛び立つ』とゆわれるよーに、≪夜の女≫はケッテー的なコトの後に役立ちもせぬ『いいコト』を言うのかと想ったが。しかしそのよーな場面が実作になかったよーなのは、ややザンネンなコトだった。…とまでをゆって、「スカイ・クロラ」のハナシはまた続くだろう。
前セツ: 終わらせるために?
『コトを終わらせるタメには、何ンせまずソレを始めなければならない』。とゆう説を、押井作品のアチコチで聞くよーな気がするので。少なくとも、「トーキング・ヘッド」の作中のカントクがゆってたので…。
ゆえに筆者がコレを始めることもまた、≪何か≫を終わらせるタメでない、とも限らない。
さてココは、皆さまご存じ押井守カントクのお作らのファンブログとしてヤッてこーかと想ってンのだが。しかしいきなりスマンことを申し上げると、実は筆者が大した押井ファンでない。マニアじゃない。どころか、ほとんど知らンと言いたいくらぃでもあるホドだが…。
そーとはゆっても、「うる星やつら」で押井カントクがブレイクされた時にちょーど見てたので…。オレが当時のありきたりなアニメっ仔だったので、かれこれ30年近くのおつき合いではあるワケだ。なンて、オレの事情はともかくも。
ココで再び「トーキング・ヘッド」からコトバを借りれば、いまからわれわれは、『ルールを作りながら』遊ぶ。…または『遊んでからルールを考える』とゆうのもテではあろーケド、チョッといま自分側を律するルールを考えた。
【1】 大上段なコトはヤろーとせず、『断章の集積』で大いにヨシとする。
………そーじゃないと進まないと想うし、かつまたそんなヤリ方こそ『押井的』って感じなのでは?
【2】 いわゆる『精神ヴンセキ的な解釈』は、アリとする。
………なンつてと、原則的にはソレがナシみてーだがッ!
【3】 作家らのおしゃべりは、キホン的には聞かない。
………ナゼならば作家らは、その作品らの≪意味≫を知らない。むしろイミを知らンからこそ、≪創作≫なンてヤバンなコトがデキる。現に、さきから名が出てる「トーキング・ヘッド」は、『映画論としての映画実践』ではあるワケだが、しかしその作品のイミを語ってるトコが何もない。だがソレでよく、『作品のイミ』を見出すのはわれわれ受け手側の専権事項に他ならぬ。
とまァ3つを並べてみたけれど、しかしこーゆうのを『ルール』とは言わねーな! 単に自分のヤリたぃコトをカィた、ソレのみでしたな! ま、その他のルールは追い追い『遊びながら』考えるコトとして…。
すでにこの前セツが十分に長すぎてイヤなので、始めましょーか。≪何か≫、を、終わらせるコトがデキるのかどーか…を、確かめようとして!
ゆえに筆者がコレを始めることもまた、≪何か≫を終わらせるタメでない、とも限らない。
さてココは、皆さまご存じ押井守カントクのお作らのファンブログとしてヤッてこーかと想ってンのだが。しかしいきなりスマンことを申し上げると、実は筆者が大した押井ファンでない。マニアじゃない。どころか、ほとんど知らンと言いたいくらぃでもあるホドだが…。
そーとはゆっても、「うる星やつら」で押井カントクがブレイクされた時にちょーど見てたので…。オレが当時のありきたりなアニメっ仔だったので、かれこれ30年近くのおつき合いではあるワケだ。なンて、オレの事情はともかくも。
ココで再び「トーキング・ヘッド」からコトバを借りれば、いまからわれわれは、『ルールを作りながら』遊ぶ。…または『遊んでからルールを考える』とゆうのもテではあろーケド、チョッといま自分側を律するルールを考えた。
【1】 大上段なコトはヤろーとせず、『断章の集積』で大いにヨシとする。
………そーじゃないと進まないと想うし、かつまたそんなヤリ方こそ『押井的』って感じなのでは?
【2】 いわゆる『精神ヴンセキ的な解釈』は、アリとする。
………なンつてと、原則的にはソレがナシみてーだがッ!
【3】 作家らのおしゃべりは、キホン的には聞かない。
………ナゼならば作家らは、その作品らの≪意味≫を知らない。むしろイミを知らンからこそ、≪創作≫なンてヤバンなコトがデキる。現に、さきから名が出てる「トーキング・ヘッド」は、『映画論としての映画実践』ではあるワケだが、しかしその作品のイミを語ってるトコが何もない。だがソレでよく、『作品のイミ』を見出すのはわれわれ受け手側の専権事項に他ならぬ。
とまァ3つを並べてみたけれど、しかしこーゆうのを『ルール』とは言わねーな! 単に自分のヤリたぃコトをカィた、ソレのみでしたな! ま、その他のルールは追い追い『遊びながら』考えるコトとして…。
すでにこの前セツが十分に長すぎてイヤなので、始めましょーか。≪何か≫、を、終わらせるコトがデキるのかどーか…を、確かめようとして!
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