別に見なくてもいいもののきわみにつきあってわれわれは、かの室戸文明じゃないけど『またか!』との嘆息を、また重ねる。実のところ、このぜいたくがたまらない。深い(不快)味わい、違いが分かるわれわれの、ザ・押井ムーヴィー!
1. よく喰う人間と、喰いそこねるワンちゃん
…とまでを言ったら話が終わっている感じだが、何とか気を取りなおして、以下「アヴァロン」について少し。
アニメ作品ではそんなに目立たないことだが、実写の押井作品群について、『喰い物らが異様にまずそう』という特徴は、あるような気がする。あわせて、その食べ方の描写がずいぶん見苦しい。それらは、彼の実写・第1弾の「紅い眼鏡」から存在した特徴として。
そしてこの「アヴァロン」で、その特徴がきわまっている。アッシュとスタンナが配給所みたいなところで食事するシーン、犬のエサくらいにしか見えない喰い物を、また犬喰いでスタンナがガツガツとむさぼる。説明なんかしたくないくらい、これが見苦しい。
またその後、アッシュはよさそうな肉を外で買い込んできて、何か熱心に料理にはげんだと思ったら、できたものがまた立派な犬のエサだ(!)。それを見てわれわれががっくりしたところで、なぜか彼女の愛犬がいなくなってしまうので、アッシュもまたがっくりしてしまう。
…どうしていちいち喰い物が、まずそうな犬のエサなのか? 喰わねば生きられない『リアル』の世界に対する呪詛の表明か何かで、それはあるのだろうか? かつスタンナのどうしようもなく見苦しい意地汚さは、かってギブソンの作品について『プラトンのイデア界ばり』と形容された清浄きわまる『バーチャル・スペース』へと向けて、アッシュと彼女を見ているわれわれの背中を、グイと押している要素なのだろうか?
2. あなたのわんこになりたいワン!
またこのお話について、いま見たポイント。『アッシュの飼っていた犬はどうなったのか?』ということは、わりとふつうに気になる問題かと思われる。…そうではないだろうか?
「トーキング・ヘッド」的な映画観からしたら、そんなもんが消えようと出てこようと、演出家のかってではあるわけだが。しかしまた、そこに何らかの≪意味≫を見たり見なかったりすることも、見る方のかってだ。
かの『つながらないフィルムはない!』というハッピーなオプチミズムは、フィルムらの物理的な結合から≪意味≫を生み出しがちな、すぐれた観客に対しての大いなる期待でもある。それにちょこっと、応えようとしてみれば。
「アヴァロン」劇中、アッシュの部屋から犬が消失したのと入れ替わりに、うわさの人物ビショップが、初めてそこを訪れる。そこで彼はいきなりキッチンの食材をあらため、『キミんちの犬の方が、きょうびの人間らよりも、よっぽどいいものを喰っている』などと言い、みょうに犬のことを気にしている。かつ、ふつうは思わないことだろうに、高級な食材を犬のエサと決めつけている。
そこいらから、ひょっとしたらアッシュの愛犬は、もともとビショップが化けていたものなのではなかろうか…どっちかがどっちかの、変身した姿なのではなかろうか…という気もしてくるのだった。
どうせ『リアル』のろくにない世界だし、そういう現象もありうるかと。または、ほんとうはいなかった犬をいたかのように、ビショップらがアッシュを錯覚させていた、としてもよい。
そうでないとしてもビショップは、続くお芝居の中で、彼の思わくどおりにアッシュを動かすための材料として、消えた犬を使っている。人質ならぬ犬質、とでもいうのか。やがてアッシュが到達した『クラス・リアル』のフィールド上、特にまともな理由もなく、彼女が行くべきコンサートのチケットやポスターのデザインが、問題の犬の顔になっている。
誰もはっきりとは言ってはいないことだが、『クラス・リアルをクリアすれば、犬がアッシュのもとに戻ってくる』。そのような暗黙の動機付けと思い込みによって、アッシュは行動しているようにしか見えないのだった。…つまりわんこの消失について、ふつうの合理性はないとしても、しかし目的論的な整合性はある。
いつもそうだが≪犬≫というモチーフを出してくれば、押井まも様のフィルモグラフィーの内部的には、何がどうであっても立派につながる。善意の観客としては、それをつながっているものと見ないわけにいかないけれど。
3. 『湖の姉妹』と、ワルキューレ
ところで、これを書くためにちょこっと調べていたら、まも様のオフィシャルサイトの自作解説みたいなものを、うかつに見るはめになった(*)。そこにいろいろなことがペラペラとおしゃべりされているので、『そうか』と思う人にはそれでいいとして。
けれどもそこで言われていないのは、≪ゴースト≫とは何か、なぜそれが少女の姿なのか、ということだ。『ゆえに』この映画の真のコアはそこであり、その他の要素らは修飾に近いものだ。ただし押井作品においてはいつも、修飾チックな部分に経済性や流通性があるのだが。
【押井】 (初期の構想においては、)最初は男の主人公で、ビショップが女だった(中略)。少女は最初からゴーストで、ゴーストを兵藤まこ。
キャスティングが兵藤まこということでゴーストは、同じ女優が演じた「紅い眼鏡」の赤い服の少女、「トーキング・ヘッド」の≪お客さん≫、彼女らに連なり重なるキャラクターだ。いやキャスティングうんぬんは単なる傍証で、見ればそれは明らか。
そしてゴーストは、アーサー王伝説の『湖の姉妹』のように、闘いぬいた勇者(ら)をユートピア的な場所、言い換えて天国あたりに導く。これはわれわれが「紅い眼鏡」の記事で見た、『赤い服の少女=ワルキューレ』という話のバリエーションに他ならない(*)。
そもそもアヴァロンといったら平和な楽園の島のはずなのに、なぜ人々が『アヴァロン』というゲームで殺し合いごっこを演じているのか。そこが少々ふしぎだったが、しかしほんとうのアヴァロンは、勝利に次ぐ勝利らの果てにやっとあるものだったわけだ。
ただし。まずよく分からないのは、本来は敵でもなさそうなそのゴーストを、敵かのようにプレイヤーが撃つ、撃たねばならないというところ。ゲームの面クリアの瞬間に現れる、ボーナスキャラクター的な扱いなのか。2000年の「人狼 JIN-ROH」あたりからの押井作品らには、みょうに少女が虐待され殺されるようなイメージが出てきている。それはどういう意味かをも、いずれ考えなければなるまいが。
次に。ゴーストが勇者らを導いた世界『クラス・リアル』は、まったくユートピア的でも何でもない、それこそ『リアル』的なフラットな世界だ。お話の出発地点のセピア色の世界に比べたら、カラーで見えているだけ活気ある感じもしつつ。
前者の問題は宿題にしておいて、後者のポイントについて。そうだけれども、お先にクラス・リアルにたどり着いていたマーフィーは、『こんな面白いところはない』くらいなことをアッシュに言う。
これは、大いなる逆説なのだろうか? お話のベースのセピアな世界よりも、通常モードのゲーム『アヴァロン』の戦場よりも、われわれにとっていちばんふつうに見える世界が、いちばん面白い、と?
(補足。さきに見た記事だと押井様は、クラス・リアルについて、『ほんとうに』面白いところとして構想されていた感じ。しかしわれわれは、われわれの見たものにもとづいて考える)
4. 旅に出る時、(嘲笑にも似た)ほほえみを
ここにおいて、ゲーム『アヴァロン』の目的と、映画「アヴァロン」のテーマ性は、面白ゆかいな仮想世界を目ざすことなのか、そうじゃない唯一の『リアル』に達しようとすることなのか…それが宙吊りにされてしまう。そしてお話のさいごのゴーストの、嘲笑にも似たほほえみは、どうであれうまく行きはしないことの予告かのようにも感じられるのだった。
かつまたゴーストの姿は作品の序盤すぎ、『未帰還者』として向こうへ行ったまま植物状態のマーフィーが入院している病院に、すでにちらりと現れている。つまり彼女が勇者たちを導く楽園アヴァロンとは、ひとつの実態としてはそこだ。そこにあるものがごほうびなのか、勇者っぽい者たちの不そんに対するおしおきなのか、そのことがまた宙吊りになっている…とも感じられる。
そうして彼女の愛犬を探してのアッシュの放浪と遍歴は、幾多の世界をまたにかけて、おそらくいまでもどこかで続いているのだろう。その見つかったところが、彼女においての『リアル』なのだとしつつ。…という結論になっとくがいくかどうかは、受け手の犬好きの度合いによって変わってくるところだろうか?
また、そうでなければビショップが、『再び』彼女のわんこになってもいいわけだ。もともと彼はゲーム『アヴァロン』の管理側の人間らしいので、どこにどんな犬を出そうと出すまいと自由だ。それですむならそうすればよさそうなものだが、しかし彼女に使い道がある限り、犬でアッシュを彼は操り続けることができる(!)。
とはまた、いったい何という戯画だろうか。アッシュにしても押井まも様にしても、≪犬≫が彼たちのつまづきの原因になっているような気が?
つまり、どこの何が『リアル』なのか分からないような世界でも、生きている人間には『リアリティのよすが』のようなものが必ずあろう、彼らにはそれが必要であろう、とまでは分かるが。しかし特に支えの要素もないままに、それを『わんこである』と断じてしまうところが、常人らの行き着かぬ境地へ行っている。かの『アヴァロン』とは、ひっきょう愛犬家たちのユートピアでもあるかのように。
【余談】 押井ファンを名のりながら恐縮だが、筆者は押井様の書かれた文章を、いままでほとんど読んだことがなかった。『それが映像に比べたら過剰なまでに説明的であり、言わば分かりやすいかも?』…という評言は、どこかで見ていたようだけど。
で、このたびそれに近いテキストをちょっと見てみて。じっさい分かりやすげな気もしたが、しかしそれが面白いかというと、それはない。
『ほんとの話が』自分は、映像作家としての押井まも様に対しては、なぜかライバル心や嫉妬のようなものを、かなり強く感じている。そんなものらのありうる立場では、まったくないのに…ふしぎと! しかし著述家としての氏に対しては、それが現状ぜんぜんない。