2010/11/20

『それがまた立派な犬のエサ』 - アヴァロン

まあその、いわゆる『ほんとの話が』。押井守作品らに対して、退屈・冗長・マンネリ・破綻気味、といった評言を捧げることは、逆にほめているに他ならないのではなかろうか?
別に見なくてもいいもののきわみにつきあってわれわれは、かの室戸文明じゃないけど『またか!』との嘆息を、また重ねる。実のところ、このぜいたくがたまらない。深い(不快)味わい、違いが分かるわれわれの、ザ・押井ムーヴィー!

1. よく喰う人間と、喰いそこねるワンちゃん

…とまでを言ったら話が終わっている感じだが、何とか気を取りなおして、以下「アヴァロン」について少し。
アニメ作品ではそんなに目立たないことだが、実写の押井作品群について、『喰い物らが異様にまずそう』という特徴は、あるような気がする。あわせて、その食べ方の描写がずいぶん見苦しい。それらは、彼の実写・第1弾の「紅い眼鏡」から存在した特徴として。

そしてこの「アヴァロン」で、その特徴がきわまっている。アッシュとスタンナが配給所みたいなところで食事するシーン、犬のエサくらいにしか見えない喰い物を、また犬喰いでスタンナがガツガツとむさぼる。説明なんかしたくないくらい、これが見苦しい。
またその後、アッシュはよさそうな肉を外で買い込んできて、何か熱心に料理にはげんだと思ったら、できたものがまた立派な犬のエサだ(!)。それを見てわれわれががっくりしたところで、なぜか彼女の愛犬がいなくなってしまうので、アッシュもまたがっくりしてしまう。

…どうしていちいち喰い物が、まずそうな犬のエサなのか? 喰わねば生きられない『リアル』の世界に対する呪詛の表明か何かで、それはあるのだろうか? かつスタンナのどうしようもなく見苦しい意地汚さは、かってギブソンの作品について『プラトンのイデア界ばり』と形容された清浄きわまる『バーチャル・スペース』へと向けて、アッシュと彼女を見ているわれわれの背中を、グイと押している要素なのだろうか?

2. あなたのわんこになりたいワン!

またこのお話について、いま見たポイント。『アッシュの飼っていた犬はどうなったのか?』ということは、わりとふつうに気になる問題かと思われる。…そうではないだろうか?
「トーキング・ヘッド」的な映画観からしたら、そんなもんが消えようと出てこようと、演出家のかってではあるわけだが。しかしまた、そこに何らかの≪意味≫を見たり見なかったりすることも、見る方のかってだ。
かの『つながらないフィルムはない!』というハッピーなオプチミズムは、フィルムらの物理的な結合から≪意味≫を生み出しがちな、すぐれた観客に対しての大いなる期待でもある。それにちょこっと、応えようとしてみれば。

「アヴァロン」劇中、アッシュの部屋から犬が消失したのと入れ替わりに、うわさの人物ビショップが、初めてそこを訪れる。そこで彼はいきなりキッチンの食材をあらため、『キミんちの犬の方が、きょうびの人間らよりも、よっぽどいいものを喰っている』などと言い、みょうに犬のことを気にしている。かつ、ふつうは思わないことだろうに、高級な食材を犬のエサと決めつけている。
そこいらから、ひょっとしたらアッシュの愛犬は、もともとビショップが化けていたものなのではなかろうか…どっちかがどっちかの、変身した姿なのではなかろうか…という気もしてくるのだった。
どうせ『リアル』のろくにない世界だし、そういう現象もありうるかと。または、ほんとうはいなかった犬をいたかのように、ビショップらがアッシュを錯覚させていた、としてもよい。

そうでないとしてもビショップは、続くお芝居の中で、彼の思わくどおりにアッシュを動かすための材料として、消えた犬を使っている。人質ならぬ犬質、とでもいうのか。やがてアッシュが到達した『クラス・リアル』のフィールド上、特にまともな理由もなく、彼女が行くべきコンサートのチケットやポスターのデザインが、問題の犬の顔になっている。
誰もはっきりとは言ってはいないことだが、『クラス・リアルをクリアすれば、犬がアッシュのもとに戻ってくる』。そのような暗黙の動機付けと思い込みによって、アッシュは行動しているようにしか見えないのだった。…つまりわんこの消失について、ふつうの合理性はないとしても、しかし目的論的な整合性はある。

いつもそうだが≪犬≫というモチーフを出してくれば、押井まも様のフィルモグラフィーの内部的には、何がどうであっても立派につながる。善意の観客としては、それをつながっているものと見ないわけにいかないけれど。

3. 『湖の姉妹』と、ワルキューレ

ところで、これを書くためにちょこっと調べていたら、まも様のオフィシャルサイトの自作解説みたいなものを、うかつに見るはめになった(*)。そこにいろいろなことがペラペラとおしゃべりされているので、『そうか』と思う人にはそれでいいとして。
けれどもそこで言われていないのは、≪ゴースト≫とは何か、なぜそれが少女の姿なのか、ということだ。『ゆえに』この映画の真のコアはそこであり、その他の要素らは修飾に近いものだ。ただし押井作品においてはいつも、修飾チックな部分に経済性や流通性があるのだが。

【押井】 (初期の構想においては、)最初は男の主人公で、ビショップが女だった(中略)。少女は最初からゴーストで、ゴーストを兵藤まこ。

キャスティングが兵藤まこということでゴーストは、同じ女優が演じた「紅い眼鏡」の赤い服の少女、「トーキング・ヘッド」の≪お客さん≫、彼女らに連なり重なるキャラクターだ。いやキャスティングうんぬんは単なる傍証で、見ればそれは明らか。
そしてゴーストは、アーサー王伝説の『湖の姉妹』のように、闘いぬいた勇者(ら)をユートピア的な場所、言い換えて天国あたりに導く。これはわれわれが「紅い眼鏡」の記事で見た、『赤い服の少女=ワルキューレ』という話のバリエーションに他ならない(*)。
そもそもアヴァロンといったら平和な楽園の島のはずなのに、なぜ人々が『アヴァロン』というゲームで殺し合いごっこを演じているのか。そこが少々ふしぎだったが、しかしほんとうのアヴァロンは、勝利に次ぐ勝利らの果てにやっとあるものだったわけだ。

ただし。まずよく分からないのは、本来は敵でもなさそうなそのゴーストを、敵かのようにプレイヤーが撃つ、撃たねばならないというところ。ゲームの面クリアの瞬間に現れる、ボーナスキャラクター的な扱いなのか。2000年の「人狼 JIN-ROH」あたりからの押井作品らには、みょうに少女が虐待され殺されるようなイメージが出てきている。それはどういう意味かをも、いずれ考えなければなるまいが。
次に。ゴーストが勇者らを導いた世界『クラス・リアル』は、まったくユートピア的でも何でもない、それこそ『リアル』的なフラットな世界だ。お話の出発地点のセピア色の世界に比べたら、カラーで見えているだけ活気ある感じもしつつ。

前者の問題は宿題にしておいて、後者のポイントについて。そうだけれども、お先にクラス・リアルにたどり着いていたマーフィーは、『こんな面白いところはない』くらいなことをアッシュに言う。
これは、大いなる逆説なのだろうか? お話のベースのセピアな世界よりも、通常モードのゲーム『アヴァロン』の戦場よりも、われわれにとっていちばんふつうに見える世界が、いちばん面白い、と?
(補足。さきに見た記事だと押井様は、クラス・リアルについて、『ほんとうに』面白いところとして構想されていた感じ。しかしわれわれは、われわれの見たものにもとづいて考える)

4. 旅に出る時、(嘲笑にも似た)ほほえみを

ここにおいて、ゲーム『アヴァロン』の目的と、映画「アヴァロン」のテーマ性は、面白ゆかいな仮想世界を目ざすことなのか、そうじゃない唯一の『リアル』に達しようとすることなのか…それが宙吊りにされてしまう。そしてお話のさいごのゴーストの、嘲笑にも似たほほえみは、どうであれうまく行きはしないことの予告かのようにも感じられるのだった。
かつまたゴーストの姿は作品の序盤すぎ、『未帰還者』として向こうへ行ったまま植物状態のマーフィーが入院している病院に、すでにちらりと現れている。つまり彼女が勇者たちを導く楽園アヴァロンとは、ひとつの実態としてはそこだ。そこにあるものがごほうびなのか、勇者っぽい者たちの不そんに対するおしおきなのか、そのことがまた宙吊りになっている…とも感じられる。

そうして彼女の愛犬を探してのアッシュの放浪と遍歴は、幾多の世界をまたにかけて、おそらくいまでもどこかで続いているのだろう。その見つかったところが、彼女においての『リアル』なのだとしつつ。…という結論になっとくがいくかどうかは、受け手の犬好きの度合いによって変わってくるところだろうか?
また、そうでなければビショップが、『再び』彼女のわんこになってもいいわけだ。もともと彼はゲーム『アヴァロン』の管理側の人間らしいので、どこにどんな犬を出そうと出すまいと自由だ。それですむならそうすればよさそうなものだが、しかし彼女に使い道がある限り、犬でアッシュを彼は操り続けることができる(!)。

とはまた、いったい何という戯画だろうか。アッシュにしても押井まも様にしても、≪犬≫が彼たちのつまづきの原因になっているような気が?
つまり、どこの何が『リアル』なのか分からないような世界でも、生きている人間には『リアリティのよすが』のようなものが必ずあろう、彼らにはそれが必要であろう、とまでは分かるが。しかし特に支えの要素もないままに、それを『わんこである』と断じてしまうところが、常人らの行き着かぬ境地へ行っている。かの『アヴァロン』とは、ひっきょう愛犬家たちのユートピアでもあるかのように。

【余談】 押井ファンを名のりながら恐縮だが、筆者は押井様の書かれた文章を、いままでほとんど読んだことがなかった。『それが映像に比べたら過剰なまでに説明的であり、言わば分かりやすいかも?』…という評言は、どこかで見ていたようだけど。
で、このたびそれに近いテキストをちょっと見てみて。じっさい分かりやすげな気もしたが、しかしそれが面白いかというと、それはない。
『ほんとの話が』自分は、映像作家としての押井まも様に対しては、なぜかライバル心や嫉妬のようなものを、かなり強く感じている。そんなものらのありうる立場では、まったくないのに…ふしぎと! しかし著述家としての氏に対しては、それが現状ぜんぜんない。

2010/11/19

『9フィートラインの彼岸より』 - トーキング・ヘッド

ご存じのように押井守「トーキング・ヘッド」は、『渡り演出家』と呼ばれるプロフェッショナルのヒーローが、なぞの失踪をとげた監督に代わって、まさにその題名が『トーキング・ヘッド』というアニメーション作品を完成させようとするお話。
だがしかし彼がおもむいた、陽光から見捨てられたスタジオには、きわめておかしい人物らが集まっており、不可解でナンセンスなイベントばかりが続く。そしておなじみの過剰なおしゃべりで映画論がカラ廻りしつつ、しかもそのスタジオで連続殺人事件が発生、といった不条理劇だが。

それについてここでは、1つだけ、気になったことを書いておく。作品の中盤すぎ、製作がうまくいかないからかどうか、原画担当スタッフ3人組が、路上のようなところで監督を襲撃する。

【原画マン】 ここが、てめえのフィルモグラフィーのつきるところだ!

このせりふが、みょうに心に残る。そうして向こうが殺る気まんまんと知ったので、腹心の助監督がヒーローに、ズ太い砲身をもった『キャメラ+ライフル』のような銃器を渡す。それを構えて、ヒーローはいわく。

【監督】 この写真銃は、秒24コマの速射が可能だ
ヤツらが被写体のオキテを破って9フィートラインを踏み越えた、その時が勝負だ!

そうすると、カメラと敵らとの間の路上に、目盛りの線が書かれているのが映しだされる。そして敵がその9フィートラインとやらを越えたらしいところで、監督は引き金を引く。
すると撃たれた者たちはどうなるかって、スチールのようにそこで固まって、身動きとれなくなってしまう。動けない敵たちを監督は、体術で返り討ちにする。

という、この『写真銃』というものは何だろうか?…ということも、気にならないことはないが。
しかし筆者が引っかかったのは、『9フィートライン』ということばに対してなのだった。たぶん何らかの映画用語で、撮影のセオリーとして9フィートの距離を取る、ということまでは想像できたのだが。

…が、ともかくも確認と思って『9フィートライン』で検索してみたら、ヒットするのは何と、釣り関係のページばかり(!)。そこで検索語に『映画』を加えて、やっと見つけたのが、次のページなのだった。

『書評 映画スタイルの歴史編纂の見直しとその意義』(*

これは何か…ということがすでに分かりやすくないが、デイヴィッド・ボードウェルというアメリカの映画学者の著書「映画スタイルの歴史について」(David Bordwell“On the History of Film Style”, 1997)の、レビュー兼サマリーであるらしい。それを書いておられるのは、日本のアカデミーの学者さま方らしい。
そしてその『最終章「例外的に正しい知覚――深度の演出について」』のパラグラフに、次のようにあり。

1910年代のフランスでは、カメラを被写体から12フィートの位置にとらええたため、人物の膝下が切れるいわゆる「フレンチ・フォアグラウンド」として知られる撮影法が採用された。1909年のヴァイタグラフ社の映画群では、カメラをやや被写体に接近させ、9フィートの位置でとらえたため、フロントラインが4~4.5フィートとなり、股下あたりで切れる「プラン・アメリカン」として知られる撮影法が採用された。

『9フィートライン』とはこれのことでなければ、それが何であるのかはなぞのままだ。たぶん映画の標準的な50mmレンズで、9フィート離れた位置から人物を撮ると、頭から股下までがフレームに入る。
…ほんとうにそうなるかどうか計算も可能だろうが、しかし筆者にはめんどう(!)。ともあれ、こうした構図法『アメリカン・プラン』を尊んだ時代と地域があった、ということらしい。

にしても筆者は、リンク先のテキストを拝読して、『映画というものがどうしてこんなにまでも、人々にへりくつを言わせるのか』…と、感銘とへきえきを同時に味わったのだった。「トーキング・ヘッド」劇中に描かれたおしゃべり大会は、別にそこだけにあるものではないと、あまりにも確認できすぎる。

バーチの「対抗的プログラム」に対して著者は、自身の掲げる「認知論的映画理論」の学問的合理主義に反するバーチの形式化=構造化過程において「要素」を取捨選択する「倫理学」、つまり「パラメータ」(モダニズム音楽のセリー音楽にならって映画の「媒介の技法」を唯物論的にとらえたもの)における二分法(「ソフト・フォーカス」/「シャープ・フォーカス」、「直接的」音響/事後的に付加された音響など)、バーチが主張する「再現モード」における二元論(制度的/原初的)の「価値判断」の前提となっているブルジョワ・イデオロギーのモノロジックに批判を加える。

…うんぬん。と、よくは分からないなりにこのテキストを拝読していると、映画の技法の超基本には、『不自然なものを自然かのように錯覚させる』ということがあるもよう。『標準レンズ』をもって、9フィートの『標準的な距離』をとって撮影するということも、その『自然さ』の演出の一環ではあろう。
で、引用中にもある語だが、『不自然なものを自然かのように錯覚させる』ということを言い換えて、ふつうは『イデオロギー的実践』などと呼ぶ。映画と呼ばれるもの自体がそれであるのに加え、映画論や映画史と呼ばれるものらが、またそれだ。

「トーキング・ヘッド」作中で人々はしばしば、テクノロジーの制約がひじょうに大きく、かつ観客が素朴であった時代の存在を想定し、それをユートピアかのように言う。だがその一方に、テクニカラーやトーキーの登場から現在の3D映像や立体音響にいたるまでの映画テクノロジーの発達を、『リアルな現実感』への接近と、素朴に賛美する見方もある。
そしてそのいずれを言い張ることも、『イデオロギー的言説』であることはまちがいないだろう。だがしかし確かなことは、いまから単にモノクロでサイレンスの映画を撮ってみたところで、あのユートピアの復元はない。

【色指定係】 いつだって、映画は目先の新奇な贈り物と引き換えに、大事な思い出を捨ててきたんだもの

と、「トーキング・ヘッド」の作中人物は言う。そうだがしかし、『目先の新奇な贈り物』の登場こそが、単なる過去のものを『大事な思い出』にまで押し上げている、とも言えよう。
(おことわり:『リアルな現実感』という語は、「トーキング・ヘッド」作中の脚本家のせりふより)

で、ふたたびリンク先のテキストから引用すると。

ゴダールに代表される戦後の「前衛運動」の映画作家の実践は、「大文字」の「制度」に対抗すべく過去の形式スタイルの反復や引用、そしてコンテクストを錯乱させることによって、「意味」を過剰にしていき、解釈の地平を過剰コード化することで「意味」を宙吊りにしたが、バーチの言説は表象スタイルにおける「内容」=「意味」を削ぎ落とし、観客の「パラメータ」の読みの体験を「テクストの意味」へと配置転換させたといえよう。

筆者のもあまり変わらない感じだが、このようにカッコのやたらに多い文章はどうなのか。ついついそうなってしまうのもよく分かりつつ、『せめて半分くらいにできないか』、という問題意識はありたいところだ。

まあそれはともかく、われらが押井監督の方法にしても、『コンテクストを錯乱させることによって、「意味」を過剰にしていき、解釈の地平を過剰コード化することで「意味」を宙吊りに』…くらいで、いちおう言いえていそうな感じだ。
ただし、筆者が特異だと思うのは。「トーキング・ヘッド」にしてもそうなのだが、押井作品においてはしばしば、『「意味」を過剰にしていき、解釈の地平を過剰コード化することで「意味」を宙吊りに』ということが、笑いの演出へと方向づけられている。

ゴダール作品にしても、ぜんぜん笑うところがないということはないが、けれどそれを全般的に『笑劇(ファルス)』であると感じている人は、そう多くはないだろう。そうして押井監督の作品群は、どうだろうか?
そんなにはっきり言われていることではないが、ジャック・ラカンの主張に『笑うことは、考えをやめることである』。笑うことは、内心や論理の葛藤によって高まったエネルギーにはけ口を与える。

で、作品「トーキング・ヘッド」について言えそうなこととして。それは作中で映画について、物語やキャラクター、色彩と音響、演出家とスタッフ…等々のいろいろを検討してみせているが、しかしまず観客=≪お客さん≫というものをカッコにくくり出している、それはきわめて明示的に。『お客さん(観客)とは何か?』は、ことばでは言われずして、明らかにこの作品のかげの最大のテーマだ。
そしてもうひとつは秘匿的に、映画における笑いの機能を語っていない。それが押井作品をいちおうのエンターテインメントとして成り立たせ、出口のない状況を描く作品に心理的な出口を与えていることは、まず第1段階で確かでありながら。

【脚本家】 映画にルールなんてない。作られた作品が、そのままルールになるのだから

これは正しいが、うそっぱちだ。ルールはなくとも映画の文脈(コンテクスト)があり、作品「トーキング・ヘッド」もまた、さんざんにそのコンテクストを利用している。ゆえにこの作品が、映画らしきものに見えている。わけのわからない乱闘に『写真銃』なるアイテムと『9フィートライン』なることばがそえられて、そこでその乱闘それ自体が『映画的イベント』かのようなものになる。
ただし、なさそうなところにコンテクストをねつ造し、なかった線を新たにひいてみせることの生産性、それは大いに認めなければならないだろう。

2010/11/18

『紅い眼鏡と、赤い服の少女』 - 紅い眼鏡

前の記事、“『≪抵抗≫と、ふかしぎで飛躍ある屈折』 - 立喰師列伝”でご紹介した記事を書かれたYuさんから、ご連絡をたまわった。そしてご教示いただいたのは、Yuさんが1989年に書かれたテキスト『夢から抜け出す夢 ─ 押井守試論 89' ─』(*)。

これがひじょうに示唆あふれるものなので、まずはぜひぜひそちらをご覧ありたし。で、この記事は、それに触発されての筆者による「紅い眼鏡」の見方を、書きとめておこうとする。まずは、筆者からYuさんへのメールを自己引用。



Yu様(…略…)
ご文を拝見いたしました。すると私自身が意識している『形式的(フォルマリズム的)』な分析があざやかになされており、とても説得力ある論だと感じました!

われわれがふつうに映画を見ていると、内容(物語, テーマ性)に引っかかったり、またはイメージ(モチーフ)に引っかかったりしますけれど(…補足、押井作品の場合はないけれど、あとキャラクター論)。
しかしそんなことよりも、まず『形式』を見たらどうかということを、自分で考えていたつもりでしたが。
けれどもぜんぜん自分がそれをできてなくて、テーマ論に流れがちだったことを、(間接的に)ご教示いただいたと思います!

「紅い眼鏡」という作品が不思議に心に残るのは、おそらく押井世界において 初めて脱出するのに成功したこのシーンが感動を与えてくれるからではないだろうか。

このご意見に、まず第1段階で賛成いたします。アラン・レネ「去年マリエンバートで」的な『トリック』ですよね。
というのは、お話の構造的には脱出できない感じなのに、ともかくも脱出できたような感じに描かれている。そこで、ともかくも観客のカタルシスが生じうると。

ところが第2段階で私には、また異なる感じ方があります。というのは、その場面について、『少女が、迷宮的な都市からの脱出に成功した』という風に、私は感じたことがないからです。
むしろこの赤い服の少女こそが、迷宮のボスなのではないかと、私は思うのです。そうだから劇中映画の内容や街頭ポスター等々で、少女のイメージが迷宮の街に遍在しているのではないでしょうか。映画の終盤、超巨大な看板の少女が街全体を見下ろしているのは、言わば『そのまま』の意味であろうかと、私は感じます。

構造としては、「ビューティフル・ドリーマー」に近いような気がします。あれはラムの見ている夢の世界なのに、劇中のあたる君はまた独自の思わくをもって、その中で悪戦苦闘するでしょう。それとやや近い感じで、少女が仕切っている世界の中で、紅一は活躍しているのではないかと。

で、「紅い眼鏡」の世界では、意図や理由は分かりませんが、そこでその少女が紅一(たち)に、何らかの試練を受けさせる。そしてその試練を突破する紅一(たち)がぜんぜんいないので、ラストシーンで彼女は、また別の紅一を迎えに行く、というお話と、受け止めていました。
ご文にもありますように、さいしょの場面で紅一が空港に着いて、そこで少女とすれ違いますね。そこに戻って繰り返されるのだろう、という見通しです。というか、終盤の文明のせりふに『またか!』と言われているように、もうぞんぶんに繰り返されているのでしょう。



で、このお話はどういうことかというと、ひとつの思いつきを言わせてください。ようするにこの少女は≪ワルキューレ≫であって、紅一はすでに死んでいます。
が、死んでいながら死んでいることに気づいていないので、ワルキューレである少女が、その魂を冥界に運ぶことができないのです。文明たちの演じているお芝居は、紅一に死の自覚を促そうとしているのですが、紅一はあまりにもかたくなに、それを認めないのです。

【下っぱ】 自分が撃たれたことにも気がついていないような、そんな死に方でした
【文明】 おおかた、手前がってな夢でも見ていたんだろう

紅一が死の自覚をいだくことができず、その『手前がってな夢』からさめることができないので、彼らはいつまでも、これを繰り返さねばならないのではないでしょうか。強化服が回収できないことは、紅一の“往生ぎわ”の悪さを示しており、そして彼が持ち歩く大量の紅い眼鏡もまた、その反抗のやまなさを表しているのでは。

終わりの方で紅一がタクシーの中で、『時はとどまったまま、われわれだけがうつろいゆく』と言いますね。むしろ死すべき人間のつとめとして、うつろわねばならない、とも考えられます。
なのに紅一は、1995年の『ひどく暑い』夏に固執し固着して動こうとしない。しかもその『ひどく暑い夏』という記憶自体が、彼の見てやまぬ『手前がってな夢』の一部でさえあり。…だから、周りの人々が困るのです。

で、このお話を難解にしているポイントは。…文明らのグループはさっさとこんなことを終わらせたい一心のようですが、しかし少女は必ずしもそうではない感じ、というところなのではないでしょうか。
つとめ的には、この少女は、ぜひとも紅一に観念し往生してもらいたいわけですが。しかし半分くらい彼女は、逆に紅一の“往生ぎわ”の悪さを歓んでいるようにも見えるのです。少女の着ている赤い服は、紅一の紅い眼鏡との、ひそやかな共犯関係の証しなのではないでしょうか。

そうしたわけでこの「紅い眼鏡」という作品は、『反抗は不可能だが、反抗しなければならない』と、『反抗しなければならないが、反抗は不可能である』と、2つのテーゼがぐるぐると循環し続ける世界を描いているかと思うのです。
紅一のあまりなあきらめの悪さは、はためいわくなだけだが否定もしきれない、ということなのでは。…などと申し上げれば、私があまり言いはりたくないようなテーマ論の世界に、またまぎれ込んでしまったようですが!

と、長々とおかしいことを申し上げて、まことにすみませんでした。乱筆乱文のさいごに、もういちどお礼を申し上げますと。
私のブログの題名が「Red Spectacles」なだけに、押井作品の中でもとりわけ、この「紅い眼鏡」という作品をどう見るかが、最大の課題だったのですが。『しかし、どういう切り口で?』…と考えていたところに、ひじょうに大きなヒントをたまわったことについて、あらためて感謝いたしますのです。



自己引用、終わり。あといくつか、蛇足を付け足してしまうと。

「紅い眼鏡」劇中で紅一と少女が、まさしく『出遭い(そこね)』を演じ続ける。奇妙なことだが紅一には、われわれに見えている少女が見えていない感じだ。
それをまた補足すると、ポスターや映画で映像化されている少女の姿は、ひょっとしたら見えているのかもしれない。しかし、劇中で実体かのように描写される少女は、おそらく見えていない。

そして劇中の映像としての少女は、必ずまっすぐに紅一を見るものとして描写されている。そのまなざしはどういう意味のものか?…ということに紅一が気づいてしまったら、そこでこの循環は終わるのかも知れない。

かつまた。つまらないことを述べてしまうようだけど、この「紅い眼鏡」に描かれた悪夢的な世界が、実はひとつのユートピアの創造にも他ならない。戻ることはできず、かといって行くでもない、その中途半端な位置でのたわむれが延々と続くことを、少なくとも見ているわれわれが悦んでいる。
この図式は押井作品ではひじょうにあるもので、わりに近作の「スカイ・クロラ」でもまた、勝つこともできず、敗れて死ぬこともできない者たちが、延々と無意味な戦争を遂行し続ける。で、そのことを『誰か』が悦んでいる。

――― 押井守「トーキング・ヘッド」, 序盤の会話より ―――
【製作担当】 どいつもこいつも、『始まったものは必ず終わる』と思っていやがる!

そして押井作品は、常にどこかで『終わらなくてもいいんじゃないか?』、というささやきを、われわれへと吹き込んでいるような気がするのだった。

2010/11/12

『≪抵抗≫と、ふかしぎで飛躍ある屈折』 - 立喰師列伝

前の記事『押井-寺山-関連』のためにネットを調べていて、次のようなことの書かれたサイトに行き着いた。

――― 『BE BLUE!』, Yuさんの日記、2000年10月18日より(*) ―――
ところで、寺山修司は彼独特の感性で、ラーメンはアウトローの食べ物だ、と続けて書いていて、それは「立ち食い師」なる謎の職業を捏造し、自分の作品に登場させ続ける押井守の立ち食い蕎麦に対する思い入れと良く似ている気がするのだが、どちらも何だか幻想が過剰だと思えるのは、私が、そういうのとは無縁な小市民的日常に埋没しているということなのだろうか。

そうも言えようけど、だがしかし。押井守と寺山修司のご両人から『幻想が過剰』という特徴をのぞいたら、いったい後に何が残るのだろうか? が、ともあれ、そこにご両人の共通点を発見なされた、そのセンスはするどいと感じたのだった。

というわけで、「立喰師列伝」の話をしばし。むかしからわれわれ的に『立喰師』のうわさはよく聞いたわけだが、それがようするに喰い逃げで渡世をはかる無頼の徒であると、はっきり描かれるのを見たのは、この作品で初めてだった(自分的に)。
が、毎日毎日の3食を喰い逃げでしのげるものなのだろうか?…なんて疑問はこのさい、言うもヤボなのかと。そうじゃなく、むしろ立喰師の方々は、ある種の≪ロマン≫の追求として、それをやっている感じなのだった。

で、立ち喰いという不作法な習慣の起源がどこらにあるのかは知らないが、それを押井様は、終戦直後のドサクサの産物として描かれているようなのだった。だから立ち喰いのスピリットなんてものがあるとすれば、それはいわゆる『戦後精神』みたいなもの。そして立喰師らの活動は、『戦後』的な認識を消し隠そうという流れへのレジスタンスなのだ。
…さもなくば。寺山様が『ラーメンはアウトローの食べ物』と宣言なされたことに並行し、立ち喰いなどという行為に及ぶこと自体が、すでにその人間の『よるべなさ』の証明であり。そして、そのようなよるべなきルンペン・プロレタリアート、作中の用語では『都市の遊民』、彼らのルサンチマンをこそこそと代弁しつつ、立喰師らは何かに対してやみくもに抵抗しているのだ。

そして、抵抗というなら。作中で目立って激しくようしゃなき抵抗の対象になっているのが、牛丼とハンバーガーのチェーン店であることには、りっぱに意味がありそう。どちらもアメリカ産の牛肉が食材なわけで、ようするにそれは≪米帝≫への抵抗なのだ。
また、それを追うお話で、『〇〇ランド(ディズニーランド)』のことを考えまいと必死に努力する、ふかしぎな人物が登場する。これがまた、米帝の象徴としてのディズニーランドだと考えられよう。
そしてその男≪フランクフルトの辰≫は、けっきょくそこにおもむき、その場で持ち込みのフランクフルトを食しようとして、制止に従わずにパクられてしまう。この、破滅に終わると分かりきった絶望的な抵抗をなるべくやりたくなかったので、彼は『〇〇ランドのことを考えまい』、と努力していたようなのだった。そうしてけっきょく彼は、ともかくも立喰師としてのすじを通したのだ。

まず源初、立喰師の元祖らしき≪月見の銀二≫は戦後の闇市で、わずか一杯の貧乏たらしい月見そばに『景色』なるものを見出し、審美の立場を明らかにしつつ、そして何となくポエミィで高尚めいたへりくつで人々を煙に巻いていた。それが戦後の荒廃に対する、彼なりの抵抗だったのだろうか? 澁澤龍彦・中井英夫的なスタンスの立喰師、みたいな?
そういえば、銀二が初めて大舞台を踏んだ作品「紅い眼鏡」で彼は、久々に再会したヒーローの紅一に、『この街は変わっちまった…』うんぬんと訴える。そっちのお話では(また少し異なって)、武装過激派の闘争およびケルベロス反乱といった≪抵抗≫、その存在があからさまだった時代の空気が、消されようとしていることが描かれていたのだった。で、銀二自身も同じくまた、変わらないわけにはいかなかったようだが。

しかし追ってだんだんと、立喰師の抵抗のスタイルも先鋭化しつつ荒涼としたものとなり、しまいには『テロリズム』とまで形容されるにいたる。そもそも牛丼10杯とかハンバーガー100個とか、喰っていいよと言われたとしても、あまりありがたくない感じだ。そして、そんなものをむさぼるニューウェイブ立喰師らはまるで、まず自分のキャパシティに対して抵抗していた感じもありつつ。

などなどと書いていて、思わず自分で吹き出してしまう。抵抗も何も、じっさいには立喰師らの活動なんて、ただ店のオヤジら等に迷惑をかけているだけのような気がするが。それを押井様はアクロバティックなナラティブ、社会史研究論文かのような語りを延々と連ねて、何かびみょうにはもっともらしく演出していくのだった。
そもそも現代の劇映画として、これほどまでナレーションが饒舌きわまる作品が、他にあるものだろうか? 筆者は別に気にしないけれど、これが海外にも出ている作品なので、さぞや字幕の翻訳がたいへんだったろうなあ…とは愚考す。

そして。筆者にはこの作品「立喰師列伝」の≪意味≫がやや分かる気がするし、まずこれは見ていてゆかいなしろものではある。ちょっと『景色』のあるものという感じ、それは確かだが。
けれどもこれが、『絶妙に逃げた創作』という気がしない、と言ったらうそになる。体制っぽいところへの抵抗として立喰師らが喰い逃げ的行為をがんばる…という、まったくふかしぎで飛躍ある屈折。それに対する、≪戦後≫の抵抗史みたいなものが念頭に置かれつつ立喰師というありえない人種が描かれるという、まったくふかしぎで飛躍ある屈折。この二重の屈折の提示が、ひとまずは壮大なるアイロニーの現前として成り立っているので、われわれを笑わせてはくれつつも!

いつも思うことだが押井様は、『いちばんかんじんなこと』だけは描かない。フランクフルトの辰が『〇〇ランドのことを考えない』ことを必死でがんばっていたように、押井様もまた、かんじんさをさけたところをがんばっている気がする。いや、『よそごと』と言うにも『立喰師』なんて、かなりな傑作だとは認めるけれど…!

【追記】 筆者が今作「立喰師列伝」で、いちばんうけた個所は。かの押井ワールドで名高き≪マッハ軒≫のおやじが、『屋号の由来は、哲学者で数学者のエルンスト・マッハから』(!)と宣言した場面。

2010/11/11

押井守と寺山修司, 『押井-寺山-関連』について

ことし2月以来の更新で、かろうじて1年ぶりにならなかった、みたいな。われらが押井様の勤勉さを見習って、ぜひもう少し何とかしたいところだ!

それはともかく、話の起こりはこういうこと。以下、筆者(アイスマン)によるツイッターへのポストから。大意は変えず、この文脈に沿って書きなおして。

<2010年11月06日>(*
ネットサーフィンしていたら、寺山修司の短編映画「檻囚」(1964)が見れた。見たら、『ああ…押井様はこれか』と…。ブニュエルやフェリーニに比したらオシャレ感のないところが、あれは寺山的かと。これです、寺山修司「檻囚」(*)。

さてなんだが、そこで筆者の感じたこと…。
すなわち、『押井守は寺山修司の影響を受けている(ように見える)』。もっと正確に言えば、『現象として、両者の作品系列に、モチーフ・ふんいき・手法などの重なりがある』。そんなことは、たぶんもうとっくに言いつくされているのだろう、自分がニブくてやっと気づいたのだろう…と、そのときは思ったのだが。

しかしただいまネット検索で調べてみたところ、あまりそうでもなかった。グーグル検索の威力と『ネットは広大だワ』ということを、大いにあてにしつつの話だが。これには少々、びっくりさせられたのだった。
それゆえ筆者が、押井様をも寺山修司をもあまりよく知らんことをもかえりみず、気がついたところを書きとめておきたい。なおここで言う『寺山作品』とは、映像作品と『天井桟敷』のお芝居をコアにした全般の総称。

その問題、筆者が主張したいこと、『押井守と寺山修司・それぞれの作品系列のただならぬかかわり』、以下では略して『押井-寺山-関連』について。それがいちばんはっきり言われている例として見つかったのは、ご存じエヴァンゲリオンの庵野秀明監督のインタビュー記事だった(*)。

――― 庵野秀明インタビューより(STUDIO VOICE 1996年10月号) ―――
【庵野】 『ガンダム』のとき、すでに(監督の)富野由悠季さんが、自分の仕事とはアニメファンにパロディーとしての場を与えているだけではないかという、鋭い指摘をなされていた。僕もそれを実感したのは『セーラームーン』です。あのアニメには中味がない(中略)。『エヴァ』もその点でよかったようです。所詮(キャラクターは)記号論ですが。
【聞き手】 一時期の押井守は同じ認識を持っていたと思いますが、親近感はないですか。
【庵野】 作品的にはほとんどないです。押井さんは寺山修司氏とか色々な所からイメージを持ってきてますよね。アニメファンは知らない所だからオリジナルっぽく見えてる様ですね。押井さんも自分の中に何もないんだと思います。原作付の方がおもしろいですよね。

これがわれわれのサイドからは、ひじょうに爆弾的なご発言であるように思える。つまり、富野なり庵野なり(幾原邦彦なり)のアニメ作家らは、ともかくもパロディになるようなネタを作っている。ところがわれらの押井監督は、『自分の中に何もない』がゆえ、アニメファンの知らないようなネタをこっそりとパロっているばかり、のように言われ気味ッ!?
いわば、押井作品らは常に、潜在的には『二次創作』やそれに類するものだ、と! ところが、そのようなことばにすると『まさしくそうでは?』という気もしてきたが、しかしそのポイントを、いまここでは掘り下げず。

ともかくもこの庵野監督のご発言が、もっとも『押井-寺山-関連』に迫っている言説らしいのだった。ただし、具体的に何をどう『持ってきて』いるのか、という言及がぜんぜんないが。

そこでただいま筆者が、ごくかんたんに、両作品系列の共通の特徴、『押井-寺山-関連』の目立ったポイントを箇条書きにでもしておくと。

【1.】 『シュール』とか『幻想的』とか呼ばれそうなふんいき。寺山の映像作品なら、前出の「檻囚」や「蝶服記」に見られるもの。

【2.】 人物らが、ありえないような込み入った長ぜりふをへいきで言う。それも書きことば調になることをさけず、しかも『芝居がかった』口調で抑揚も豊かに、奇妙なリズム感をともなってそれを言う。
つまり、『お芝居』であることを隠そうとしていない。かつ全般がそうだが、ふつうの意味でのリアリズムが、ないどころか打ち消されている。

【3.】 過剰にコントラストのある演出。重々しく荘重にしゃべっていた人物が、とつぜんにこっけいやズッコケを演じ始め、そしてすぐまた戻る。しかもそのような展開になる理由は、人物らの内的な要因からというよりは、『お芝居の流れの要請にもとづいて』と感じられる。
つまり、人物というよりは『役柄』があるでしかない。押井にしろ寺山にしろ、人々の共感を呼ぶような≪キャラクター≫を自力で創造できていないのは、このことによりそう。

【4.】 前項に関連するが、ことさらにモザイク的な構成がなされている。ふんいきの統一が、目ざされていない。重かったり高尚っぽかったりするお芝居の中に、ダサいド演歌を筆頭とするカッコ悪いモチーフらが、へいきでちん入してくる。

【5.】 お芝居のしかけとして、密室的な状況が無媒介で、国家社会の情勢、ひいては『世界』の構造などに、ほぼ直結で対応させられる。いまのことばで、『セカイ系』とでもいうものか。

【6.】 作中で、『幻想(フィクション, バーチャル)-と-現実』がはかりにかかれば、必ず天びんは前者に傾く。

それこれを見てくると『押井-寺山-関連』の核心は、ブレヒトの『非アリストテレス的演劇』が、シュルレアリスム的に転倒されたもの、という気がしてくる。
すなわちブレヒトの方法は、お芝居であることを隠さず、観客に共感や≪カタルシス≫を許さず、そして観るものらを『現実』に向かって還すことを目的としたものだとして。
それに対する『寺山~押井』ラインは、お芝居であることを隠さず共感もカタルシスも与えないことまではブレヒトに同じだが。しかしその特徴らが、逆に彼らのお芝居へと、仮そめの『現実味』を与えているのだ。よそよそしさが、逆に幻想やフィクションに見せかけの自立感を与えるのだ。

またここで面白いと思うのは、押井にしろ寺山にしろ、幻想サイドに行ききった創作は、めったにしていない。押井だと「天使のたまご」が、ややそれ的だが(…が、そうと言い切りたくもないが)。
むしろ両作品系列とも、多少ならず社会情勢に対してコンシャスだというポーズが取られながら、しかしけっきょくは『現実』とやらが否定的媒介として棄却され、『お芝居=幻想=フィクション』のサイドに軍配が上がる、といったお話になっている。ぜんぶがそうだとは言わないし言えないが、その傾きが大いにあるのは確か。

ここで筆者が悦ばしく思い出すのは、押井「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の一大名場面。その序盤過ぎ、メガネ君が電車の中で捨ててあった新聞を広げ、『さて、“世界情勢”はと…』と言った次の瞬間、『何ィ! 悪玉ジェット・シン、イノキに怒りの復讐宣言ッ!?』と、どうでもよさそうなプロレス(=お芝居)の情勢で頭がいっぱいになってしまう。
そしてプロレスに飽きたらメガネ君は、たぶんそのスポーツ紙のピンクコーナーを熱心に眺めて、『この曲線が、何とも…』などと、しょうがない感想をもらす。そんなことらの間に、彼の“世界”の情勢が、かなりたいへんなことになっているのも放っておいて。これが、押井作品らに見とれている≪われわれ≫の姿だ。

ところでさいごに、作品らの外側での『押井-寺山-関連』として。ご両人とも幻想肯定(現実否定)的な作風を強固にもちながら、しかし創作の過程では、ひじょうに巧妙に『現実』を泳いでおられる、ここが興味深い。
すなわち、『孤高の作家』のようにはまったくならないで、常に大量の人員と資源を動かしながら、そのストレンジな世界らを作ってこられたのだ。ほんとうにすごいのはそこかなあ…と思いながら、ひとまずは『押井-寺山-関連』について、一定の貢献がなされたとする。

2010/02/07

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『私は常に、≪真理≫を語る。』 - トーキング・ヘッド(1)

コレは、ホントに短い断章になる予定。われらが押井守カントクの映画「トーキング・ヘッド」は、アーティスト肌のカントクが企画しといて投げ出した劇場版アニメ作品を、千葉繁が演ずる≪私≫ことアルチザン(職人)に徹したカントクが、代打として仕上げよーとする、とゆうオハナシだが…。

しかし、そもそも脚本さえもがデキてない状態で(!)、しかも納期はホンの目の前に迫ってる。よって終始、カレのプロダクションは絶望テキな状態である以外でない。そンな中でイロイロなキッカケにより、カレとそのスタッフたちは長々しぃ~い映画談義を交わす。
そしてカンタンにも言い切れないが全般に、カレの率いるスタッフたちはそれぞれに、それぞれの職分こそが映画(アニメ)の真髄テキな要素なノダ…と、言い張ってる感じ。が、カントクはソレらにいちーち反論する。するとその後に、カレのプロダクションに何ンらかの事件が起こる…とゆうオハナシの流れがある。
そしてその映画談義の特徴としてビックリなコトに(?)、実写とアニメの区別とか、キホン的にはツケてない。ソレがひとつの見方かと想うので見習って、筆者もとりわけソコらの区別はしないコトにしつつ。

とゆうワケでカレらは延々~と、やや青クサくもあるよーな映画論にフケってるのだが。しかし1つのカンジンなコトだけは、ゆってない感じ。けれどもその、『1つのカンジンなコト』とはナニか?…とゆうコトはまたいつか語るとして、いまココで申したいのは。

また別の、1つのコトとして。この「トーキング・ヘッド」作中で音響担当者の言う、『映画における≪真実≫とは、サウンドトラックである』…とゆう主張がココロに残ったのだった。映画を見る者のタイドとして、目で見る映像は批判や吟味の対象にするが、耳で聞く音響やセリフに対してはそのままで受けとめる、とゆうのだ。
とゆう主張を聞いて、カントクもソレを『そのままで受けとめ』ながら補足する。いわく、『ナレーションを疑う観客はいない!』

さらにソレからも劇中のカントクはリクツを練り続けるのだが、しかし。しかし『ナゼに、映画における≪真実≫とはサウンドトラックである、なのか?』…とゆうコトへと、まっすぐに答えてなかったよーに想う。

ソコを筆者が補足すればソレは、ニンゲンにおける≪真理≫なるモノの構造に由来してる。≪真理≫とは、声で語られるモノなのだ。また別の言い方をすれば、『語る』とゆう行為そのモノが、『私は真理を語っている(虚偽を言ってない)』を前提として、なされかつ受けとめられるモノなのだ。ゆえに、『ナレーションを疑う観客はいない!』

かくて映画において、サウンドトラックこそが≪真実≫であり、映像は補足説明に他ならない。ゆわれたモノが『客観的な真実』かどーかはともかくも、受け手が≪真実≫として受けとめてるのはソレだ。しかもハナシが≪アニメ≫のコトともなれば、なおさらだ。
いちど素で見てみればアニメの画面とゆうモノは、恐ろしく情報量が少ないコトが知れよう。そのメッキリと単純で情報量が少ないコトは逆に、≪真理≫としての『語り』をぞんぶんにエンジョイさすタメのシカケなのだろーか…とゆう気もしてクるホドだ。

そーゆえば主婦テキなアニメ鑑賞のタイドとゆうモノがあって、台所仕事のあいまにコドモらが見てる夕方のアニメの画面を、チラチラ見てる。そんなでも意外とオハナシを分かってるのは、ずっと音声は聞こえてるからだ。
≪アニメ≫というもの身体とみれば、映像は表皮にすぎず音声が肉である…と言いうるのは、アニメファンたちのタイドを見てても分かる。カレたちの最大多数が崇拝するのはいわゆる『声優』らであって、演出家や脚本家らではない。かつ、いまはアニメ関連の『ドラマCD』とゆうモノが意外と売れるらしいけど、その逆にサイレントのアニメを、見ようとか作ろうとかゆうハナシは聞かない。

…と、ここまでの堕文を2009年の暮れに書いていた。もう少し発展させたいと思いながら、ここでいったんポストさせていただく。