2010/11/18

『紅い眼鏡と、赤い服の少女』 - 紅い眼鏡

前の記事、“『≪抵抗≫と、ふかしぎで飛躍ある屈折』 - 立喰師列伝”でご紹介した記事を書かれたYuさんから、ご連絡をたまわった。そしてご教示いただいたのは、Yuさんが1989年に書かれたテキスト『夢から抜け出す夢 ─ 押井守試論 89' ─』(*)。

これがひじょうに示唆あふれるものなので、まずはぜひぜひそちらをご覧ありたし。で、この記事は、それに触発されての筆者による「紅い眼鏡」の見方を、書きとめておこうとする。まずは、筆者からYuさんへのメールを自己引用。



Yu様(…略…)
ご文を拝見いたしました。すると私自身が意識している『形式的(フォルマリズム的)』な分析があざやかになされており、とても説得力ある論だと感じました!

われわれがふつうに映画を見ていると、内容(物語, テーマ性)に引っかかったり、またはイメージ(モチーフ)に引っかかったりしますけれど(…補足、押井作品の場合はないけれど、あとキャラクター論)。
しかしそんなことよりも、まず『形式』を見たらどうかということを、自分で考えていたつもりでしたが。
けれどもぜんぜん自分がそれをできてなくて、テーマ論に流れがちだったことを、(間接的に)ご教示いただいたと思います!

「紅い眼鏡」という作品が不思議に心に残るのは、おそらく押井世界において 初めて脱出するのに成功したこのシーンが感動を与えてくれるからではないだろうか。

このご意見に、まず第1段階で賛成いたします。アラン・レネ「去年マリエンバートで」的な『トリック』ですよね。
というのは、お話の構造的には脱出できない感じなのに、ともかくも脱出できたような感じに描かれている。そこで、ともかくも観客のカタルシスが生じうると。

ところが第2段階で私には、また異なる感じ方があります。というのは、その場面について、『少女が、迷宮的な都市からの脱出に成功した』という風に、私は感じたことがないからです。
むしろこの赤い服の少女こそが、迷宮のボスなのではないかと、私は思うのです。そうだから劇中映画の内容や街頭ポスター等々で、少女のイメージが迷宮の街に遍在しているのではないでしょうか。映画の終盤、超巨大な看板の少女が街全体を見下ろしているのは、言わば『そのまま』の意味であろうかと、私は感じます。

構造としては、「ビューティフル・ドリーマー」に近いような気がします。あれはラムの見ている夢の世界なのに、劇中のあたる君はまた独自の思わくをもって、その中で悪戦苦闘するでしょう。それとやや近い感じで、少女が仕切っている世界の中で、紅一は活躍しているのではないかと。

で、「紅い眼鏡」の世界では、意図や理由は分かりませんが、そこでその少女が紅一(たち)に、何らかの試練を受けさせる。そしてその試練を突破する紅一(たち)がぜんぜんいないので、ラストシーンで彼女は、また別の紅一を迎えに行く、というお話と、受け止めていました。
ご文にもありますように、さいしょの場面で紅一が空港に着いて、そこで少女とすれ違いますね。そこに戻って繰り返されるのだろう、という見通しです。というか、終盤の文明のせりふに『またか!』と言われているように、もうぞんぶんに繰り返されているのでしょう。



で、このお話はどういうことかというと、ひとつの思いつきを言わせてください。ようするにこの少女は≪ワルキューレ≫であって、紅一はすでに死んでいます。
が、死んでいながら死んでいることに気づいていないので、ワルキューレである少女が、その魂を冥界に運ぶことができないのです。文明たちの演じているお芝居は、紅一に死の自覚を促そうとしているのですが、紅一はあまりにもかたくなに、それを認めないのです。

【下っぱ】 自分が撃たれたことにも気がついていないような、そんな死に方でした
【文明】 おおかた、手前がってな夢でも見ていたんだろう

紅一が死の自覚をいだくことができず、その『手前がってな夢』からさめることができないので、彼らはいつまでも、これを繰り返さねばならないのではないでしょうか。強化服が回収できないことは、紅一の“往生ぎわ”の悪さを示しており、そして彼が持ち歩く大量の紅い眼鏡もまた、その反抗のやまなさを表しているのでは。

終わりの方で紅一がタクシーの中で、『時はとどまったまま、われわれだけがうつろいゆく』と言いますね。むしろ死すべき人間のつとめとして、うつろわねばならない、とも考えられます。
なのに紅一は、1995年の『ひどく暑い』夏に固執し固着して動こうとしない。しかもその『ひどく暑い夏』という記憶自体が、彼の見てやまぬ『手前がってな夢』の一部でさえあり。…だから、周りの人々が困るのです。

で、このお話を難解にしているポイントは。…文明らのグループはさっさとこんなことを終わらせたい一心のようですが、しかし少女は必ずしもそうではない感じ、というところなのではないでしょうか。
つとめ的には、この少女は、ぜひとも紅一に観念し往生してもらいたいわけですが。しかし半分くらい彼女は、逆に紅一の“往生ぎわ”の悪さを歓んでいるようにも見えるのです。少女の着ている赤い服は、紅一の紅い眼鏡との、ひそやかな共犯関係の証しなのではないでしょうか。

そうしたわけでこの「紅い眼鏡」という作品は、『反抗は不可能だが、反抗しなければならない』と、『反抗しなければならないが、反抗は不可能である』と、2つのテーゼがぐるぐると循環し続ける世界を描いているかと思うのです。
紅一のあまりなあきらめの悪さは、はためいわくなだけだが否定もしきれない、ということなのでは。…などと申し上げれば、私があまり言いはりたくないようなテーマ論の世界に、またまぎれ込んでしまったようですが!

と、長々とおかしいことを申し上げて、まことにすみませんでした。乱筆乱文のさいごに、もういちどお礼を申し上げますと。
私のブログの題名が「Red Spectacles」なだけに、押井作品の中でもとりわけ、この「紅い眼鏡」という作品をどう見るかが、最大の課題だったのですが。『しかし、どういう切り口で?』…と考えていたところに、ひじょうに大きなヒントをたまわったことについて、あらためて感謝いたしますのです。



自己引用、終わり。あといくつか、蛇足を付け足してしまうと。

「紅い眼鏡」劇中で紅一と少女が、まさしく『出遭い(そこね)』を演じ続ける。奇妙なことだが紅一には、われわれに見えている少女が見えていない感じだ。
それをまた補足すると、ポスターや映画で映像化されている少女の姿は、ひょっとしたら見えているのかもしれない。しかし、劇中で実体かのように描写される少女は、おそらく見えていない。

そして劇中の映像としての少女は、必ずまっすぐに紅一を見るものとして描写されている。そのまなざしはどういう意味のものか?…ということに紅一が気づいてしまったら、そこでこの循環は終わるのかも知れない。

かつまた。つまらないことを述べてしまうようだけど、この「紅い眼鏡」に描かれた悪夢的な世界が、実はひとつのユートピアの創造にも他ならない。戻ることはできず、かといって行くでもない、その中途半端な位置でのたわむれが延々と続くことを、少なくとも見ているわれわれが悦んでいる。
この図式は押井作品ではひじょうにあるもので、わりに近作の「スカイ・クロラ」でもまた、勝つこともできず、敗れて死ぬこともできない者たちが、延々と無意味な戦争を遂行し続ける。で、そのことを『誰か』が悦んでいる。

――― 押井守「トーキング・ヘッド」, 序盤の会話より ―――
【製作担当】 どいつもこいつも、『始まったものは必ず終わる』と思っていやがる!

そして押井作品は、常にどこかで『終わらなくてもいいんじゃないか?』、というささやきを、われわれへと吹き込んでいるような気がするのだった。

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