2010/11/19

『9フィートラインの彼岸より』 - トーキング・ヘッド

ご存じのように押井守「トーキング・ヘッド」は、『渡り演出家』と呼ばれるプロフェッショナルのヒーローが、なぞの失踪をとげた監督に代わって、まさにその題名が『トーキング・ヘッド』というアニメーション作品を完成させようとするお話。
だがしかし彼がおもむいた、陽光から見捨てられたスタジオには、きわめておかしい人物らが集まっており、不可解でナンセンスなイベントばかりが続く。そしておなじみの過剰なおしゃべりで映画論がカラ廻りしつつ、しかもそのスタジオで連続殺人事件が発生、といった不条理劇だが。

それについてここでは、1つだけ、気になったことを書いておく。作品の中盤すぎ、製作がうまくいかないからかどうか、原画担当スタッフ3人組が、路上のようなところで監督を襲撃する。

【原画マン】 ここが、てめえのフィルモグラフィーのつきるところだ!

このせりふが、みょうに心に残る。そうして向こうが殺る気まんまんと知ったので、腹心の助監督がヒーローに、ズ太い砲身をもった『キャメラ+ライフル』のような銃器を渡す。それを構えて、ヒーローはいわく。

【監督】 この写真銃は、秒24コマの速射が可能だ
ヤツらが被写体のオキテを破って9フィートラインを踏み越えた、その時が勝負だ!

そうすると、カメラと敵らとの間の路上に、目盛りの線が書かれているのが映しだされる。そして敵がその9フィートラインとやらを越えたらしいところで、監督は引き金を引く。
すると撃たれた者たちはどうなるかって、スチールのようにそこで固まって、身動きとれなくなってしまう。動けない敵たちを監督は、体術で返り討ちにする。

という、この『写真銃』というものは何だろうか?…ということも、気にならないことはないが。
しかし筆者が引っかかったのは、『9フィートライン』ということばに対してなのだった。たぶん何らかの映画用語で、撮影のセオリーとして9フィートの距離を取る、ということまでは想像できたのだが。

…が、ともかくも確認と思って『9フィートライン』で検索してみたら、ヒットするのは何と、釣り関係のページばかり(!)。そこで検索語に『映画』を加えて、やっと見つけたのが、次のページなのだった。

『書評 映画スタイルの歴史編纂の見直しとその意義』(*

これは何か…ということがすでに分かりやすくないが、デイヴィッド・ボードウェルというアメリカの映画学者の著書「映画スタイルの歴史について」(David Bordwell“On the History of Film Style”, 1997)の、レビュー兼サマリーであるらしい。それを書いておられるのは、日本のアカデミーの学者さま方らしい。
そしてその『最終章「例外的に正しい知覚――深度の演出について」』のパラグラフに、次のようにあり。

1910年代のフランスでは、カメラを被写体から12フィートの位置にとらええたため、人物の膝下が切れるいわゆる「フレンチ・フォアグラウンド」として知られる撮影法が採用された。1909年のヴァイタグラフ社の映画群では、カメラをやや被写体に接近させ、9フィートの位置でとらえたため、フロントラインが4~4.5フィートとなり、股下あたりで切れる「プラン・アメリカン」として知られる撮影法が採用された。

『9フィートライン』とはこれのことでなければ、それが何であるのかはなぞのままだ。たぶん映画の標準的な50mmレンズで、9フィート離れた位置から人物を撮ると、頭から股下までがフレームに入る。
…ほんとうにそうなるかどうか計算も可能だろうが、しかし筆者にはめんどう(!)。ともあれ、こうした構図法『アメリカン・プラン』を尊んだ時代と地域があった、ということらしい。

にしても筆者は、リンク先のテキストを拝読して、『映画というものがどうしてこんなにまでも、人々にへりくつを言わせるのか』…と、感銘とへきえきを同時に味わったのだった。「トーキング・ヘッド」劇中に描かれたおしゃべり大会は、別にそこだけにあるものではないと、あまりにも確認できすぎる。

バーチの「対抗的プログラム」に対して著者は、自身の掲げる「認知論的映画理論」の学問的合理主義に反するバーチの形式化=構造化過程において「要素」を取捨選択する「倫理学」、つまり「パラメータ」(モダニズム音楽のセリー音楽にならって映画の「媒介の技法」を唯物論的にとらえたもの)における二分法(「ソフト・フォーカス」/「シャープ・フォーカス」、「直接的」音響/事後的に付加された音響など)、バーチが主張する「再現モード」における二元論(制度的/原初的)の「価値判断」の前提となっているブルジョワ・イデオロギーのモノロジックに批判を加える。

…うんぬん。と、よくは分からないなりにこのテキストを拝読していると、映画の技法の超基本には、『不自然なものを自然かのように錯覚させる』ということがあるもよう。『標準レンズ』をもって、9フィートの『標準的な距離』をとって撮影するということも、その『自然さ』の演出の一環ではあろう。
で、引用中にもある語だが、『不自然なものを自然かのように錯覚させる』ということを言い換えて、ふつうは『イデオロギー的実践』などと呼ぶ。映画と呼ばれるもの自体がそれであるのに加え、映画論や映画史と呼ばれるものらが、またそれだ。

「トーキング・ヘッド」作中で人々はしばしば、テクノロジーの制約がひじょうに大きく、かつ観客が素朴であった時代の存在を想定し、それをユートピアかのように言う。だがその一方に、テクニカラーやトーキーの登場から現在の3D映像や立体音響にいたるまでの映画テクノロジーの発達を、『リアルな現実感』への接近と、素朴に賛美する見方もある。
そしてそのいずれを言い張ることも、『イデオロギー的言説』であることはまちがいないだろう。だがしかし確かなことは、いまから単にモノクロでサイレンスの映画を撮ってみたところで、あのユートピアの復元はない。

【色指定係】 いつだって、映画は目先の新奇な贈り物と引き換えに、大事な思い出を捨ててきたんだもの

と、「トーキング・ヘッド」の作中人物は言う。そうだがしかし、『目先の新奇な贈り物』の登場こそが、単なる過去のものを『大事な思い出』にまで押し上げている、とも言えよう。
(おことわり:『リアルな現実感』という語は、「トーキング・ヘッド」作中の脚本家のせりふより)

で、ふたたびリンク先のテキストから引用すると。

ゴダールに代表される戦後の「前衛運動」の映画作家の実践は、「大文字」の「制度」に対抗すべく過去の形式スタイルの反復や引用、そしてコンテクストを錯乱させることによって、「意味」を過剰にしていき、解釈の地平を過剰コード化することで「意味」を宙吊りにしたが、バーチの言説は表象スタイルにおける「内容」=「意味」を削ぎ落とし、観客の「パラメータ」の読みの体験を「テクストの意味」へと配置転換させたといえよう。

筆者のもあまり変わらない感じだが、このようにカッコのやたらに多い文章はどうなのか。ついついそうなってしまうのもよく分かりつつ、『せめて半分くらいにできないか』、という問題意識はありたいところだ。

まあそれはともかく、われらが押井監督の方法にしても、『コンテクストを錯乱させることによって、「意味」を過剰にしていき、解釈の地平を過剰コード化することで「意味」を宙吊りに』…くらいで、いちおう言いえていそうな感じだ。
ただし、筆者が特異だと思うのは。「トーキング・ヘッド」にしてもそうなのだが、押井作品においてはしばしば、『「意味」を過剰にしていき、解釈の地平を過剰コード化することで「意味」を宙吊りに』ということが、笑いの演出へと方向づけられている。

ゴダール作品にしても、ぜんぜん笑うところがないということはないが、けれどそれを全般的に『笑劇(ファルス)』であると感じている人は、そう多くはないだろう。そうして押井監督の作品群は、どうだろうか?
そんなにはっきり言われていることではないが、ジャック・ラカンの主張に『笑うことは、考えをやめることである』。笑うことは、内心や論理の葛藤によって高まったエネルギーにはけ口を与える。

で、作品「トーキング・ヘッド」について言えそうなこととして。それは作中で映画について、物語やキャラクター、色彩と音響、演出家とスタッフ…等々のいろいろを検討してみせているが、しかしまず観客=≪お客さん≫というものをカッコにくくり出している、それはきわめて明示的に。『お客さん(観客)とは何か?』は、ことばでは言われずして、明らかにこの作品のかげの最大のテーマだ。
そしてもうひとつは秘匿的に、映画における笑いの機能を語っていない。それが押井作品をいちおうのエンターテインメントとして成り立たせ、出口のない状況を描く作品に心理的な出口を与えていることは、まず第1段階で確かでありながら。

【脚本家】 映画にルールなんてない。作られた作品が、そのままルールになるのだから

これは正しいが、うそっぱちだ。ルールはなくとも映画の文脈(コンテクスト)があり、作品「トーキング・ヘッド」もまた、さんざんにそのコンテクストを利用している。ゆえにこの作品が、映画らしきものに見えている。わけのわからない乱闘に『写真銃』なるアイテムと『9フィートライン』なることばがそえられて、そこでその乱闘それ自体が『映画的イベント』かのようなものになる。
ただし、なさそうなところにコンテクストをねつ造し、なかった線を新たにひいてみせることの生産性、それは大いに認めなければならないだろう。

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