2010/11/11

押井守と寺山修司, 『押井-寺山-関連』について

ことし2月以来の更新で、かろうじて1年ぶりにならなかった、みたいな。われらが押井様の勤勉さを見習って、ぜひもう少し何とかしたいところだ!

それはともかく、話の起こりはこういうこと。以下、筆者(アイスマン)によるツイッターへのポストから。大意は変えず、この文脈に沿って書きなおして。

<2010年11月06日>(*
ネットサーフィンしていたら、寺山修司の短編映画「檻囚」(1964)が見れた。見たら、『ああ…押井様はこれか』と…。ブニュエルやフェリーニに比したらオシャレ感のないところが、あれは寺山的かと。これです、寺山修司「檻囚」(*)。

さてなんだが、そこで筆者の感じたこと…。
すなわち、『押井守は寺山修司の影響を受けている(ように見える)』。もっと正確に言えば、『現象として、両者の作品系列に、モチーフ・ふんいき・手法などの重なりがある』。そんなことは、たぶんもうとっくに言いつくされているのだろう、自分がニブくてやっと気づいたのだろう…と、そのときは思ったのだが。

しかしただいまネット検索で調べてみたところ、あまりそうでもなかった。グーグル検索の威力と『ネットは広大だワ』ということを、大いにあてにしつつの話だが。これには少々、びっくりさせられたのだった。
それゆえ筆者が、押井様をも寺山修司をもあまりよく知らんことをもかえりみず、気がついたところを書きとめておきたい。なおここで言う『寺山作品』とは、映像作品と『天井桟敷』のお芝居をコアにした全般の総称。

その問題、筆者が主張したいこと、『押井守と寺山修司・それぞれの作品系列のただならぬかかわり』、以下では略して『押井-寺山-関連』について。それがいちばんはっきり言われている例として見つかったのは、ご存じエヴァンゲリオンの庵野秀明監督のインタビュー記事だった(*)。

――― 庵野秀明インタビューより(STUDIO VOICE 1996年10月号) ―――
【庵野】 『ガンダム』のとき、すでに(監督の)富野由悠季さんが、自分の仕事とはアニメファンにパロディーとしての場を与えているだけではないかという、鋭い指摘をなされていた。僕もそれを実感したのは『セーラームーン』です。あのアニメには中味がない(中略)。『エヴァ』もその点でよかったようです。所詮(キャラクターは)記号論ですが。
【聞き手】 一時期の押井守は同じ認識を持っていたと思いますが、親近感はないですか。
【庵野】 作品的にはほとんどないです。押井さんは寺山修司氏とか色々な所からイメージを持ってきてますよね。アニメファンは知らない所だからオリジナルっぽく見えてる様ですね。押井さんも自分の中に何もないんだと思います。原作付の方がおもしろいですよね。

これがわれわれのサイドからは、ひじょうに爆弾的なご発言であるように思える。つまり、富野なり庵野なり(幾原邦彦なり)のアニメ作家らは、ともかくもパロディになるようなネタを作っている。ところがわれらの押井監督は、『自分の中に何もない』がゆえ、アニメファンの知らないようなネタをこっそりとパロっているばかり、のように言われ気味ッ!?
いわば、押井作品らは常に、潜在的には『二次創作』やそれに類するものだ、と! ところが、そのようなことばにすると『まさしくそうでは?』という気もしてきたが、しかしそのポイントを、いまここでは掘り下げず。

ともかくもこの庵野監督のご発言が、もっとも『押井-寺山-関連』に迫っている言説らしいのだった。ただし、具体的に何をどう『持ってきて』いるのか、という言及がぜんぜんないが。

そこでただいま筆者が、ごくかんたんに、両作品系列の共通の特徴、『押井-寺山-関連』の目立ったポイントを箇条書きにでもしておくと。

【1.】 『シュール』とか『幻想的』とか呼ばれそうなふんいき。寺山の映像作品なら、前出の「檻囚」や「蝶服記」に見られるもの。

【2.】 人物らが、ありえないような込み入った長ぜりふをへいきで言う。それも書きことば調になることをさけず、しかも『芝居がかった』口調で抑揚も豊かに、奇妙なリズム感をともなってそれを言う。
つまり、『お芝居』であることを隠そうとしていない。かつ全般がそうだが、ふつうの意味でのリアリズムが、ないどころか打ち消されている。

【3.】 過剰にコントラストのある演出。重々しく荘重にしゃべっていた人物が、とつぜんにこっけいやズッコケを演じ始め、そしてすぐまた戻る。しかもそのような展開になる理由は、人物らの内的な要因からというよりは、『お芝居の流れの要請にもとづいて』と感じられる。
つまり、人物というよりは『役柄』があるでしかない。押井にしろ寺山にしろ、人々の共感を呼ぶような≪キャラクター≫を自力で創造できていないのは、このことによりそう。

【4.】 前項に関連するが、ことさらにモザイク的な構成がなされている。ふんいきの統一が、目ざされていない。重かったり高尚っぽかったりするお芝居の中に、ダサいド演歌を筆頭とするカッコ悪いモチーフらが、へいきでちん入してくる。

【5.】 お芝居のしかけとして、密室的な状況が無媒介で、国家社会の情勢、ひいては『世界』の構造などに、ほぼ直結で対応させられる。いまのことばで、『セカイ系』とでもいうものか。

【6.】 作中で、『幻想(フィクション, バーチャル)-と-現実』がはかりにかかれば、必ず天びんは前者に傾く。

それこれを見てくると『押井-寺山-関連』の核心は、ブレヒトの『非アリストテレス的演劇』が、シュルレアリスム的に転倒されたもの、という気がしてくる。
すなわちブレヒトの方法は、お芝居であることを隠さず、観客に共感や≪カタルシス≫を許さず、そして観るものらを『現実』に向かって還すことを目的としたものだとして。
それに対する『寺山~押井』ラインは、お芝居であることを隠さず共感もカタルシスも与えないことまではブレヒトに同じだが。しかしその特徴らが、逆に彼らのお芝居へと、仮そめの『現実味』を与えているのだ。よそよそしさが、逆に幻想やフィクションに見せかけの自立感を与えるのだ。

またここで面白いと思うのは、押井にしろ寺山にしろ、幻想サイドに行ききった創作は、めったにしていない。押井だと「天使のたまご」が、ややそれ的だが(…が、そうと言い切りたくもないが)。
むしろ両作品系列とも、多少ならず社会情勢に対してコンシャスだというポーズが取られながら、しかしけっきょくは『現実』とやらが否定的媒介として棄却され、『お芝居=幻想=フィクション』のサイドに軍配が上がる、といったお話になっている。ぜんぶがそうだとは言わないし言えないが、その傾きが大いにあるのは確か。

ここで筆者が悦ばしく思い出すのは、押井「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」の一大名場面。その序盤過ぎ、メガネ君が電車の中で捨ててあった新聞を広げ、『さて、“世界情勢”はと…』と言った次の瞬間、『何ィ! 悪玉ジェット・シン、イノキに怒りの復讐宣言ッ!?』と、どうでもよさそうなプロレス(=お芝居)の情勢で頭がいっぱいになってしまう。
そしてプロレスに飽きたらメガネ君は、たぶんそのスポーツ紙のピンクコーナーを熱心に眺めて、『この曲線が、何とも…』などと、しょうがない感想をもらす。そんなことらの間に、彼の“世界”の情勢が、かなりたいへんなことになっているのも放っておいて。これが、押井作品らに見とれている≪われわれ≫の姿だ。

ところでさいごに、作品らの外側での『押井-寺山-関連』として。ご両人とも幻想肯定(現実否定)的な作風を強固にもちながら、しかし創作の過程では、ひじょうに巧妙に『現実』を泳いでおられる、ここが興味深い。
すなわち、『孤高の作家』のようにはまったくならないで、常に大量の人員と資源を動かしながら、そのストレンジな世界らを作ってこられたのだ。ほんとうにすごいのはそこかなあ…と思いながら、ひとまずは『押井-寺山-関連』について、一定の貢献がなされたとする。

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