コレは、ホントに短い断章になる予定。われらが押井守カントクの映画「トーキング・ヘッド」は、アーティスト肌のカントクが企画しといて投げ出した劇場版アニメ作品を、千葉繁が演ずる≪私≫ことアルチザン(職人)に徹したカントクが、代打として仕上げよーとする、とゆうオハナシだが…。
しかし、そもそも脚本さえもがデキてない状態で(!)、しかも納期はホンの目の前に迫ってる。よって終始、カレのプロダクションは絶望テキな状態である以外でない。そンな中でイロイロなキッカケにより、カレとそのスタッフたちは長々しぃ~い映画談義を交わす。
そしてカンタンにも言い切れないが全般に、カレの率いるスタッフたちはそれぞれに、それぞれの職分こそが映画(アニメ)の真髄テキな要素なノダ…と、言い張ってる感じ。が、カントクはソレらにいちーち反論する。するとその後に、カレのプロダクションに何ンらかの事件が起こる…とゆうオハナシの流れがある。
そしてその映画談義の特徴としてビックリなコトに(?)、実写とアニメの区別とか、キホン的にはツケてない。ソレがひとつの見方かと想うので見習って、筆者もとりわけソコらの区別はしないコトにしつつ。
とゆうワケでカレらは延々~と、やや青クサくもあるよーな映画論にフケってるのだが。しかし1つのカンジンなコトだけは、ゆってない感じ。けれどもその、『1つのカンジンなコト』とはナニか?…とゆうコトはまたいつか語るとして、いまココで申したいのは。
また別の、1つのコトとして。この「トーキング・ヘッド」作中で音響担当者の言う、『映画における≪真実≫とは、サウンドトラックである』…とゆう主張がココロに残ったのだった。映画を見る者のタイドとして、目で見る映像は批判や吟味の対象にするが、耳で聞く音響やセリフに対してはそのままで受けとめる、とゆうのだ。
とゆう主張を聞いて、カントクもソレを『そのままで受けとめ』ながら補足する。いわく、『ナレーションを疑う観客はいない!』。
さらにソレからも劇中のカントクはリクツを練り続けるのだが、しかし。しかし『ナゼに、映画における≪真実≫とはサウンドトラックである、なのか?』…とゆうコトへと、まっすぐに答えてなかったよーに想う。
ソコを筆者が補足すればソレは、ニンゲンにおける≪真理≫なるモノの構造に由来してる。≪真理≫とは、声で語られるモノなのだ。また別の言い方をすれば、『語る』とゆう行為そのモノが、『私は真理を語っている(虚偽を言ってない)』を前提として、なされかつ受けとめられるモノなのだ。ゆえに、『ナレーションを疑う観客はいない!』。
かくて映画において、サウンドトラックこそが≪真実≫であり、映像は補足説明に他ならない。ゆわれたモノが『客観的な真実』かどーかはともかくも、受け手が≪真実≫として受けとめてるのはソレだ。しかもハナシが≪アニメ≫のコトともなれば、なおさらだ。
いちど素で見てみればアニメの画面とゆうモノは、恐ろしく情報量が少ないコトが知れよう。そのメッキリと単純で情報量が少ないコトは逆に、≪真理≫としての『語り』をぞんぶんにエンジョイさすタメのシカケなのだろーか…とゆう気もしてクるホドだ。
そーゆえば主婦テキなアニメ鑑賞のタイドとゆうモノがあって、台所仕事のあいまにコドモらが見てる夕方のアニメの画面を、チラチラ見てる。そんなでも意外とオハナシを分かってるのは、ずっと音声は聞こえてるからだ。
≪アニメ≫というもの身体とみれば、映像は表皮にすぎず音声が肉である…と言いうるのは、アニメファンたちのタイドを見てても分かる。カレたちの最大多数が崇拝するのはいわゆる『声優』らであって、演出家や脚本家らではない。かつ、いまはアニメ関連の『ドラマCD』とゆうモノが意外と売れるらしいけど、その逆にサイレントのアニメを、見ようとか作ろうとかゆうハナシは聞かない。
…と、ここまでの堕文を2009年の暮れに書いていた。もう少し発展させたいと思いながら、ここでいったんポストさせていただく。
2010/02/07
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