2009/10/31

襲撃!『中二病』ゾンビの猛威! Pt.2 - パトレイバー(4)

(『Pt.1』からの続き…)「機動警察パトレイバー」を見てく前に、チョッと余談を。追って調べてみたら、ネット上の話題として『押井守-と-中二病』は、けっこー言われてるコトだと知った。
どーゆうコトかとゆうと、われらのカントクがヒト前で不用意なおしゃべりをワリとなされがちなので。するとネットピープルが『ッたく押井は中二病でェ』…みたく反応する、的な。
(このテのネット用語はだぃたぃそうだが、いっきなし『上から目線』で、モノが言われてる。ヒトに対して『空気を嫁』とゆうヒトは、自分は空気が読めてると想ってるし。かつヒトを『中二病』と診断するヒトは、自分は異なると想ってるのだろう)

…そーゆう見方が現にある、と知った上で眺めれば。さきにご紹介した「学園黙示録」第5巻の帯に並んだスイセン文2本が、ヘンなイミ作用をきたしてるよーにも見えてクる。カンタンに申せば賀東氏が自らもろともにわれらの押井カントクもまた、リッパな『中二病男児』だとおおせかのよーな。
そのよーな記号作用が意図テキに演出されてンだとは、まさか想わないが。にしてもこのよーに、「学園黙示録」とゆうまんが本の上で運悪く(?)、『押井守』と『中二病』、とゆう2コの単語が出遭(いそこな)い、その場でヘンにイミありげな2ショットが構成されちまッてる。とゆう眺めを見て筆者は、何ンとな~く面白いと想わンでもないのだッた。…と、余談はココまでにして…。

さぁて「機動警察パトレイバー」のハナシだが、われわれが前回の堕文にて見た『趣味人』テキな悪役≪内海課長≫の造型。カレたちの特異なる所業らが、原作まんが全編のハシラをなすモノであろーかと、われわれは考えた。
とゆう地点から、押井守カントクによる「機動警察パトレイバー」の劇場映画版、その2本を見返せばッ? 最初からチラホラ想ってたコトだが、その押井劇場版「パトレイバー」2本につぃて、オハナシの中心に存在してるよーな≪事件≫らを起こす連中が、どーにも『マトモな犯罪者』とは言いがたい。『ナゼそんなコトを?』とゆう動機の部分に、よくは分かりがたぃモノがある。
比するなら「イノセンス」なンてのもワケ分からな気味な映画だが、しかし劇中の黒幕の動機は『不正な手段を用いても、大もーけしたい』…と、いたってシンプルだ。いわばソコには、『マトモな悪人』とゆうテイサイがある(!)。けれどそーゆう分かりやすさ(の断片)が、押井劇場版「パトレイバー」2本の方にはない

『ナゼそーなのか』…とゆうコトを、ただ考えてても分かンなかったが。しかし原作まんがをひととーり見た上では、ソレがワリと分かったよーな気に…(前にもゆったが、筆者は「パトレイバー」シリーズについてごく最近まで、ほぼ何も知らンかった。まず押井劇場版2本を見てから、追って他のシリーズ作らに触れつつある)。
つまり押井劇場版「パトレイバー」2本に出てるストレンジな悪役たちは、原作まんがの生み出した『新味ある悪のヒーロー』である内海へと対抗してンのだ。そのカマエからカレらは、何ンかこう常人には割り切れず≪共感≫あたわざるよーな動機によって、その悪事らにハゲんでみせたのだ。

そして前向きにとらえるならば、その部位において押井劇場版「パトレイバー」2本は、原作まんが以来のシリーズの特徴を、チャンと継承してンのだ…とも言える。つまり原作でゆうきまさみセンセが描いておられるのは、レイバー隊がフツーの警察とはかなり異なるよーに、その敵手らもまた、フツーの犯罪者らとはかなり異なる…とゆう物語だし。
…何ン度もゆったコトだが、対峙してる双方に、抜きがたき『遊び』のフンイキがある。とゆうトコが、一般テキなSF警察モノに対して「パトレイバー」が≪差異≫をなしてる部位だ。そのフンイキを楽しめないヒトには、「パトレイバー」は楽しめないよーな気がする。
(ところがだ、「パトレイバー」シリーズ諸作の中で押井劇場版2本がやや浮いてンのは、1つ申すと、その『遊びのフンイキ』がややウスぃとゆうコトだ。ソコは、気にしとくべきポイントかも?)

で、見てれば内海はケシカらぬ悪党にはチガイないが、しかしナゼだかストレートには憎みきれぬヤツ…と感じるとすれば、ソレはわれわれがレイバー隊と内海とのカケ合いに、モンダイの『遊び』とゆうモノを見てるからだろう。そーであれば内海の想うツボなンだが、しかしそうだ。原作「パトレイバー」が面白い作品だと感じられる理由の半分くらぃは、内海による劇中の『演出』らが面白ぃからだ。
と、そのよーに。『悪のヒーロー』として≪デスラー≫や≪シャア≫らに及ぶまではイカぬにしろ、しかしカレらとはまた異なるニューテイストを魅せた内海課長がいて…。追ってそのカレに対抗し、またフカシギな悪事をなした、押井劇場版「パトレイバー」2本の悪役たちがいて…。

けれども後者らが、内海カチョーに匹敵するよーな『オモシロ演出』を、その劇中でなしえたかとゆうと…ッ!?

とまでを見てから、押井劇場版「パトレイバー」2本の悪役らの所業をチョッと、チェキってみるのだが。そーしてそーゆう話題だけに以下はネタばらし的なハナシになるコトを、皆さまにお断りしつつ。

さてだけど押井劇場版「パトレイバー」の1本め(1989)の悪役につぃて、筆者は異様に語りニクぃモノを感じるのだった。粗雑にゆうならこの犯人は、天才的なプログラマーでありつつ、そしてありえぬホド影のウスぃ、存在感のない人物で…。そして急激な再開発によって喪われつつある≪東京≫の姿を惜しむよーなキモチから、その悪だくみに及んだらしぃ。そして、全都に大惨事をもたらすよーなプログラムをシカケた上で、本人はサッサと自殺してしまったらしぃ
とゆう記述が、合ってンのかどーかも(自分では)判断しがたいが。にしても『そのよーなジンブツ像をどー見るか?』とゆう問いの前に、筆者はスマンが絶句せざるをえない。

…この犯人サンがココロにいだいた(らしき)、『喪われつつある≪東京≫』への愛惜のキモチ…とゆうトコまでは、筆者にはヒジョーによく分かるのだ。いちおう自分も東京のニンゲンだし、そんなよーな時代(“バブル”の前後)に『同じ』眺めを見てキたンだから。
だからカレの生前の足取りを追う刑事たちが、『喪われつつある≪東京≫』的なうらぶれたスポットをたずね歩き、そーしてしまぃに廃墟っぽぃトコでひと休みしてるかと想ったら、カメラがグッと引いて大俯瞰になり、その廃墟は取り壊された銭湯の跡だと分かる…とゆう、あのメイ場面。ソレにはひじょうに、クるモンを覚えるのだが…。

さらに物語のさいご、『カレ』のシカケた大惨事を防止しよーとするレイバー隊員たちは最終的に、高い塔のてっぺんの制御室っぽいトコにビッシリと、大量の鳥たちが休んでるのを見る。その鳥たちは在原業平の名歌に詠まれた≪都鳥≫であり、翼はあれどもナゼかドコへも行けない連中であり、つまり『カレ』およびオレのよーな東京土着民らをさす。
不在の犯人がそのよーな姿で現れて、ソコで≪われわれ≫との出遭い(そこね)を演じてるのだ。そーして自分は、その場面にて見出されたのが『カレ』なのか、あるいは『オレ』なのか…とゆうまどいの前でめまいを感じるのだッた。
(参考: あまりカンケイないかも知れンが黒澤明「野良犬」で、ヒーローの刑事はカレの追う犯人像にセマるたび、『カレ-と-われ』との区別がひじょうにツケにくくなってクる。そーしてさいごの大詰め、泥ンコの中で取っ組みあって全身が真っ黒ヶになったご両人は、客観テキにまったく区別がツカなくなる)

だが、しかし。そーかとゆっても『そのコト』が、われらの犯人サンがその兇行をプログラムしてかつ自殺し去った、その≪理由≫になるのかどーかッ?
『そーゆうワケ』によって、『そーゆうコト』になりました…と言われたら、ナニか無視しえぬ大飛躍があるンじゃないか…とゆう気がしてならない。1つのカンジンなコトが、言わずとも言われてる…とゆう感じがしない。申し切れぬコトだが、例の≪メガネくん≫の使った語を借りれば『寸足らず』、ビミョーにも『寸足らず』な表現になっちゃッてンのでは、と感じられるのだが?
そしてムリにでもお題に引きツケて申すなら、そーした『寸足らず』感の現前が『中二病』の症候とゆうコトを想わせなくもない、と。(…『Pt.3』へ続く)

2009/10/29

急襲!『中二病』ゾンビの猛威ッ!! Pt.1 - パトレイバー(3)

この堕文の題名に出てる『中二病』とゆうコトバ、近ごろのチョイとした流行語(?)。前からチラホラと聞いたよーな気もするのだが、『ソレ、どーゆうイミなの?』とオレが気にしてみた理由は、われらが押井守カントクとゼンゼン関係ないハナシではない

と、申すのは。まったく知らンでフと手に取った近年のまんが作品に、佐藤大輔+佐藤ショウジ「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」(角川コミックスドラゴンJr., 2007, 刊行中)とゆうモノがあり。
別に通読も精読もしてないけどソレは、兇暴なゾンビになる伝染病が急に大流行し、そーして主人公の少女と少年らが、元は同級生やガッコのセンセだったゾンビらと闘いながら、身の安全を求めて移動するよーなオハナシらしぃ。すなおな印象、ゾンビとゆう題材と「バトル・ロワイヤル」とのカケ合わせ、with パンチラ(“萌え”っぽぃフンイキ?)って感じばかりのモンだが。
(…その作品へ特にイミもなく≪パンチラ≫がやたら出てるコトには、ゆうまでもなく≪イミ≫がありすぎる。特に1パツめが残虐な暴力シーンに対して、いわゆる≪縞パン≫の喰い合わせ、とゆうのがユカイだ。コレは、お刺身を食パンにはさんで喰うよーな新しぃ味覚の提案かとも受けとれる)

そしてその「学園黙示録」の第5巻へと、われらの押井カントク(ら)が帯スイセン文を寄せておられるのだった。そンなトコにご登場されるとはゼンゼン予想外だったので、『アレ?』と想ったのだッた。で、その帯スイセン文(ら)を、そのまま引用してみれば。

押井守<映画監督>『絢爛たる暴力の顕現に期待します。総員刮目して見よ!』
賀東招二<小説家>中二病男児(俺含む)の理想郷!!』

…このよーに並べてみると、同じくスイセンしてるにしても両センセの間には、オシの強さにけっこーな差がありげ。ごくたんじゅんに見て、文末の『!』の数の比くれーの差はありげ。『期待します』と述べるだけならば、ドコの誰にどう期待しても罪ないワケだし。
にしてもわれらのカントクが、いいトシなされて、そンなにィまで≪暴力≫にキョーミ津々だつゥのも…。かつまた筆者は、この賀東氏がどーゆう作家なのかも、ゼンゼン知らないが。

と、このよーな文脈でモンダイの『中二病』とゆう語が出てキたので、『はてソレは、どーゆうイミかいね?』とゆうギモンがわいたのだった。Wikipediaの該当項目を独断的に要約すれば、こんなコトらしぃ。

≪『中二病』 とは?≫
【歴史】: 1999年にラジオの深夜番組で、パーソナリティの伊集院光が言い出した語。現在にいたり、『思春期の少年が(背伸びしたツモリで)行いがちな珍妙な言動に対する蔑称の一つとして定着する』
【症例】: 洋楽を聞き始める。コーヒーを飲み始める。売れたバンドを「売れる前から知っている」とムキになる。やればできると思っている。母親に対して激昂して「プライバシーを尊重してくれ」などと言い出す。社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると「アメリカって汚いよな」と急に言い出す。
【補足】: 『加えて生死や宇宙、人間や身近なものの存在に関して、(的外れ気味に)思い悩んでみたり、(子供基準での)政治や社会の矛盾を批判してみたりするのも特徴的である。さらに実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束するといった性質も「中二病」の「症状」として含まれる』。(Wikiの要約終わり)

…洋楽を聞いたりコーヒーを呑んだりするコトすらが≪病≫でありチン妙だとゆわれちゃー、コッチは『生きるな』と言われたよーな気になるッてモンだ。ま、モトはラジオのネタトークなので、≪ギャグ≫として言われたコトではあろーけど。
でその、いま見た【症例】って項目は、かってに略さずにまるごとを引用したンだが。しかしィ、ほとんどまっとーなコトばかりではなかろーか? つまりオトコなら洋楽のパンクやメタルを聞くベキだし(女性は知らない)、コーヒーの味が分からぬヤツとは語るに足りないし、かつオレはトーゼン『やればデキる』ニンゲンだし(ッ!?)、プライバシーは尊重されるべきだし、そして(ザ・クラッシュのメイ曲「反アメリカ」にもあるよーに、)アメリカ政府は汚い
と、大むねフツーのコトがゆわれてるばかりだ…と感じるのは、すなーちオレもまたリッパな『中二病男児』がゆえなのだろーか。

ところで見てキて、この語の≪イミ≫に関しては、運用上のブンレツがあるよーな気がする。すなーち、『オトナなら相応かと見られるコトを、中二のブンザイでヤろーとする病』と、『中二のボクなら大目に見られるよーなコトを、オトナになってもヤッてる病』と。この2者は、同じではないだろう。Wikiの説明は、ワリと前者よりなよーだが。
けれどモトモトは、成人であるところの伊集院サンが『オレ自身がいまだ中二病で』…と言い出したそーなので、その場面でモンダイになってンのは『ガキっぽぃオトナ』のコトだ。中二のボーヤが『中二』ッぽぃコトをするのを、とくに≪病≫と呼ぶ必要もない感じだし。

そーして真なるモンダイは、『背伸びしようとしてる状態のままで、ソコからいっこう成長せず≪成熟≫がデキず、そしてムダにトシばっか喰ってゆく』…とゆうヤカラが、どー見てもいる、とゆうコトなのではッ? このよーな言い方に変換してみるならば、『オレこそが中二病者でスイマセン』と、自認するにもヤブサカでない。スイマセン~!

とまでを見てから、ハナシを戻し。小説家の賀東招二サンが「学園黙示録」とゆうまんが作品をさして、『中二病男児の理想郷!!』とゆっておられるソノ≪言表≫の意図…ソレが現状、筆者には分からない。ホメたコトバになってンのかどーか、とゆうトコが分からない。『背伸びしたいボクちゃんらおよび、その境地を脱してないオヤジらが大悦びテキな作品でアル』、とゆうイミに解してイイのだろーかッ?
われわれの検討してキた感じだと『中二病』とゆう語には、肯定的なニュアンスがないワケなので。ゆうなれば、『腐女子』とか『おたく』とかゆう語らと、水準テキにあんまし変わンないのではなかろーか? しかしそのよーな蔑称を逆に誇る方々もいるワケなので、賀東氏はソレを敢行されてンのだろーか?

そーして筆者においては、遺憾にもホドがあるコトだが。ココまでの堕文にて、われらの押井カントクがさいしょにご登場されてンのはイイけれど、しかし今回のテーマにしよーとした作品「機動警察パトレイバー」の題名が、何ンといまだ出てないッ(!)。
けれども前回の『趣味の世界』ウンヌンとゆった筆者の「パトレイバー」談義をご高覧の皆さまにおかれては、すでにハナシのつながりが見えておられるだろう。作品系列「パトレイバー」が全般に描いてるコトは、いいトシしながら≪成熟≫しもせず『趣味の世界』に生きるオトナたちがいてやがる、とゆうモンダイの存在だ。
つまり≪内海≫をきわまりとする、アイツらのコトだ。かつ、「パトレイバー」でなくとも押井作品群に、≪オトナ≫になれないとかならないとかゆう方々がミョーに出てクるコトを、皆さまはよぅくご存じであろーかと(…近年の好例は、もち「スカイ・クロラ」)。ソレを『中二病』、ナドと呼ぶかどーかはともかくも…。(『Pt.2』へ続く)

2009/10/14

広がり拡がる、『趣味の世界』 Pt.2 - パトレイバー(2)

(『Pt.1』からの続き…)と、いまさっきは悪人のサイドに『遊び』のフンイキを見てみたが、われらがヒロインの属するレイバー隊の側にも、大いにソレ風なモノがある。TVシリーズの第3話『こちら特車二課』の巻とゆうのを何ンとなく見てたら、『コレは「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」のさいしょの方のパートを≪反復≫してるなァ』…と感じた。ソレを感じなければウソだと想うが、後でクレジットを確認したら案の定、この回はわれらが押井守の脚本によるモノで。

どンな物語かカィとくと、めでたく希望の『特車二課』ことレイバー隊に配属された野明が、ソコでのキンムのあり方に、大いにビックリするハメになる。まずその隊の所在地がヘンピな埋め立て地で、タイヘンに不便。そんなトコに『待機』とゆう名目でカンヅメにされた隊員らが、まずは敷地内の草刈りに精を出したかと想うと、次には岸壁で海釣りに興じる。
とは遊んでるよーな感じしかしないので、さすがに野明がギモンを申し立てると、センパイ格の隊員≪遊馬(あすま)≫は、『この隊ではまず、食料の確保が大問題なんだヨ!』のよーに教える。ココは買い物が超不便だし出前も昼にしか来ないので、われわれは自給自足体制の確立を目ざさねばならン!…とゆうのだ。この場面あたりのダイアログが、まさにわれわれのよ~く知る押井節そのモノでありつつ。
そーしてカレらの目の前の海を、隊に属する船舶が通り過ぎる。どーゆう出動かと想ッたら、コレがまた遠出して海産物の収集に出かけるとゆうのだッた。

…別にツッコんでもしょーがないんだが、そーやって東京湾のハゼばっかし喰ってるのは健康にどーなのか、また、大がかりにヤリすぎちゃ~地元の漁協からモンク言われねーか、等々とは想うけど。ま、ソレはともかく…。
(さっき申した、コレが「ビューティフル・ドリーマー」を部分的に≪反復≫してるとは、フザケ半分な共同生活、シンケン味のないサバイバル、そしてヒトビトが横に並んでの海釣りシーン…。等々と、まぁタブン申すまでもなきコトかと)

やがて夜になって、漁に出た船舶が岸壁で座礁した、とゆう事故の知らせが届く。基地のすぐ近くが現場なので、レイバーで船舶を何ンとかしよう、とゆう相談になる。ところがウマくイカず手こずってると、整備部のコワ~いボスである≪おやっさん≫が、夜中だッてのに忘れ物をしたとかで基地に向かってクる。この一連の不シマツをカレには知られまいとして、隊員らは必死の策を講じる。
その『必死の策』らの中でケッ作すぎるのは、おやっさんを路上で足止めしよーとして遊馬らが、かってに一斉検問を実施するコトだ。こンなくだらねー理由でケーサツ権力の執行に出ようとは、とんでもねー≪がきデカ≫たちがいたモンだッ!

でまぁ、どーにかしてこの≪こまわり君≫たちは事態を収拾する。つか収拾したツモリになるが、実はおやっさんは、ほとんど『すべて』を察してるのだ。けれどもカレがとやかく言わないのは、明言されてないケド、こーした『遊び』らが訓練の代わりになって、隊員たちを成長させるだろーから…てなツモリらしぃ。
コドモらの『遊び』のアレコレは、いずれオトナの仕事をするタメの訓練と見なしうる、とゆう考え方はある。にしてもわれらがレイバー隊のしょくんは、そろってオトナのクセに、そして税金でまかなわれた資材や機材らを用い、しかも公権力を乱用しつつ、カレらの『遊び』に興じてやがる。まぁどーせ作り話だし、おやっさんに代わってオレがとやかく言うツモリもないけれど…。

ソレコレを見てっと、原作まんがの柱である内海一味とレイバー隊とのシレツなる闘いの連続もまた、ひじょうにリッパな『遊び』に見えてクるのだった。内海はそーとーにランボーなコトも仕掛けてキやがるけれど、しかしわれらの隊員たちを皆殺しにしよーとか、東京全都を火の海にしよーとか、ソコまでのツモリはないのだ。
ただ単なる、『趣味の世界』の追求!…カレが望むよーな『遊び』の舞台へと相手を引きずり出すタメだけに、内海は挑撥を繰り返してるのだった。ゆえに原作まんがの大詰め、フトドキにもレイバー隊の基地に奇襲をかけていったん成功を見た内海は、『こんなンで、本物のテロリストに襲われたらどーすンの?』的なコトを言いくさる。カレがヤッてるコト自体は本物のテロだが、けれど確かに、カレのよーなシュミ人を本物のテロリストと言いがたい感じはある。カレはすべてを≪何か≫につぃてのシミュレーションとしか見ておらず、そしてシミュるコトには必ず『遊び』のフンイキがツキまとう。

だから内海がカレによるシミュレーションを、コンピュータゲームから始めて実世界へと持ち込み、かつそのスケールを野放図に増大さしてくコトは、ひじょうにネジくれたカタチで≪現実的なもの≫が、ソコで追求され(そこなっ)てンのだ…と見るコトもデキそーな感じだ。プレーヤーらは『遊んでる』と自覚すればこそゲームに≪リアリティ=現実味≫を求め、しかし≪リアル=現実的なもの≫をみごとに見そこねる。
≪現実的なもの≫とゆうモノを見たいが見たくないので、カレはシミュレーションに精を出してるのだ。ドコまでヤッたら、カレは≪リアル≫に、せめてその断片に接しられるのか? いくらシミュレーションをきわめてその≪リアリティ≫を増大さしても、ソレが≪リアル≫に転じるコトはない、と、ワカってんだかどーなンだか…。ワカっててことさらに≪リアル≫を避けている、とゆう感じをも受けながら。
(とゆう≪リアル≫のなさおよび、『シミュレーションしかない』とゆった感覚…。コレがまったくもって押井守チックなモチーフでありすぎるとは、ココをご覧の皆さまに対し、申すまでもなきコトかと)

そしてそのチョッと前、内海のプロファイリングをこころみたレイバー隊の後藤隊長は、『コイツはコドモだ』とまでは見抜く。内海が、ふだんはビジネスマンごっこをしてながら、その次には犯罪ごっこに手を染めたのだ…とゆうあたりまでは見抜く。けれど筆者の見るところ、この作中で実社会の中に稚気あふれる『趣味の世界』を展開しよーとしてやがるのは、決して内海1ピキのシワザではない。
野明がさいしょにチャンとゆってたとーり、ヘンに過剰にカッコいいイングラムとゆうメカの登場とゆうコト自体が、『趣味の世界』の始まりに他ならないのだ。税金を使って遊んでるかのよーにも見れるレイバー隊の存在が、会社のカネで遊ぶ内海のよーな≪悪党=ゲームプレーヤー≫の登場を促してしまってるのだ。とまでを申して、「パトレイバー」のハナシはまたいずれ。

広がり拡がる、『趣味の世界』 Pt.1 - パトレイバー(1)

「機動警察パトレイバー」の映画版…特にそのさいしょの作品は、われらが押井守カントクの代表作の1コかのよーに言われてる。とゆうワケで見てはみたんだが(第2作とあわせ)、けれど何ンだか筆者には、『分かるケド分からない』のよーな感じが残ったのだッた。

とゆった『分かる』とは、『オハナシの流れはひとまず分かる』、とゆうイミだ。しかし、びみょうな分からなさが残るのはナゼかなァ…と考えたら、そもそも自分が「パトレイバー」シリーズをほとんど知らン、とゆうコトに思いあたッた。
筆者が察するに押井版の「パトレイバー」映画2本はカタチとして、このシリーズの積み重ねのほぼ頂点にあるよーなモノなのではと。そーとすると自分はおそらくココで、「うる星やつら」の原作まんがやTVシリーズをゼンゼン知らなくて、その押井版の映画2本(「オンリー・ユー」, 「ビューティフル・ドリーマー」)を見たよーなコトになってンのでは?

と想ったので少しずつ、この「パトレイバー」シリーズの原作やTVシリーズを知るコトから研究を始めてンのだが。そーして筆者がひじょうに強いモノとして感じたのは、今シリーズの全般にただよッてる、『遊びのフンイキ』だ。

…ゆうきまさみによる原作まんがの冒頭、そのヒロインたる若い婦警候補生≪泉野明(いずみ・のあ)≫は、いずれ彼女が乗るコトになる主人公メカ≪イングラム≫を初めて見て、趣味の世界だねえ…』と、想わずつぶやく。ソレは、本来の土木作業に使うよーなレイバー(シリーズ中の用語で、ヒトが乗り込むロボット)らに比べ、イングラムが過剰にカッコよすぎ…とゆうコトをゆってンのかと想うが。
そしてその『趣味の世界』とゆうコトバのさし示してるのが、筆者の感じた『遊びのフンイキ』、フカシギなヨユー、とゆうコトなのかと。その場面にて、このシリーズ作の全体をさしてそのヒロインが、『趣味の世界』と規定した…とゆう感じがするのだった。

今シリーズ「パトレイバー」の概要はとゆえば、警官である主人公らが≪パトレイバー≫(ケーサツ用のレイバー)を使って犯罪者たちと闘うよーなモノかとお見うけしつつ。しかしナニやら『遊び』っぽぃゾと申すのは、まずオハナシの動因を作ッてる≪犯罪者たち≫の方からして、あまりシンケン味がない。
原作まんがを見てみると、その主な悪役には2つの系統が存在してる。まず1コは≪地球防衛軍≫を名のるエコ・テロリストらであり、もう1コは≪内海課長≫が指揮する外資レイバー会社の中の一味だが。
そしてドッチも何ンだか、遊び半分で大がかりな悪さをしてるよーにしか見えないのだった。悪人であるコトに変わりはなくても、われわれが三面記事でお目にかかるよーな実在のナマぐさぃ犯罪者たちとカレらとは、フンイキがゼンゼン違う。ゆうきセンセ一流の、常にドコとなく落語チックな語り口が、またそのムードを盛り上げながら。

特に内海の所業において、『遊び』のフンイキの絶頂がある。カレは陽動のタメにエコ・テロリストらをも利用しつつ、自社の強力なレイバーで警視庁の誇るイングラムにケンカを売り続け、そしてそのコトに『プロモーションのため』、『イングラムのデータを盗むため』、等々の理由をツケるのだが…。
がしかし実は、そんなコトをマジメに考えてない。さいごの方ではハッキリ言われるコトだが、カレには会社への忠誠心などまったくない。ツゴウに応じてクチ先で、『会社のタメに』と言うだけだ。
ではカレのしてるコトは何ンなのかとゆうと、よーするにカレもまた、『趣味の世界』の住人なのだ。SFアニメやソレ系のゲーム等が描いてるロボット戦を、カレは自分の手で、自分の目の前で、実現したいのだ。

そして内海が使ってる天才少年パイロットの≪バド≫はハッキリと、レイバーでの戦闘を『遊び』そのモノ、≪ゲーム≫としか想ってない。作の序盤で野明は、この少年+内海とぐーぜんに街のゲーセンで出遭い(そこね)、そしてお互い素性を知らぬまま、実戦の前にまず『パトレイバー』をシミュレートしたビデオゲームでウデを競い合う。何ンとこのゲーム自体が内海らの企業が開発したモノで、つまりはカレの展開してる『趣味の世界』の一環に他ならない。
そしてその≪ゲーム≫に対し、なかなかムキに向かい合ってるその3ビキの姿は、その後の本編の展開がひとまず『シミュレート』されたモノなのだ。ワリと常人らには理解しがたき『趣味の世界』にて、カレらはヘーキでそのカラダを張るのだ。

そもそもケーサツにレイバー隊が発足した主な理由が、『レイバーを悪用しての犯罪に対応するタメ』のよーなハナシだが。しかしそのレイバー隊の存在自体が酔狂なヤカラへの挑撥となって、ますます大それたレイバー犯罪が生じがち。つまりィ、『趣味の世界』がソコら中に広がる一方!…とゆう、なかなかマヌケな事態を描く作品であると、今作を見れるよーに感じる。(『Pt.2』へ続く)

2009/10/04

ヘンケン艦長の身の処し方から? - Zガンダム(6)

あ、またもガンダム話でひじょうに申し訳ないけれどッ! しかしカィとかないと、自分の考えてたコトも忘れちゃうので…。

ごくごく、手短にゆおうとしつつ。「機動戦士Zガンダム」に登場するヘンケン艦長のコトだが、以下はネタばらしに該当するよーなハナシになり気味なので、念のタメ。

物語の最終局面あたり、自分が岡惚れしてるエマ・シーンが戦死しそうなのでヘンケンは、カレの宇宙戦艦を盾にしてエマの生命を救おーとする。エマをはじめとするカレの部下たちが、『ソレでは艦がヤラレてしまう!』、と制止するのも聞かないで。
すると、どーなったかッ? エマたちのゆった通り、ヘンケンの艦は敵のロボットにヤラレて轟チンのウキ目を見る。ソレでヘンケンが死ぬのはもちろんだが、カレの艦の乗組員らもみ~んな道連れになる(!)。
そして、ヘンケンがありえざる挙に出てまで救おうとしたエマは、その場での即死だけはまぬがれたが。しかしすでに致命的な負傷をしてたらしく、追って宇宙ステーションか何かの中で、カミーユ君にみとられながら死んでしまう(…余談だがその後、カミーユ君が彼女と別れて戦闘に戻ろうとすると、その場の人工重力が切れてエマのカラダがふわ~りと宙に浮き上がる。この場面の、凄愴な美しさは印象深い)。

「Zガンダム」とゆう作品はズイブンとアチコチで、初代ガンダムを幻滅テキなヤリ方で≪反復≫してるトコがある。イヤむしろ、ソレばっかし!…とゆったよーなコトを何ン度も申してるけれど、コレがまた。
われわれは初代のガンダムにて、『とても感動テキな自己犠牲のシーン』らしきモノを、いくつか見てる。ところが「Z」にてのヘンケンの『自己犠牲』は、初代に出てたリュウやマチルダの『感動的』な挙を、≪反復≫しよーとしてゼンゼン反復デキてない。カレのヤッたコトはすでに瀕死のエマをタブン数十分間ほど延命デキたにすぎず、そしてそのタメにカレは自分のイノチばかりか、カレのモノでない乗組員らの生命を戦艦ごとギセイにしやがったのだ。

で、そのよーにヘンケンは、『崇高なる自己犠牲』とやらを想ッくそヤリそこなってるが。しかしそーかとゆってわれわれは、この艦長を逆に『悪人』かのよーにも見なしニクぃのではッ? ソコらが実に、「Z」特有の煮えきらないトコだ!
カレは軍人でありかつ『長』のつくよーな立場の者として、ゼッタイにヤッてはならンよーなコトをヤリやがったか、とは見える。がしかし、カレがニンゲンとしてありえぬ非道なコトをヤリくさったとまでは、ナゼか言いニクぃ感じあり。よってカレへとおくるコトバは、『リッパなドアホウであったなァ』…くれーしか、筆者には想いツカない。
またソレと、ゼンゼン似てなくはないよーな感じで。終盤でのレコアの寝返りにしても見てるわれわれは、その挙をトーゼン肯定はデキず、しかしムゲなる否定もしきれない。かくてカレらの行為らの≪イミ≫とゆうモノは、われわれのまなざしの前で宙に浮きまくッてる。

このよーなカッコのつかなさは、ヘンケンやレコアだけのコトでなく、初代に並べてみたときの「Zガンダム」全般の特徴かと見れる。初代ガンダムが『リアリズム』の提示から始まって『スウィ~ト・ドリ~夢』(いま直接に申してるのはニュータイプ救世主義のコト)にまでヒトを誘導する作品だったとすれば、「Z」はそのドリ~夢の大破綻から始まッて、そしてあるイミでの『リアリズム』をプイと放り出す作品になっている。
と、『リアリズム』とゆう語がいま2回出たが、むろんそれぞれのイミは異なっている。まず初代ガンダムについては、『ロボットSF戦争アニメ』とゆうワクの中での≪リアリティ≫がウマく追求されてた、とゆう『リアリズム』だし。その一方の「Z」の『リアリズム』とは、もっとムキ出しのワケ分からんイミ不明なる≪現実的なもの≫が、描かれてるとゆうか、ソレがチラチラかいま見えてるとゆうか…。

かくて、初代に並べてみたときの「Zガンダム」においては。ヘンケンにリュウやマチルダのマネごとがデキないばかりか、カミーユ君もまたアムロ君のよーなリッパなヒーローにはなれないし。そして「Z」にヤタラ大ぜい出てクる女性キャラクターたちもまた誰1人、ララァのよーなリッパなヒロインにはなれない。かつ初代から出てるジンブツらにしても、「Z」に出てるシャアやアムロが、以前よりもカッコいいと想うヒトはまずいないだろーし。
…かろーじてファ1人が、『幼なじみキャラクター』としての一貫した献身ブリで、初代のフラウ・ボウを超えたのが快挙ともゆえそーか。と申すのは、初代を先日再見してて、『そのオハナシの終盤、フラウがアムロ君への特別な関心を失ってしまう』…とゆうトコが、筆者にはひじょうにショッキングだったので!
(だから、かの名高きラストシーンでアムロ君が、『フラウ、大好きなフラウ』…と、やっと初めて『正しいこと』をコトバにデキたときには、すでにコトは終わってたワケだ。コレはイタいッ!)

たったいまファの名前が出たトコでの思いツキによって、「Zガンダム」の世界が全般にどンだけデタラメかを形容すると。ソレは『幼なじみキャラクターがフツーに寝取られる(!)』、そのよーなデタラメさと申すコトもデキそーだ。『ソレはソレでコーフンする』…ナドとゆう寝言は聞ーてないが、つまり「Z」の世界は、われわれの世界と同じくれーにデタラメなのだ。
かとゆって劇中でじっさいに、ファがシロッコあたりのオトコに寝取られちまうとゆうコトはない。ソコが一種の救いであり(?)、『一線』を越さなかったトコかなぁ…とは、感じる。が、そーかとゆって、仮にシロッコのもとに走るのがレコアでなくファだったとしても、このオハナシの全般は何ンら支障なく成り立つンではッ!?

アニメとか見るよーなニンゲンらの中に、『幼なじみキャラクター』に対するフシギな安心感とゆうモノは、ナゼかあるモノらしぃ。そのよーなモノがオレのよーなバカなオトコらだけでなく、女性や少女たちの中にもありそーなコトは、ザラにある少女まんがの超一大ルーチンを見れば知れる。…『何かチョッとしたイベントをこなした結果ヒロインは、びみょうなカンケイだった幼なじみと、めでたく相思相愛に』。かつコレこそ、フラウもファもが望んでたコトなのでは。
ただし女-男の異なりは、女性たちがいちおう意識化デキてる幼なじみの異性への想いを、オトコらはイシキ化するコトさえもがデキにくぃらしぃ。このコトは少なくとも、ゆってるオレ自身に関する≪真理≫ではありげ。そーでなければ、大して感情移入して見てるツモリもなかった≪フラウ×アムロ≫関係の終わりを、『ショッキング!』と感じたコトの理由がツカない。

…とまでのハナシにオチをツケにくぃんだけど、想ぃマスに。

まず、初代ガンダムの物語に何ンらかの≪教訓≫を見るとゆうのは、ワリとフツーの感性のシワザではあるかと。ココで筆者が申してンのは、そのストーリーをアムロ君の『成長物語』と見るよーなコトだ。
つまり、どーでもニンゲンは社会の中で生きなければならないし、そしてその中で何ンらかの役割を果たさねばならない。で、その『役割を果たす』タメ、フツーのヒトは何ンらかの≪組織≫に属するよーなハメになる。そしてその組織の中での身の処し方ッてのが、ま~たムズカしく…。等々々のよーなコトがアムロ君の視点を通して学べるオハナシだと、初代ガンダムを見るよーなまなざしは、ありうるかと。

ところが続いた「Z」のストーリーに、そのよーな教訓性があるだろーか? むしろそのオハナシは、『社会および組織の中で生きるしかないが、そンなトコで生きるコトは不可能である』てなコトを伝えてるよーに想える。ひじょうにイヤだが、ソレがまた本当のコトなのだ。
だから(ハッキリ言わないが)、「Z」のさいごでカミーユ君があのよーになッちまったのは、きわめていたましくも必然とゆえば必然なのだ。『ナゼ、カレはあのよーなコトに?』…とゆう設問への答はイロイロ考えられるけど、いまは1つ、常人チックなヒトビトが通常テキトーに流してる致命的なジレンマを、流せなくなっちゃッたから…とゆう答を提示いたしとく。

ソレコレによって「Zガンダム」は、その≪すべて≫にわたるまったくの収まりのツカなさによって、ふだんわれわれが見ても見ないよーな≪現実的なもの≫、そしてソコに由来するニガすぎな≪真理≫とかを、かいま見せる作品になってンのかなぁ…とゆう気はしてキたのだった。
だからヘンケン艦長の、『愚挙』とゆえそーな行動にしても。そのアンマリなカッコのツカなさは逆に、ガンダムシリーズがびみょうにも美化して描いてやがる≪特攻≫とゆうコト、そのまったくの無イミさを教えてンのだ…とゆう受けとめ方はデキるだろう。初代に描かれた『美しいウソ』の数々の大ホーカイを、われわれは「Z」にて見るハメになってンのだ。
そーゆえば「Z」には『ジェリド特攻』とゆう題名の回があるけれど、しかしその回でジェリドは死なないし、そもそもカレが≪特攻≫をヤッたのかどーかさえも、よく分からンかった。とゆった≪すべて≫のカッコのツカなさ、ソレが「Z」の流儀ッ!

ところで筆者の知ってるコトとして、初代よりも「Zガンダム」の方が自分には印象深い、とゆう方々はおられる。だぃたぃは自分より年少の友人たちなので、世代的に『先にふれたのが「Z」だった』…なンて理由もあるのだろーが、ソレだけなのだろーか? 「Z」のどーゆうトコにひかれるのか、いつか聞いてみたぃ気はする。
とぉ、予想外にガンダムのハナシが続いたので(マズぅ~)。次の記事は、チャンと押井守作品でッ! でゎシツレイしました~!

2009/10/02

≪性的関係≫は存在しない Pt.3 - Zガンダム(5)

(『Pt.2』からの続き…)とゆう、ほとんどが映像で描かれたシーンを正しくコトバにデキてるのかどーか、少々ギモンはありつつも。ともあれココで、ハマーンはシャアを幻視しカミーユ君は自分の母を幻視してるよーなのに、カミーユ君はカレらが『同じものを見た!』と言い張るのだ。そしてハマーンはおそらくは、シャアに対する彼女のキモチをカミーユ君に見られちまッたかと想ってそーだが、しかしカミーユ君はそんなモノを見てなさげ。
ソレコレでよーするにコイツらは、向かい合ってもお互いを見てないのだ。自分の見たモノは相手にも見えてる(ハズ)、と考えるだけなのだ。
『出遭い(そこね)』とゆう語で形容するにもコレはズイブンなモノがあるが、しかしわれわれが実人生で演ずる『出遭い(そこね)』は、だぃたぃこのよーに運ぶ。かとゆってもこのお芝居とは異なり、やたら殺し合いや感情のブツけ合いをヤるワケではないが、しかしコレを『おおむね正確な描写』だと、オレは見る。

もー少しハッキリ言うと、カミーユ君はハマーンに対しても『性的関係』を求めてイッてるのだ。そしてカレが求める『性的関係』とは、一体のモノとしての≪母-と-自分≫、とゆうイメージで表象されるモノなのだ。
そしてこのさいの『出遭い(そこね)』が片方の死によって終わるよーなコトにならンのは、一方のハマーンがチラリとは見た『性的関係がありうる』を、幻想としてしりぞけるからだ。その対応はあるイミ正しいが、しかしそんなコトがデキるのは「Z」の主要な女性キャラクターたちの中で、ハマーン1ピキだけだ。ソコらで彼女は、ユニ~クだ。何ンせ本命のラヴであるシャア本人をも殺そーとすンだから、その代理として目の前に出てキたカミーユ君ごときはッ。

で、ワリとそのよーにあしらわれがちだとゆうコトは、われわれが≪宇宙世紀のあたる君≫と呼ぶカミーユ君の、ナンパ師としていまだいたらざるトコだが。しかしそのカミーユ君は、追って『ニュータイプ同士の究極の交感』チックなコトをヤリすぎたせいで、カレの悲劇を演ずるハメになる。…ソコらはいちおう、ボカシた表現にしとく。

とまで、何ンのハナシをしてンのかとゆうと! ガンダムシリーズ中の『設定』である≪ニュータイプ≫とは、初代のラストでは未来の人類の希望かのよーに描かれたモンだが、追っての「Z」はまずソコを否定してる(…社会テキには、ソレは役立たない)。その否定が、この物語の出発点ではある。
しかしそのニュータイプ能力とやらが、ただ戦場で役に立つばかりか、初代にて『ララァ×アムロ』がチラリ示した『性的関係が存在し現前しうる』とゆう奇跡を、かいま見せるモノではあろう…と、「Z」は描いてる。ソコの機能は、必ずしも否定してないワケだ。
『ヒトは分かりあえる』がヒトビトの聞きたがってるコトバであるならば、『性的関係が存在する』も、またソレだ(…実質テキに両者は同じコト、ともゆえる)。ところがウソのないコトに『性的関係が存在する』はチラ見えくれーにしか現れず、「Z」作中にてもヒトビトは、フツーに『出遭い(そこね)』を演じるか、またはフィクションならではのとくべつに劇的かつ悲劇的なカタチでソレを演じるか…しか、デキないのだ。

そしてソレに付随し、作中ジンブツらの演じてるドタバタが乱脈すぎだ…とゆうコトを前回の堕文でシテキしたが、さいごまで見てソコらへの訂正の必要を、特に筆者は感じない。がしかし、もしも「Z」の最大のテーマが『性的関係がゼヒ存在すべき』とゆうヒトビトの想い…だとゆうンなら、前にシテキした今作全般のヘンにイヤらしぃフンイキにも、いちおうの理由がつくとはゆえる。

ところでココまでにさんざんゆってきた『性的関係は存在しない』とは、ジャック・ラカン様とゆうフランスの精神分析家の主張だが。ソレを聞いて筆者は以前にも、『ソレでか!』と、さとったコトがある。
「新世紀エヴァンゲリオン」とゆう作品について筆者は、その作中のカンジンそーな要素たる『人類補完計画』てのが、どーゆうコトだかさっぱし分かンなかったのだ。そして、つぃにその計画の発動が描かれた劇場版「The End of Evangelion」を見てもよく分かンなかったので、大いにムクれて『まったくアニメ屋とゆう連中はッ!』と、クチをとがらせながら新宿の上映館を出た夏の終わり、in 1997…とゆうコトは憶えてる。

何ンだか筆者が『アニメの想い出』を語ると、≪失望≫とゆうコトばかりが出てクるよーな感じだが、ソレはともかく! ワカってしまえばカンタンなコトで(?)、モンダイのエヴァンゲリオンにおける『人類補完計画』とは、この世には存在してない『性的関係』を、ムリにでも存在させよーとゆうモノに他ならない。
だからその計画に巻き込まれたヒトビトは、それぞれの望むパートナーとの(想像上の?)一体化を悦びながら、『性的関係の現前』を悦びながら、そしてシアワセに『この世』を去ってゆく。…ソレが『死んだ』とゆうコトなのかどーかはよく分からンが、ココまでを見てキたわれわれにとって『ありえざる性的関係のまたき現前⇒個体の死』とゆう流れは、あるコトだと考えられる。ところが取り残されたアスカとシンジ君の2人には、あいも変わらず『性的関係は存在しない』
だからその最終作のラストに、『キモチ悪い』とゆうアスカのセリフはある。…あの作の終わり、誰がどー見てもだんぜんキモチ悪い場面でそのよーなセリフを聞いて、『ホントにキモチわりーぜ!』とオレは想ったが…。『何ンだ、この不ユカイさは!』とも、言いたくはなるトコだが…。
しかし一定の正しさありげな発言として、ソレはソコにある。『性的関係は存在しない』世界において、他者は確かに『キモチ悪い』。コレはさきに見た「Z」でハマーンがカミーユ君に対し、『よくもズケズケと!』と感じたコトが、≪反復≫されてンのでもある。
(『最終作』とゆったが、ただいま劇場版「21世紀版EVA」とゆうのが順次公開されてる最中なので、『20世紀版EVAの最終作』とゆう言い方にすべきかも?)

ハナシをじゃっかん戻しつつ、「Zガンダム」のドコかにてシャアいわく、『人の心に踏み込むには、それ相応の資格がいる』。とは、「Z」をダイヒョーするメイ文句(?)かのよーにゆわれるが。
しかしその≪資格≫とやらがドコでどー得られるか…が、ゼンゼン分からない(ご存じの方は、ゼヒ筆者にもお教え願いたい)。ゆったシャアにも、そンな資格はないらしぃし。
とすればコレは、『ヒトのココロには踏み込めない、つか踏み込むな』とゆってンのと、ドコが異なるのだろーか? すなーち、「EVA」で言われる『絶対領域』とゆうモノは存在するのだ。…と、この部位にても「Z」と「EVA」とゆう作品2コが出遭(いそこな)ってる。
もしも『性的関係』の存在する世界があるとすれば、その『絶対領域』の向こう側のコトだろう。そして「Z」でも「EVA」でも正しく描かれてるよーに、『絶対領域』を突破してその世界に達するコトは、≪主体≫を死か狂気に導く(…少なくとも、ドッチかの≪主体≫を)。ヒトとヒトとの間をさえぎる『絶対領域』の存在は、ヒトをヒトにしてる条件だ。

そーゆえば一時期のフロイト様は、≪テレパシー≫の存在をワリとマジで考えておられた。追ってラカン様は、世界一のフロイト信奉者でありながら例外テキに、そのコトを強~くヒハンなされた。
テレパシーの存在は、われわれの知ってる≪人格≫を否定するからだ。ヒトがヒトである以上、テレパシーはありえない…実に夢のないハナシだが、でもそーなのだ。そしてオリジナル・ガンダムシリーズにおける≪ニュータイプ≫たちの末路は、その事実と『設定』との間の整合性を、ムリにとってるモノかと考えられる。

けれど「Zガンダム」にしろ「EVA」にしろ一定の『正しいコト』を描いてはいつつ、しかし欲の深い筆者(?)の自分かってなガッカリを誘ってるのは。事実として『性的関係は存在しない』世界で生きなければならないわれわれに対し、ソレらの教えるところがあまりにも多くない…とゆうコトであるらしぃ。
とゆう、『押井守専門』を名のるブログにてのガンダム話(…やべぇッ)。ココまでの皆さまのご清聴、まことにありがとござました~ッ!

≪性的関係≫は存在しない Pt.2 - Zガンダム(4)

(『Pt.1』からの続き…)世には、≪反復≫は悲劇を喜劇にする、かのよーなコトが言われるが(…えっと確か、コレはマルクス様のメイ言だとか?)。しかしこの場合は、ハナシが逆だ。初代ガンダムの終わり方をあるイミでのハッピーエンドと受けとっておくと、「Z」の終わり方がどーにもヤバすぎる。
そして≪反復≫とゆうのなら「Z」には反復が多すぎで、前の堕文で話題になった、『ナゼに軍隊のパイロットが女性ばっかなのか?』…とゆうカミーユ君のギモンには、ココでいちおうの答が得られる。その理由とは、初代でおなじみ『ララァ×アムロ』の大詰めシーンを、ぞんぶんに大量生産で≪反復≫するタメだ。

ところで見てればソレとなくワカるコトだが、ニュータイプ同士だったとしてもお互いが≪異性≫でなければ、『ララァ×アムロ』の大詰めで描かれたよーなキョーレツな『出遭い(そこね)』は、生じないらしぃ。たとぇば「Z」にはアムロとシャアとの2ショットがたびたび描かれてるが(キャ~!)、しかしニュータイプ同士だからとゆって特別なコトは、何ンも起こらないワケで。
そしてアムロ君がララァと出遭(いそこな)ってしまったコトが、初代のケツ末ではともかくも『よかったコト』と描かれてるよーに想えるが。しかし「Z」でのアムロ(ら)は、ソレをあんまし『よかったコト』とは考えてなさげ。
で、そのよーなコトの≪反復≫はヤメなければ…とアムロは考えてンのに、カミーユ君はこりもせずその≪反復≫をヤメない。そして(ひそやかにも)ニュータイプ救世主義を護持し続けてるシャアは、ソコのところでタイドをハッキリさしてないよーな感じ。

で、『ララァ×アムロ』が示したよーなニュータイプ同士の究極の交感とは、いったいナニごとなのかとゆうと? ソレをわれわれは、『≪性的関係≫が(ついに!)存在し、かつ現前しうる』…とゆうテーゼの描出、と受けとるコトがデキそう。
ただし事実としたらハッキリと、『性的関係は存在しない』。ではあるがヒトビトは、『性的関係が存在する(存在しうる)』とゆうコトバを聞きたがってるのだ。そして「Z」とゆう作品は…その物語は…その作中ジンブツらは、『性的関係は存在すべき』とゆうヒトビトの願望と『性的関係は存在しない』とゆう事実とのはざまにて想ッくそ、のたうち廻ッてみせてるのだ。

ところでニンゲンとゆう存在自体が、『性的関係のなさ』を前提に成り立ってるよーなトコはある。だからこそ初代の『ララァ×アムロ』でも「Z」でも、『性的関係の現前』を見たよーな2人は、その一方が死ななければならない…のかも知れない。『既知のブツリ法則を成り立たしめるタメに、かくかくのよーな現象が生じる』などとゆう転倒気味な説明を聞くコトがあるが、コレはソレかも知れない。
てゆうかよく見たら「Z」においては逆に、片方の死が確定した時点でやっと、その『ニュータイプ同士の究極の交感』的な描写が始まる…とゆうのがある。『性的関係の現前』があるとすれば、それはいまわのきわの幻覚としてノミ…だとゆうのも、まったく言いたくはないコトだが。
しかもソコで死ぬ側に廻るのは、必ずや女性の方だ。ナゼに必ず女性が死ぬのかとゆうと、ほんとうに『ヒトを愛する』とゆうコトがデキるのは女性だけだから…とでもゆっときたぃ気はするが。けれどそのよーな想念がけっきょくは、筆者においてもごくごくフツーの凡人として、『性的関係の存在を信じたい』…てコトの表れなのかも。

ところで「Z」における、シリーズ前作での『ララァ×アムロ』の出遭い(そこね)を反復しての、『ニュータイプ同士の究極の交感』チックな描写。…とゆうモノがやたらにある中で、作の大詰め直前での『ハマーン×カミーユ』は、チョッと異なったモノになってる感じ(第47話)。ソコで対峙したニュータイプ2人はお互いの中に、それぞれの『見たいイメージ』を見るのだ。
まずはカミーユ君につぃてゆうと、カレはハマーンの中にカレが特別に見てる女性たちのイメージらを、次々と見る…次々と。さすがわれらのカミーユ君、幼なじみのファから『女好き!』と叱られて『悪いかよ!』と、パックン開き直りやがった≪あたる君≫だけにッ。
ソレはともかく、やがてカミーユ君の目にするイメージらは、カレの亡母とゆうイメージに収束する。その最終的な『想像(イメージ)』の中には、過去の若き母と幼きカミーユ君がいる。その2人は希望と喜びに満ちて、幸せそーだ。
その一方のハマーンが見るイメージは、そんなにもりだくさんではなくて。まずはシロッコとシャアのイメージがフラッシュし、次には過去の、あどけない少女だったころの彼女自身と、そして兄と慕ったかってのシャアとのラブラブっぽぃ2ショット…ソレを彼女は、カミーユ君の中に見る。

コレを極端に単純にゆうと、ハマーンはカミーユ君の中にシャアを見ており、カミーユ君はハマーンの中に自分の母を見てるのだ。そしてそれぞれのイメージはそれぞれに、いまは求めえぬ幼時の至上の幸福を…永遠(とわ)に失われてしまったソレを、チラリとかいま見せるのだ。
とゆうワケでこのご両人は、対峙しながら『同床異夢』をきわめてる(かと見れる)。にもかかーらず、カミーユ君はカレらが『同じものを見た!』と言い、そして『ヒトは分かりあえるんだ!』と言う。
けれど一方のハマーンは、『よくもズケズケとヒトの中に入る!』と言い棄てて、たったいまの幻視を…『ニュータイプ同士の交感』を不快感とともに否定し去り、そして再びカミーユ君にケンカを売り直すのだった。(『Pt.3』へ続く)

≪性的関係≫は存在しない Pt.1 - Zガンダム(3)

前のハナシの続き、「機動戦士Zガンダム」のTVシリーズを最終回まで見直したイキオイで、この堕文をひとまずの〆くくりにしよーとしつつ。
さてだがガンダムシリーズの続編や姉妹編らを語ろーとするコトは、逆にオリジナルの初代ガンダムがどーゆうシロモノであったか…をも語るコトになり気味なンではなかろーか? 筆者は「Z」の直前にその初代のTVシリーズをまた見てたンだが、1つ気づいたコトがある。

まず、初代ガンダムのストーリーの流れを、1.宇宙編(上)、2.地球編、3.宇宙編(下)、と、だいたい3つのパートに分けて考えるコトがデキそーだとして…(ご存じの劇場版『3部作』の構成と、ほぼ同様に)。
そして筆者が見て意外だと感じたのは、かの≪ニュータイプ≫とゆう話題がワリと大々的に出てクるのは、やっと第3パートになってから、とゆうコトに対してだ。自分のイメージの中の「ガンダム」シリーズだと、その≪ニュータイプ≫とゆう話題はもっともっと大きく全般テキに支配テキなモノだったのに!
(細かく申すと、第1と第2のパートでヒトビトは、アムロ君のコトを『何か特別だ』とか『エスパーかも知れない』とかゆっている。がしかし、『ニュータイプなのでは?』とハッキリは、言わない)

ソレを見た上で視点を大ロングにすれば、SFやファンタジーの世界で『とんでも設定』の利用は大いにアリだとしても、ソレをケツ末のトコで提示するよーな構成は上品ではなさげ。つまりフツーは、『もしも超能力があったら?』のよーな≪設定≫が早めに提示され、ソレを前提としてお芝居が展開される。
ソレがその逆に、フシギな事件が次々と起こった上でのケツ末で、『実は超能力によるシワザでした~』と、≪設定≫がさいごに提示されるよーなモノ…すなーち『とんでも設定=オハナシのケツ論』になってるよーな構成は、品格に欠けるンではなかろーか? そして作品のスケールの大きさに比例して、そのはしたなさはより目につくよーになる。ムカシのコトバで『ショート・ショート』とゆったよーな極小規模の作品だったなら、『設定=ケツ論』はモンダイだ、ナドとゆってるヒマもないし。

ところがだ、逆に初代ガンダムは、その≪ニュータイプ≫とゆう『とんでも設定』の提示をさいごの方にもってクることによって、大きな効果をあげている。フツーなら好まれないよーな『設定=ケツ論』とゆう構成が、ココにおいては大成功してる、と見れる。

とゆうのは…。初代ガンダムの実作を見ておれば、さいしょ『敵ジオン軍が追ってキやがるので、主人公らのホワイトベースは必死で逃げる』とゆう分かりやすさで始まったストーリーは、やがてホワイトベースが地球連邦軍に組み込まれ、わざーざ遠くからオデッサの決戦場に向かうよーなトコらで、その様相を変えている。
ソコいらで『追われるので抵抗しつつ逃げる』とゆうサスペンスの直接性が薄れてキて、やや引いた目で見ての戦争のヒサンさが描かれるよーになっている。さいしょ『自分は死にたくない!』とゆうキモチだけで≪戦闘≫をしてた作中ジンブツらはソコらで≪戦争≫を眺め、『なぜこのよーな、死の大量生産がなければならないのか?』…とゆうキモチをいだき始める。
で、そのパートをやや過ぎたあたりで、つぃに≪ニュータイプ≫とゆうとんでも設定がイキ始めるのだ。つまりそのよーな大戦争のヒサンさに、『人類がニュータイプへと覚醒するため』とゆう理由がツキ始めるのだ。

この堕文は『初代ガンダム論』ではないので、超ハショッて申すが。かくて≪ニュータイプ≫とはナニかとゆうと、その作中で人類が『宇宙世紀』とゆう時代に開けてしまったパンドラの箱…数々のヒサンすぎる悲惨がソコから飛び出てキた箱の、いちばん奥に見出された≪希望≫に他ならない。
ナドと筆者がカィてると、≪ニュータイプ≫ごときはゼンゼンそらぞらしぃ作りバナシかのよーだが。じっさいそーではあるのだが、しかし実作を見ておれば『そうだな。』とゆう気になりがちなのが、その作劇のスゴぃトコだ。何ンせ≪メシアニズム≫とゆうのは全般に、追い込まれたヒトらがさいごに喰ぃつくモノであり。そして初代ガンダムは、そのさいしょの2/3を使って見る者らを心理テキにぞんぶんに追い込んだ上で、さいごその『感動のラスト』に向けて≪ニュータイプ≫とゆうメシアニズムを提示してるのだ。

そして、『ヒトは、分かりあえる』とゆうニュータイプ主義の一大スローガンが、『ヒトビトが聞きたがってるコトバ』に他ならないとゆうコトもまた、いちおうは強調しとくべきだろう。アタリマエだが商業的にヒットするよーな作品らとは必ず、『ヒトビトが聞きたがってるコトバ』を提示するよーなシロモノではある。そしてニュータイプ主義の導くところにより、ナニがあっても『いずれは分かりあえる』ハズなので、目の前のアンマリなヒサンさごときは気にしなくともイイらしぃ。そーしてヒトはいつか、時間をも超越デキるらしぃ。
ただし賢明なる皆さまに対しては言うもさらなりだが、時間を超越デキないからこそヒトはヒトなのであって、ゆえにチッとは必死になって、≪現在≫を生きなければならない。

で、そンなよーなコトらを、初代ガンダムとゆう作品が提示してたとして。…やっと本題(!)、われらが見てる「Zガンダム」とゆう作品は、初代の提示した物語のケツ論(らしきもの)を、『否定してるが否定してない』、『否定してないが否定してる』、と、まったくありえざるアイマイなタイドで継承してるのだった。
コレはつまり、『設定=ケツ論』とゆう初代のアクロバット的な作劇でひじょうに有効だった≪ニュータイプ≫とゆう設定が、続いた「Z」におけるオハナシの『前提』としたら、まったくマトモには機能しなかった(!)…とゆうコトを示してるかと見ゆる。(『Pt.2』へ続く)